↑ 1976年3月12日 ストーク2度目の飛行(109.3m)

 

■3月3日走行テスト

 2月29日ロールアウト式が終わり、3月に入っても小雨が続いた。天候の合間を見て塗装の上塗りを行い、戸外に出して初めての写真撮影も行った。

 3日から走行テストを開始。機体を動かしての試験はこれが最初なので、ゆっくり走らせてみた。速度は伴走者が小走りで付いていけるまでとし、走行時の直進性、各舵の反応を確認しながらパイロットの初期完熟を行った。

 尾部車輪(垂直尾翼下部)には小型のキャスターを使ったがこれは失敗だった。舗装面の凸凹に比べ車輪直径が小さく、凸凹を乗り越える時の衝撃が大きく実用に耐えないとわかった。接地時の衝撃を受け止め、尾部重量を支えるにはどうしたら良いかと考えたが、耐摩耗性が高く滑り摩擦の小さい樹脂製の「敷居滑り」を貼り付けることにした。衝撃を吸収するクッションは成形材の発泡スチロールに期待することにした。結局この判断で以後問題は発生していない。

 翼端ソリをピアノ線1本としたが、根元から折れた。とりあえずU字形に改修。

 

■5日高速走行テスト

 速度を上げながら、走行状態と舵の効きを確認した。試験中は正常で特段の問題は感じられなかった。機体は滑走路上を左右に方向転換でき、加速もスムーズに行えた。

 試験終了でパイロットがパワーオフし減速しようとしたところ減速の様子は見えず、高速(人の全力疾走より少し遅い程度の速度)のまま舗装路から逸脱し始めた。

 私も主翼の前に立ちはだかり機体を止めようとしたが、何せリブが弱く強い力で押しとどめることには躊躇した。皆が減速させようと思ったのだが、とっさのこともあって強い力を掛ける場所が見当たらず困惑すると同時に、松並木が目前に迫り、瞬間主翼衝突は避けられないと思った。

 私は主翼前縁に手のひらを添え強度的にギリギリと思える力で押し、他の何人かもコクピットカバーや主翼を押さえ制動した。結果、松の木に衝突する直前で機体を停止させることができた。

 

■反省

 いったん走り出すと、こうも止まらないものとは夢にも思わなかった。止まらないことは高性能な証なのだが、一歩間違うと主翼を破壊する事故を起こすところだった。

 考えてみると、これまでにかかわった先輩たちの機体には、自転車用の小径タイヤが取り付けられており、ブレーキを掛けなくてもペダルの踏み込みを止めると実用的に停止してくれた。これに比べストークの車輪はロードレース用の低抵抗車輪だった。

 企画段階から想像力を膨らませ、起こり得る困難を想像し最後の一点までしらみつぶしにつぶしてきた。指の隙間から一滴の水が漏れることはあるかもしれないが、機体を全損するような大きな問題は内蔵していないとの自信もあった。それが完全に打ち砕かれたのだ。

 思いもよらぬ瞬間に刺客が現れ、切っ先が我々をかすめた。

 

■対策

 「ブレーキを着けよう、取り付け方法は考えてある」と即答したのは小美濃さんだ。こういう時、とにかく小美濃さんは頼りになる。

 操縦桿(ハンドル)下のフレームパイプ集合部に取り付けられたステンレス製のガセットプレートに、自転車用ブレーキがドンピシャ取り付いた。

 その後エレベーターを引きさえすれば浮き上がる直前までの速度(高速)で走行テストを繰り返し、ブレーキ、ラダー、エルロンなどの効き具合を確認し良好な結果を得た。またパイロットの慣れも進んだ。

 

■天気図

 中禮さんはパイロットの立場もあり毎日天気図を描いた。当時はラジオ放送から気象庁の情報が流されたが、航空部に所属していた中禮さんは、天気図を書き取る教育を受けていた。1973年EGRETの試験で機体が突風に舞い上げられ全損した経験から、天気図把握の重要性は皆が理解していた。

 3月1日から15日まで、休日の5、6、7日を除いた天気図が残っている。

 ↑ 1976年3月15日 天気図

 

■3月11日高速走行試験

 記録には、滑走路東端から西に向かってスタートし、60%パワー、あるいは自転車で35km/時程度のパワーで、7.5~7.7m/秒で定速走行できた。途中チェーンのジャンピングが始まったとある。

 帰路横風により機体が左に大きくとられ、逆舵で機体を安定させようとしたところ、グランドループ様の右回転で急停止、左からの風で右翼端が路面に強く落下した。この衝撃でU字型翼端ソリが主翼を突き抜け、桁を折った。

 これは翼端ソリから強く落下することは想定しておらず、クッションが効く構造になっていなかったのが原因だった。

 走行テストは終了とし、急遽翼端ソリをクッション効果のある形状に改造した。

 ↑↓ 1976年3月11日 高速走行試験

 

