先週、久しぶりに国立劇場で歌舞伎を鑑賞した。出し物は悪を懲らしめるクールで知的な鬼平犯科帳の吉右衛門演じる「石川五右衛門」。鬼平のイメージの反対の、稀代の悪党といわれる五右衛門をどう演じるか楽しみ。釜茹でのシーンをどう見せるかも期待の一つだった。大盗賊とはいえ、五右衛門を憎めないイメージにしているのはなぜ?貧者に施しをしたストーリーの鼠小僧と重なっているのかな?
それに去年の桜の季節、五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と欄干に足をかけ見えを切ったという南禅寺の山門に登り、京都の町を見下ろしたのも、何かの縁。この有名な山門の光景は見られるはず。
吉右衛門が花道に登場した時、えっ、痩せすぎ。偉丈夫の男、筋骨隆々の盗賊の親分のイメージとは違いスマート。もっとも盗賊は忍び入るにも、逃げるのにも身軽でなきゃすぐつかまってしまうじゃないか。これが現実だったに違いない。
ストーリーは母親のおなかに入っていた時から始まる。五右衛門は実在の人物だが、色々庶民受けするように脚色されている。血のつながった家族には恵まれなかったが、彼の周りには善意の人ばかり。当然、五右衛門は善意のかけらもない冷酷非道な完璧なる悪党ではなく、自分の子供に対する情の熱い男として描かれている。
昔、京都のどこかのお寺で、これが五右衛門が釜茹でされた大鍋だというのを見たことがある。真っ黒な鉄でできた大鍋だった。その時まで私は五右衛門はフィクションで実在の人物だとは思っていなかった。悪党でもこのような残酷な処刑には、庶民の同情が集まったろう。それで五右衛門の名前が残り、語り継がれ、歌舞伎の世界でも庶民の娯楽になったのだろう。今回は釜茹でのシーンはなかった。
桜満開の派手やかな南禅寺の「絶景かな」のシーンはあった。実際の南禅寺の規模の大きさ、それに歌舞伎特有の華やかさと、現実の緑深い南禅寺の境内とのギャップがあったが、あの有名な見えをこの目で見たぞという満足感があった。
誰でも名前を知っている人物の話は、面白い。フィクションとはわかっていても、話の中にのめり込ませるし、それに歌舞伎の華やかな舞台の非現感は、日常を忘れさせる。
それに去年の桜の季節、五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と欄干に足をかけ見えを切ったという南禅寺の山門に登り、京都の町を見下ろしたのも、何かの縁。この有名な山門の光景は見られるはず。
吉右衛門が花道に登場した時、えっ、痩せすぎ。偉丈夫の男、筋骨隆々の盗賊の親分のイメージとは違いスマート。もっとも盗賊は忍び入るにも、逃げるのにも身軽でなきゃすぐつかまってしまうじゃないか。これが現実だったに違いない。
ストーリーは母親のおなかに入っていた時から始まる。五右衛門は実在の人物だが、色々庶民受けするように脚色されている。血のつながった家族には恵まれなかったが、彼の周りには善意の人ばかり。当然、五右衛門は善意のかけらもない冷酷非道な完璧なる悪党ではなく、自分の子供に対する情の熱い男として描かれている。
昔、京都のどこかのお寺で、これが五右衛門が釜茹でされた大鍋だというのを見たことがある。真っ黒な鉄でできた大鍋だった。その時まで私は五右衛門はフィクションで実在の人物だとは思っていなかった。悪党でもこのような残酷な処刑には、庶民の同情が集まったろう。それで五右衛門の名前が残り、語り継がれ、歌舞伎の世界でも庶民の娯楽になったのだろう。今回は釜茹でのシーンはなかった。
桜満開の派手やかな南禅寺の「絶景かな」のシーンはあった。実際の南禅寺の規模の大きさ、それに歌舞伎特有の華やかさと、現実の緑深い南禅寺の境内とのギャップがあったが、あの有名な見えをこの目で見たぞという満足感があった。
誰でも名前を知っている人物の話は、面白い。フィクションとはわかっていても、話の中にのめり込ませるし、それに歌舞伎の華やかな舞台の非現感は、日常を忘れさせる。