朝食後、急須に、お茶の葉を入れ、茶碗に熱湯を入れ、ちょっと温度が下がったのを確認してお茶をいれ、飲む。心がゆったり、本当にくつろげる。日本人でよかったと思う一瞬である。最近の若者は、簡単便利なペットボトル茶を、水代わりに飲んでいる。我が家に時々やってくる孫たちに、飲まないのがわかっているのに私はお茶を入れる。一口でも飲み続ければ、ペットボトルと全く違うお茶のおいしさに気が付くだろうと。
最近はわざわざ急須にお茶の葉を入れて、お茶を飲む人が少なくなったのか、冠婚葬祭の引き物としてお茶の葉をだす家がほとんどなくなったせいか、ストックとして貰い物のお茶の葉が我が家の冷凍庫にはあったが、ついにすっからかん。古くなって色の変わってしまったお茶葉を乾煎りしてほうじ茶にした日々が懐かしい。
スーパーでお茶売り場に足を向けると、知覧茶が見つかった。
昔、東急デパートの地下の食品売り場で試飲したことを思い出す。色と言い、味と言い、なんとも言えない高級茶が乾いたのどを潤してくれた。値段は驚くほどリーズナブル。これが知覧茶との出会いだった。知覧が九州の地名であることをその時はまだ知らなかった私。もちろん買って帰った。渋谷に行くたびに買って帰ったものだ。
ある時、実家の隣の「本家」に寄ったことがある。「お茶でも飲んでいきな」と声をかけられ、ずうずうしく上がり込んだ私は、びっしり飾ってある年寄りの写真や肖像画に囲まれていた。その中に明らかに軍服を着た若者がいた。「これ、だれ?本家に軍人がいたの?」で話が展開した。
凛々しい姿の彼は本家の跡取りで、東京農大生だったが、学徒動員で神宮外苑を行進し、実家に帰らずすぐ、知覧いき、行きだけの燃料を積み、アメリカの船に突進、帰らぬ人になった由。神宮外苑の行進?知覧茶の知覧?説明してくれたのは、本家の次男の奥さんで、私が第二次大戦の知識があるものと思っていたようだが、私の知識は部分部分の切れっぱなしで、ちんぷんかんぷん。
彼女は知覧に行き、義理の兄の写真にあってきたとか。私が興味を示すだろうと、絹の綿入れの袋に大切にしまってある勲章やら、天皇からいただいた陶器の入れ物やら、お盆に乗せて持ってきて見せてくれた。そして白い大きな絹地も。その真ん中には真っ赤な日の丸(があったような)と、太い文字、細い文字の寄せ書き。アメリカ国内、日本国内、所有者だった人の縁者を探し歩いた証拠の墨のにじみ、痛々しい。手にいれたアメリカ人がきっと大切なものに違いないと、新聞社に送ってきたものとか。新聞記事になったとか。
今年は戦後80年。ノーベル平和賞が日本に。そして第2次世界大戦の最後の最後に,死んでいった若者。日本は未来のある若者、夢も希望もあったであろう若者を、この世から抹殺してしまった。その特攻隊員の一人が私が子供時代、遊びまわっていた隣の「本家」で生まれ、大学生になり、死を覚悟し、徴兵に従い、死んでいった。隣で確かに生きていた若者へ私の心は揺れる。