■12日試験飛行(初回)

 朝から小雨模様で、雨の合間を縫って試験を行った。まず高速走行を1往復行った。

飛行は、離陸、低空飛行、接地を繰り返し、都合3回のジャンプ飛行となった。

 右前からの向かい風の中、ジャンプ1回目15時/距離71.8m(私のメモには71.7m)、2回目/83.4m、3回目は記録なし。

 細心の注意で作りあげた機体が初めて空に浮かぶ瞬間を皆が目撃した。軽々とそして穏やかに飛ぶ姿は正に幻想的であった。

 大きな歓声を上げる者も泣く者も出なかった。皆が静かな感動の中にいた。生出さんは感動の余り全身に蕁麻疹が発生、発疹は夜になっても回復しなかった。

 パイロットの感想は、体感的には60~70%パワーで飛行しているとのこと。

 外見的には軽々飛んでいる感じで、操縦は舵が良く効き不安感など全く感じなかった。

 地上滑走と停止を受け持つ人間は、滑走路上の定位置に配置し待ち構えることにした。判断力のある者を出発側に多く配置したこともあって、機体を受け止める側はどうしてよいか分からず、うろうろするばかりで要領を得なかった。停止直前機体は風にあおられ、風上側の翼が持ち上げられうろたえる様子なども散見された。

 翼端ソリはクッションが効くことは確認されたが、荷重に耐えきれずピアノ線が根元から曲がり変形した。U字型の細いピアノ線を添えることで対策とした。

 チェーンのジャンピングは原因不明の要因で数のフライトに一回の割合で発生した。

 飛行試験2回目日暮れ/距離109.3m。チェーンのジャンピングは発生せず。ジャンピング対策としてテンショナーを追加することにした。

 8.5~9m/秒の速度で離陸、高度2m強で飛行。

 ↑ 1976年3月12日15:00ストーク初飛行ジャンプ3回、最長飛行距離83.4m

 

 

■感動の表現について考える

 鳥人間コンテストなどを見ると、大声で泣いたり、喜び歓声を上げる姿を毎回のように見るが、われわれの時とは何かが大きく違うように思えてならない。

 我々の場合は、理論と技術で詳細におさえ飛行成功の確信を抱きながらも、それでも潜んでいるかも知れない何かの齟齬を見極めようと試験に臨み、挙動に神経を集中させた。対する鳥人間コンテストでは成功するかどうか、そのこと自体が殆どのメンバーにとっては一か八かの勝負で、成功すれば大騒ぎ、失敗すれば泣き崩れる、そういうギャラリー達の気持ちが体で表現されているように見える。

 1976年初夏、TVドキュメンタリー番組「知られざる世界」の取材でディレクターとして結城利三さんが来られた。広く質問され楽しい時間を過ごしたのだが、初飛行で誰も歓声を上げたり騒いだりしなかった、と話したら「あなたの言っていることは嘘だ!」と強く即答され、遂に話はかみ合わないままとなった。結城さんは「鷹と老人」(カンヌ映画祭ドキュメンタリー部門ユーロビジョン・グランプリ受賞)を制作された方で、感動のバリエーションや深さについては深いものをお持ちだと思うのだが、私たちの感動を理解していただけず、その原因がどこから来るのか、私の中で課題として残った。

 この点について今回メンバー達(生出、大関、高橋、神原、土本)に連絡を取り、意見を聞いた。皆の意見は私も含めほぼ同じで、しっかり隅々まで気を配り設計し作った、だから飛ぶこと自体への心配は大きな問題ではなかった。技術的視点から飛行を観察し、計画通りきれいに飛んだとの印象で初飛行を終わったとのことだ。プロジェクトの途中、何かを不完全なまま放置したり厚化粧でやり過ごすこともなかった。初飛行を、感性感情で捉えるか、技術で捉えるかの違いだろうとの意見もあった。取材側にとっては一か八かの飛行と捉えざるを得ない(取材側が理科系を理解できない、かつ視聴者も泣き笑いが分かりやすい)のだろうから、そういう場面ばかりが切り抜かれ編集されているのかもしれない。飛ぶはずのものが期待を裏切ったなら、原因の全ては飛ばないように設計し飛ばないように作ったことにあり、だから飛ばなかっただけのことなので、結果に泣き崩れる暇があったら、その原因と謎に意識が集中されて当然と思うのだ。

 

■操縦索の切断

 ラダー索はステンレス製7×7径0.72mm航空用を使った。索の太さは設計計算値に必要な安全率を掛けて必要な太さとした。また操縦桿にはストッパーがあり、大きな力を加えても理論通り以上の力は作用しないように作った。

 切断の原因は、索ガイドに真鍮パイプを使ったためで、エッジで擦れ索の素線が負け切断したのだ。真鍮パイプを釣り竿用ガイドに変え以後トラブルはなくなった。センスと感で解決する方法は、鮮やかであると同時に致命傷も内蔵する。

