横浜ブルク13で湊かなえ原作/中島哲也監督・松たか子主演の『告白』を観ました。映画

この映画館では、20時以降のレイトだと¥1,300で観られるのが素晴らしいニコニコ
近所だとこういう使い方が出来るから有り難いですドキドキ
ところで、最初この映画館名を聞いた時は、「いったいどういう名称なんじゃ?」と思いました。
ゴルゴ13を捩ってるのかと本気で思いかけましたが、ンなワケないですね。スクリーンが13あるからでした。んでも、“ブルク”って何だろう…はてなマーク
なんてことはどうでもいいですね。さて、映画の感想。

おもしろかった!
こないだ『アウトレイジ』を観た時は、今年これ以上の出来の映画が登場するんだろうか…と思いましたが、これも是非多くの人に見てもらいたい作品です。
『アウトレイジ』よりオモシロイかどうかはともかくとして、映画として堪能できました。
ところどころ演出過剰だなと思うところは様々ありましたが。

『アウトレイジ』がカンヌの正式出品作になったんだから、『告白』もヴェネツィア映画祭とかで上映されて良いのではないか。(暴力100%映画がカンヌに招かれたのは、作品の出来が素晴らしいというのは当然ですが、“TAKESHI KITANO”作品だからというのもあると思う)
海外の人がこれを観て、どのような感想を持たれるのかぜひ聞きたいところです。

これ、『CUT』で監督と松たか子のインタビューを読んだ時、内容としては素晴らしいのかも知れないけど、重~い、地味~な映画だと思い、最初は観る気はありませんでした。
原作の存在を知りませんでしたから。
ただ、松たか子の表情が、“何とも形容しがたい素晴らしさ”と評価が高く、「一体どんな表情をしたのだろう」という興味はありました。
そんな時、本屋で『告白』を手に取り、斜め読みでしたが、一冊丸ごと立ち読みしました。さすがに足が痛くなりました。ま、いつものコトですが。
んで、この原作がとにかく素晴らし過ぎるんです!!!それで、映画を観にいく気になりました。

原作の素晴らしさに心酔したので、進行が早い映画の内容が物足りなく思えました。
内容がよろしくない、ということではなく、2時間以内に各人物の心情と行動を表現しなけりゃならないんですから、当然、端折っているエピソードがありますし、文章でそこに至るまでの心情の過程を説明するのと映像でそれを表現するのとでは、状況がまったく違いますから、それは仕方がないですねガーン
じっくり読んでキャラクターの精神構造を覗く作業に没頭できる小説の方がやっぱり有利です。
でも、いろんな人物の独白と行動がからみあって物語が進んで行く演出はテンポが良く、それは見ていてわくわくしました。映像と台詞あってこその展開で、これは小説では出来ない。
原作と映画、両方楽しむ醍醐味ですね。

主要人物たち(特に爆弾をつくる修哉)を、特別なオーラがある人物として登場させないのも良かった。
教室のクラスメイトたちを見ても、どの子がどの役をやってもいいような、ごくごくフツーの風貌。一見、どこにでもいるフツーの中学生という2人が事件を起こしちゃった、というスタンスが良かったです。
監督は「モンスターでなく、普通の人間として描く」ことに神経を配っていたようですが、それは見事に成功しています。あ、でも美月ちゃんはすごくキレイな女の子ですけどネリボン

しかし、修哉が爆発を想像するシーンをあそこまで長くするなら、直樹の犯行に至るまでの精神状態をもうちょっと描いてほしかった。
原作を読んでいたから助かったけど、何も分からずに観ていたら、たかが性格の悪いクラスメイトに「きみは失敗作だ」なんてちょっと囁かれたくらいで、生きている女の子を殺そうとするでしょうか?
感電した女の子が動かなくなったとき、あれほど“死”に怯えていたというのにです。
原作では心情を理解できましたが、映画では、傷ついた心が生んだ衝動的行動というより、ただの単純バカにしか見えませんでした。

