気が付いたら、ここ久しくお会いしない人がいる。 足の悪いご主人が肺がんの手術をして数年、近年肺がんの転移が見つかり、手術不能。近くのクリニックのドクターが時々訪問してくれるという人だ。
「最近見ないね。どうしたのかしら?」
「ご主人が具合悪いんじゃない?」
「この間あったよ。12月いっぱい,仕事をお休みするって。」
「えっ?」
「ご主人が入院して、最後くらいはずっと一緒に居たいって」
「最期くらい?」
「手がかかって大変だって言ってたけど、やっぱりご主人を愛してんだね」
「口と心は違うのよ」
「もう回復の見込みはないみたいよ。彼女、よくやっているよ」
「仕事をしながら、介護もね。」
彼女は前からご主人が最期の時をむかえる覚悟はできていると言っていた。そしてその時が自宅で来ても、動じないように外堀を埋め、準備をしていた。
救急で入院したのだろうか。介護する人の立場に立ったら、病院の方が安心だ。急変した時、ボタン一つで、看護士さんが呼べるし、気休めに終わったとしても、専門の人にゆだね、自分の介護が不十分だったなんて後悔することもないだろう。
我々、部外者は、彼女が、彼女のご主人が、今どんな状態にいるのか全く分からない。ご主人が回復する可能性だって否定できない。
また元気な姿で、「お父ちゃん、元気になったよ。まったく手を焼かせる人なんだから」と大きな声で明るくふるまう姿を、現すことを期待している。
それにしても、なんでも相談でき往診してくれるドクターがいて、ターミナルケアをやってもらえる病院がある彼女がうらやましい。私など、自分の最期をどこでどう迎えるのか、野垂れ死にするのか、まったく予想もできない。もっとも死んでしまったらどうでもよいことか。