 操縦索の切断は事故として深刻な問題で、今回は容易に解決したものの、高度を取る機体であれば、ラダーフリーのまま着陸せざるを得ず、またこれがエレベーターであれば最悪墜落も考えられる。

 

■12日の感想と反省

1 飛行は安定しており、予定通り飛んでいるという様子で大変美しい。

2 これまでの日本記録203m越えは、次回飛行で達成できるかもしれない。

3 飛行場の距離条件が整えば、設計目標の500m飛行は、十分実現可能と思える。

教訓は、

1 風に憶病になれ。

2 地上で機体を受け止める人の訓練。

3 機体の出来映えは大変良い、あとはパイロットに任せるべし。

4 横風1m/秒ならよし。向かい風3m/秒ならよし。

 

■13日試験飛行(二日目)

 1回目14時30分/距離139m時間17秒、2回目/測定せず、3回目夕暮れ/距離286.7m(私のメモ283.5m)時間36秒。

 風が不安定で強くなり、地上移動中追い風状態でエルロンを切ったところ、エルロンが後方からのかなり強い風であおられ振り切れ、エルロンロッド(バルサ製丸材)を折損。原因はエルロンコントロールケーブルの伸びにより舵が振り切れ、ロッドが周辺構造物に干渉したためだ。

 2回目の飛行では、突風にあおられ強行着陸を余儀なくされた。穏やかそうであっても、風向風速が不安定な時は飛行を中止するほうが賢明だと思う。

 ↑ 1976年3月13日14:30 ストーク139.0m飛行

 

 ↑ 1976年3月13日 ストーク286.7m飛行(日本記録更新)

 

 

■14日最長距離を飛行(三日目)

 朝6時「風が無いぞ」との声で起床、6時10分格納庫シャッターが開く。

 1回目6時30分/距離446m、時間56秒(私のメモ57秒)、最高高度3m、体力に十分な余裕あり。

 2回目7時/距離435.5m、時間54秒

 3回目8時30分/距離368m、時間46秒(私のメモ59秒)

 4回目3時30分頃/完熟飛行とし測定せず。

池田先生が来られ歓談、ビール券を頂いた。

 この日は、目標とした滑走路エンドギリギリまでの飛行に成功し、S字飛行で旋回の可能性も確認できたという事もあって、皆に胴上げされた。勢い余った仲間たちは私を捕まえたまま図書館前まで連れて行き、池(どぶ池)に投げ込んだ。この時の様子は8ミリフィルムに残っているのだが、はしゃぎながら満面の笑みで投げ込むメンバーと、そこまでやるのかと冷めた様子で見守るメンバーに加え不満そうな私の表情と、好対照な様子が残っている。

 

■15日木村先生が見学に来られる(最終日)

 大関さんの車で朝6時、木村先生が到着された。

 飛行を見ていただきたく用意したのだが、ぐずぐず降り続ける雨は止みそうに思えなかった。昼近くになってどうにか止んだ隙間に機体を引き出した。ガンピ紙は湿気を含んで伸び、全身皺だらけだった。

 11時10分、距離100~200m高度3mの飛行を見ていただくことが出来た。再度同程度の飛行を行ったが、外皮の皺による抗力増加はすこぶる大きく、ひときわ大きなチェーン走行の音と共に、パイロットに大きな負担がかかっているのが見て取れた。

 メモには木村先生を囲み、皆で鳥料理を食べた「~しょくじをした。」と書かれているが、私にはその記憶がなくメンバー達に聞いても誰の記憶にもなかった。原因を考えるに、毎日こなしたイベントがあまりにも重く慰労会の記憶が残されていないのだろうと思ったが、もしかすると、このメモが事前に描かれた私の計画で、実際は何かの理由で実現しなかっただけなのかも知れない。

 

■卒業研究解散

 卒研は15日をもって終了とし、急ぐ者は15日(14日)をもって格納庫を後にした。「それじゃあ」と言って出て行く者、「もう会う事もないだろう」と最後の言葉を言う者もいた。

 当時は4月1日の入社に先立ち、2週間程前までに会社に出向くのが通例だった。15日まで飛行試験を行うため、就職先に「初出社が通知記載に遅れざるを得ない」と説明し許可を得た者もいた。16日最後の者が格納庫を後に就職先に散った。

 一日の余裕もないまま、すべてがギリギリのプロジェクトとなったが、飛行に成功し、習志野の滑走路を端から端まで飛び、上出来だと思った。

 

■取材

 2月29日のロールアウトから3月下旬まで、多くの方々からお祝いをいただいた。また多方面から取材を受け、新聞雑誌テレビなどの対応に忙しかった。

 私は格納庫を整理掃除し、残務処理のため3月末ごろまで一人活動を続けた。