とは言え、主要人物たちの“独白”を絡めて事件がが進行していく過程は、小説とはまた違う味があっておもしろかった。
『CUT』やパンフレットのインタビューで、監督が、「ここで、みんなが言っている事が嘘か本当か分からない』ということを言っていますが、私はこれを読んで、混乱しました。
言いたいことは分かりますが、ピンとこないのです。もっとも、監督のコメントに賛同できなくてもまったく構わないし、観客が同意しなくても監督は気にしないと思いますが。
私は、原作でも映画でも、みんな(主要人物たち)は本当のコトを言っていると思いました。
だって、全員の告白によって、事件の辻褄が合ってるんですから。
誰かが嘘を言っているとするなら、どこか綻びが見えるはずですが、それが全く見えません。
また、誤魔化さなきゃならない人は誰ひとりとしていないんです。
嘘をつく必要がある人物と言えば、森口先生だけです。
原作でも、HIV感染した血液を犯人の少年2人の牛乳に混入したけれど、それを娘の父親である桜宮が普通の牛乳とすり替えてしまったことを知っていた(映画では牛乳に混入すること自体をがに阻止された)。
けれど、終業式でエイズウィルス感染血液を2牛乳に混ぜたと言い、少年2人にそれを飲んだと思い込ませた。
これは、それによって少年たちを破滅させるのが目的だったから、必要な嘘でした。
それに途中で、牛乳に血液なんか混ざっていなかったと“告白”するから、この嘘はアリなんです。

私が感じた“みんなが言っている事が嘘か本当か分からない”というのは、それぞれの“告白”に嘘があるかどうかというよりも、犯行動機とか、突き動かされた思いの底になるものとか、そういう精神的な本質を、告白している本人達が正しく理解していない、ということだと思いました。
例えば、美月ちゃん。
自分は家族を毒殺して世間を騒がせたルナシー(LUNA SEAとは関係ない)は“もうひとりの自分”だと思い込んでる。でも、ンなワケあるハズはない。
薬品を収集しているのも、いつか自殺する時のためのもので、家族に薬物を服ませてその反応をブログに載せて世間の注目を集めるのが目的ではないのだから、明らかに考え方や行動がルナシーじゃない。それなのにルナシーを自分の分身だと思ってる。この勘違いによる自己陶酔が、“告白”の内容の信憑性に疑いを持たせるのではないか。
世の中に、顔が似てる人は居ても、“もうひとりの自分”なんて居ない。似たような価値観を持ってる人は大勢いると思いますが、自分の化身なんて、実際に存在しません。
ルナシーに自分を重ねて観ているのは、ただその妄想に酔っているだけ。本人にはそれが分からず、「本当だと思い込んでいる」だけで、他の人もそう。ここでは美月ちゃんの例を挙げましたが、勘違いによる思い込みで行動するところは修哉も同じです。
修哉が学校に爆弾を仕掛けた動機は「デカイことをやらかして世間を騒がせ、自分をアピールする」ことが目的だと修哉本人は思い込んでいますが、
映画で森口先生が指摘した通り、それは、家族を捨て研究者として生きたはずの母親が、再婚して新たな家庭を持った。それを知った修哉は自暴自棄になり、周り中を巻き込んで爆弾で死のうと思った。
「デカイことをやらかす」ために爆弾を学校に仕掛けたんじゃない、母親に見捨てられたと思いこみ自棄になって爆弾で死のう、と思ったのが本当の動機だった…。
このように、本人達は“真実”だと思って語った言葉は、違う立場の人から見て冷静に分析すれば、嘘をついていると取られかねないような勘違い(間違い)だったり的外れな考え方だったりするのです。
私にとっては、その精神状態がこの物語のキモかな、と感じました。
(違ってたって構わん、自由に捉えていいって監督言ってんだし。…って何今から言い訳してんだ私ガーン

何度も言うけれど、この“告白”は、一つの事件に関わった、人格も環境もまったく異なる人物たちそれぞれの思いが語られているのが素晴らしい。
思い込み、自己弁護、自己正当化、妄想、被害者意識、異常な見識、過保護、幼児性、etc. これらは誰の心にも巣食うもの。
自分や周りの人間が、まったく同じ物事を見ているはずなのに、まったく違う捉え方をし、正義も正当性も虚偽も犯罪も何もかもが混濁しそうな人間の精神構造や言動を追う事がとても楽しかった。

自分が森口先生だったり、彼女の身内だったりしたら、どうするか?彼女がとった行動を支持するか?同じ行動をとるか?私は頭の血の巡りが悪いから、こんな周到な復讐はできないと思いますが、多分、間違ってると思っても、責める事はできないでしょう。責めようという気すら起きないかも。自分に取って大事な人が被害に遭ったなら。
赤の他人だったら、言いたい放題だとは思いますが…。


終盤の「大切な人をなくす音、私も聞きましたよ。パチンじゃなくて…ドッカーンって」
「なーんてね」
という台詞は、頭の中に刻み込まれました。
森口先生の凄みのある表情と一緒に。