今夜はオールします
高校をわけありで、休むからだ
それではYOSHIKIの今まで
YOSHIKI
YOSHIKI(ヨシキ、本名:林 佳樹 [はやし よしき] 1965年11月20日 - )は、日本のミュージシャン。音楽プロデューサー、ドラマー、ピアニストで作曲家。ロックバンドX JAPANのリーダー、プロデューサーとして知られており、ドラムとピアノを担当。また、自身のプロジェクトViolet UKを手がけている。そのほか、V2、globe extreme、S.K.I.N.などのスーパーグループとしても活動がある。自身の不眠症の治療をきっかけに、ライフワークとしてコロンビア大学の医学博士・加藤友朗と共同で音楽療法の研究も進めている[1]。
音楽活動と平行して2008年からエナジードリンク「ロックスター」のエグゼクティブプロデューサー[2]、黒澤明生誕100年祭「AK100 Project」の音楽アドバイザー[3]、2009年からSuper GT童夢チームのチームプロデューサー[4]、アメリカの動画共有サービス「Ustream」のエグゼクティブアドバイザーを務めている[5]。また、グラミー賞の投票権を持つ「ボーティング・メンバー」の一人でもある[6]。
本名は1997年のX JAPAN解散記者会見で公表した。弟に俳優の林光樹がいる[7] 。
出生名 林 佳樹(はやし よしき)
別名 ゲイリー・ヨシキ、
五十嵐美由姫、
立花香流、橘朋実、白鳥瞳、
白鳥龍、白鳥麗
千葉県館山市の裕福な呉服屋の家庭に二人兄弟の長男として生まれる[8]。誕生日を迎えるごとに新たな楽器を与えられるなど、音楽に恵まれた環境で子供時代を過ごした。4歳から自宅そばのピアノ教室でクラシック・ピアノのレッスンを受け、小学校2年で最初に買ったシューベルトの交響曲第8番ロ短調「未完成」とベートーベンの交響曲第5番ハ短調「運命」が収録されたレコードでクラシック音楽に目覚める[9]。とりわけベートーベンに対しては、若くして難聴となりながらも数々の名曲を残した苦難の人生を伝記を通じて知り、強い興味を抱いた。小学校4年から中学校2年までブラスバンドでトランペットを吹く。ピアノでの曲作りも小学校4~5年からはじめる[9]。10歳で自殺により父親を亡くし、父親の死後は母親の手で育てられる[10]。小学校5年まではほとんどクラシック音楽しか聴いていなかったが、キッスの『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』と、母親に頼み連れていってもらったキッスの武道館公演でロックに目覚めたことをきっかけに、ドラムとギターを始めた[7][11]。
小学校6年生で初めてのバンドDYNAMITEを、幼少からの友人であったTOSHIとともに結成。当時YOSHIKIは、ドラムの他にボーカルを担当していた。中学校に進学後、NOISEを結成。ドラムに専念し、キッスやレッド・ツェッペリン、ディープ・パープルなどのコピーをはじめる。高校2年から音大を目指し、本格的にピアノに打ち込む。また音大受験用のプログラムを通してソルフェージュや和声、楽典などの音楽理論を学ぶ[9]。
高校2年の夏、NOISEを解散し、TOSHIと同級生とでX(現在のX JAPAN)を結成。Xの最初のオリジナル曲「I'll Kill You」を作曲。ヤマハ主催のコンテストで千葉県のベスト・ドラマー賞を受賞するほか、Xがバンド・コンテストなどで優勝を重ねる中で次第にバンドとしての可能性に自信を深め、音大の推薦入学も決まっていたピアニストへの道を断つ[7]。高校を卒業すると、青山レコーディングスクール(当時)への入学とバンド活動の本格化のためTOSHIと共に上京。1986年にはXのレコードをリリースするためにインディーズのレコード会社Extasy Recordsを設立。1989年にXの『BLUE BLOOD』でCBS Sonyからメジャーデビューを果たした。
X JAPANのメンバーとしての活動については「X JAPAN」を参照
ソロ活動 [編集]
バンド活動と平行して、小室哲哉とのユニットV2を1991年に結成。1992年からロサンゼルスに自身のレコーディングスタジオを構え、制作の拠点をアメリカに移す。MIDIやシンクラヴィアなどに触れ、コンピューターベースの制作環境に関心を持ち、バンドの枠を超えたプロジェクト、Violet UKを構想する。この時期にキース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』をきっかけにジャズ・ピアノに目覚め、ジャズの理論やインプロビゼーションを学び始める。また、同時期からオーケストレーションについても学び始める[9]。
東芝EMIと1992年に初のソロ契約をし、翌年にビートルズのプロデューサーとして知られるジョージ・マーティンとのクラシックアルバム『Eternal Melody』をリリース。その後もクイーンのロジャー・テイラーとのコラボレーション作品「Foreign Sand」のリリースや、キッスのトリビュートアルバム『トリビュート -KISS MY ASS-』の参加など、世界的に著名なミュージシャンとのコラボレーションがあった。またプロデュース活動も開始し、LUNA SEAやGLAY、ZI:KILLをプラチナム・レコードやExtasy Recordsからデビューさせた。
