jadevineのブログ

日本の夏の風物詩には、例年のお盆のUターンラッシュ、墓参り、盆踊り等があるが、大抵はその意味を知る事もなく年中行事としてこの時期、仏教や神道の区別なく行われている。実家で行われる神式のお盆も、神主が祝詞をあげにきて、榊の玉串をお供えする儀式をしているが、筆者は不参加を決め込んでる。(あくまでも形式だけと割り切って、法事は数年前まで参加していた。)

 

お盆は、元々は仏教の「盂蘭盆経」にある親孝行についての逸話に由来し、先祖の霊を供養する意味があるのだが、日本においては、盂蘭盆会は、仏教の「餓鬼道に堕ちた者を供養によって救う」という意味に加えて、日本古来の神道、祖霊信仰(祖先の霊を敬う)が融合した形で広まったという。

「日本書紀」には、推古天皇14年(606年)に「…濯仏会と盂蘭盆会が始まる。」とある。最初は宮中行事だったのが、のちに貴族・武家社会、一般民衆へと広がっていったようだ。

 

仏教は紀元前566年頃インドに誕生した釈迦族の王子、ゴータマ・シッダールタが悟りを説いた教えである。「ゴータマ」:「最上の牛」の意味、「シッダールタ」:「目的を達成する人」という意味。牛が出て来るところで何やら途端に異教っぽく聞こえるのは、勘ぐり過ぎか?

 

悟りを開いた仏陀にはたくさんの弟子がおり、「十大弟子」と呼ばれる優れた10人の弟子がいた。この十大弟子の一人である目連は神通力の持ち主で、あの世まで見通す力があり、目連はその力を使って亡くなった母親の姿を見通したところ、母親が餓鬼道に堕ちてしまい、逆さ吊りにされていたという。「盂蘭盆」という言葉は、サンスクリット語の「ウランバナ」を漢字の音写語にしたもので「逆さ吊り」という意味。「お盆」とは「盂蘭盆」の略字から来ているという。

 

弟子の目連は、自分を懸命に慈しみ育てた母親が、餓鬼道に堕ちていることに驚く。母親は目連が托鉢(たくはつ)に訪れた際に、我が子にたくさんの食べ物を盛り、他の僧には何も与えないという慳貪(けんどん=物惜しみ)の罪を犯していた。

 

それを嘆き悲しんだ目連が、何とか母親を救いたい、と仏陀に相談したところ、自分の力は母親だけのために使うのではなく、同じ苦しみを持つすべての人を救う気持ちを持つように、と諭されたそう。そこで、目連はの毎年7月15日、もしくは8月15日の安居(雨期に行われる僧の修行)を終えた修行僧たちに、食べ物や飲み物、寝床などを捧げたところ、修行僧たちは大変喜び、その喜びが餓鬼の世界まで伝わり、母親が救われたという。

簡単に言うと、お盆とは、文字通り修行僧に施す「ご飯を乗せたお盆」を意味し、その功徳で、先祖の霊が救われるということらしい。(笑)

 

参照:「盂蘭盆」の本当の意味 ―「ご飯をのせた盆」と推定 辛嶋静志氏 - 論・談:中外日報 (archive.org)

 

 

目連の母親は自分の子には食べ物を与えたが、他の修行僧には施さなかったことで死後、逆さ吊の刑にあって苦しんでいた。その母親の施さなかったことの罪を、子が逆に施すことによって親の罪滅ぼしをして救うという話だが、何だかこの盂蘭盆会の話、聖書中の「金持ちとラザロ」の話を思い浮かばせる。貧しい病人のラザロに対し同情心を持たなかった、ある金持ちの死後の世界での苦しみを。ただし、聖書には先祖供養の教えはないのが大きな違い。

 

             

二人が死んだ後、貧乏人の信者ラザロは慰めを得てるのに対し、無慈悲な不信者の金持ち(パリサイ人を象徴)は黄泉でひどく苦しんでる。金持ちは自分が死後こんなに苦しんで悔いてるから、まだ生きている兄弟たちが自分と同じように苦しまずに済むように、ラザロを遣わして彼らに警告をして欲しいと懇願する。だが、聖書には死んだこの金持ちの後悔は書いていても、その嘆願は聞かれていない。

 

  ルカ16:30-31

   金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中から誰かが

   兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』

 

   アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、

   死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れ

   はしないであろう』」。

 

「セカンドチャンスはあるのか」という問いを何度かあげてきたが、福音を聞く機会を得ていながら、真に神を求めようとしなかった、悟ろうとしなかった者について、死後に行いに応じた裁きを受けるのは避けられないとしても、福音を知る機会すらなくこの世での命を終えた者に、斟酌なしに裁きが与えられるとは考えたくないのが人情。というか、愛する者がもし救いの機会も与えられずに、いずれ裁かれ火の池に投げ込まれると思ったら誰だって耐えがたいだろう。

 

黄泉の世界で書かれていないことを推測で語ることは、人間の側の思惑となり、神の意図に反することにもなりかねないが、かといってセカンドチャンスなどないと断定する教えは、果たして正しいのかという疑問がなくなりはしない。そこまで割り切れないし、やはり人間的思考には限界があるというものだ。