TOSHIとの離別やX JAPANの解散、HIDEの急逝で精神的に落ち込んでいた1997年からの2年間は、北野井子やDir en grey[12]のプロデュースを手がけるものの、表舞台には一切上がらずにいたが、1999年に天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典の奉祝曲の制作依頼を受け、作曲したピアノ協奏曲ハ短調「Anniversary」を式典で御前演奏[13]。この時に受けた歓声が再起の契機となった[14]。再起後はViolet UKでの制作活動に集中した。プロデュース活動も継続し、TRAX[15][16]のデビューや、2000年に設立したExtasy JapanとExtasy Records Internationalレーベル所属のアーティストのデビューに携わった。2002年にはglobeに加入し、「seize the light」をリリース。後にYOSHIKIを加えた活動時には、ユニット名がglobe extremeになることを発表した。
X JAPAN解散後は、管弦楽曲での活動が増し、東京国際フォーラムで「Yoshiki Symphonic Concert 2002 with Tokyo City Philharmonic Orchestra featuring Violet UK」を2002年に開催。後にDVDとして発売されたこのコンサートは、弦楽器に比重が置かれた16型編成のクラシックスタイルコンサートで、藤原いくろうとコンスタンチン・クリメッツが指揮した[17]。また2005年日本国際博覧会(愛知万博)の公式イメージソング「I'll Be Your Love」を制作し、開会式においてEXPOスーパーワールドオーケストラが演奏するクラシックアレンジバージョンを指揮した[18]。2作目となるクラシックアルバム『Eternal Melody II』もリリースされた。
その他にも、2003年にNHKのテレビ放送50周年記念番組「あなたとともに50年 今日はテレビの誕生日」のエンディングテーマ「君だけだから」、2004年に宝塚歌劇花組公演「TAKARAZUKA舞夢!」で使われた「世界の終りの夜に」を作曲[19]。2006年には、劇場長編アニメーション映画「ベルサイユのばら」の音楽を担当することを発表した[20]。
Otakon 2006でサインに応じるYOSHIKI
2006年の8月5日、ボルチモアで開催されたアニメコンベンション「Otakon 2006」に特別ゲストとして招かれ[21]、翌2007年には5月25日と26日にロサンゼルスのウィルターン・シアターで「J-Rock Revolution Festival」を主宰[22]。アメリカにおけるジャパニーズロックの人気に注目したアメリカの大手イベントプロモーター会社ライブ・ネイションの企画から実現したこのイベントには、アリス九號.やヴィドール、DuelJewel、Kagrra,、Miyavi、D'espairsRay、メリー、ギルガメッシュ、ムックらが出演した。YOSHIKIは、このイベントのオーガナイザーを務め、GACKT、SUGIZO、雅-miyavi-とのロックバンドS.K.I.N.の結成と、6月にロングビーチで開催された「Anime Expo 2007」でのS.K.I.Nのファーストライブ決定を発表した[23]。また、2007年公開のアメリカ映画「カタコンベ」の主題歌制作や[24]、2008年に公開されたアメリカ映画「Repo!」の音楽総監督や製作総指揮、主題歌制作を務めるなど[25]、アメリカにおける活動が増えた。
2008年には、日本テレビ開局55年記念ドラマ「東京大空襲」の主題歌として、秋川雅史が歌う「愛する人よ」を制作[26]。2009年に、日本テレビ系「ズームイン!!SUPER」のお天気コーナーに「Blue Sky Heaven」を提供した[27]。
現在は2007年に再結成したX JAPANの活動に傾注している。
ドラムセット [編集]
基本的にTAMAの2バス (16"x24", 16"x24")、スネア (6.5"x14")、2フロア (16"x16", 16"x18")、4タムタム (10"x10", 12"x12", 13"x13", 14"x14") の構成である[29]。
「音質」を重視するレコーディング用と、「パフォーマンス性」を重視するステージ用とを使い分けており、X JAPANのアルバム「Jealousy」のレコーディングからはTAMAのチタンシェルのセットをラック・システムで使用[30]。チタン特有のドライな音を補うため、比較的薄いドラムヘッドに付け替えている[30]。また、X JAPANのシングル「Rusty Nail」のレコーディングからは、オン・マイクで拾ったスネア・ドラムとバス・ドラムの音をトラッキング・ルームにセットした大型のPAスピーカーからルーム全体に流し、部屋鳴りも同時にルーム・マイクで録るシステムを採用している[30]。この手法によって、オン・マイクのアタック感と、通常のドラム・レコーディングでは得られない奥行きのある部屋鳴りをミックスしている[30]。このシステムは1994年からドラム・テクニシャンに迎えたロス・ガーフィールドが組んでいる[30]。
ステージではこれまでにTAMA アートスター・カスタムのレッドとクローム、TAMA カスタム・アクリル・キット(通称"クリスタル・ドラム")を使用。初期にはレッドが、以降はクロームが破壊パフォーマンスに使用されている。ステージでメインとなるクリスタル・ドラムは、かつてレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムが使用していた事で知られるラディック製が有名だったが、当時は生産されていなかったため、ライブで「ライトによって何色にでも光る」という理由でTAMAとエンドースメント契約し、特注した。その後に一般にも台数限定で販売されたが、シェルがアクリル樹脂素材のため、「あのモデルを買った人は大変だと思いますよ。強く叩かないと鳴らないから」と語っている[31]。ドラムヘッドはエヴァンス。フットペダルはYamahaのベルト・タイプ、FP-910を使用[31]。TAMAとエンドースメント契約する以前のインディーズ時代のステージではPearlのドラムセットにロートタムをセットしていた。2008年のXJAPAN再結成以降は、バスドラムの前面ヘッドのデザインが一新されたクリスタルモデルがライブで使用されている。
シンバル系は初期はPearlのWildシリーズを使用していたが、後にジルジャンに統一された。ハイハット・スタンドはTAMAのIron Cobra HH805[31]。
ドラムスティックはTAMAから市販もされているYOSHIKIのシグネチャーモデル、TAMA H-YKBを使用している[32] 。ヒッコリー材でチップはボールタイプ。全長:398 mm、径:14.25 mm。ショルダー部分が比較的太く、先端にウエイトが置かれている。本人は使用していないが、TAMAからは上位モデルとしてマティロ(滑り止めの塗装)仕様のTAMA H-YKM、YOSHIKIのネームロゴが入ったドラムスティックケース、TAMA TB-YKも販売されている。
レコーディングスタジオ [編集]
YOSHIKIがX JAPANのアルバム『ART OF LIFE』のレコーディングで借りていた、ノースハリウッド・ランカーシム通りNoHoアート地区の老舗レコーディングスタジオOne On One Recordingは、当時メタリカやボン・ジョヴィ、マドンナなどの有名アーティストに人気で予約が取りにくく、スタジオ機材のレンタル料も嵩むため、YOSHIKIが1992年に購入した。『ART OF LIFE』完成時の打ち上げではメンバーがスタジオを破壊し、一部タブロイド紙の地方版にも掲載されるなどアメリカ音楽業界で話題になった。その後、設備の充実化や内部の改築・改修工事を施し、引き続き一流ミュージシャン御用達スタジオとなったが、一番大きく、設備の充実したスタジオAだけは1年分スケジュールをYOSHIKIが自分のために押さえてしまうため、たとえ一流ミュージシャンでも自由に利用できなかった[7]。約300坪の敷地にABCの3つのスタジオとラウンジ、機材室などがある。スタジオAのコントロール・ルームにはメインモニタリングスピーカー Genelec 1035Bと、アメリカ本土最大となる104インプットのミキシング・コンソール (SSL J Series) が備えられ[28][33]、ドラムレコーディングにも実績があるスタジオAのトラッキング・ルームは70人規模のオーケストラが入れる広大なスペースになっている[34]。スタジオBには72インプットのミキシング・コンソール (SSL J Series) が置かれ、スタジオBのブースは主にボーカル録りに使用している[34]。スタジオCにはDigidesign Pro Controlが置かれ、エディット作業に使用している[34]。2000年にExtasy Recording Studio Northに改称した[7]。2003年からは一般へのレンタルを一切やめ、完全なプライベートスタジオとして使用している[35]。Extasy Records InternationalとExtasy Music Publishingも同じ建物内にある。
1998年には、マドンナのマネージャーを務めていたフレディー・デ・マンとレコーディング・ディレクターのビル・ドゥーリーが1993年にビバリー通りに構えたBrooklyn Recording Studioを買い取り、Extasy Recording Studio Southに改称して使用していたが[36]、YOSHIKIがアメリカのバンドのプロデュース活動から手を引いた2003年に手放している[35]。このスタジオには80インプット、32モニターチャンネルへの拡張と、104本のフェーダーのGMLオートメーション化がなされたNeve Electronicsのビンテージ・ミキシング・コンソール、Neve 8078が備えられていた[33]。ここで商業用に貸し出していたスタジオではキッスやヴァン・ヘイレン、ジェーンズ・アディクションなどのほか[36]、1999年にはトレイシー・チャップマンやフィオナ・アップル、マリリン・マンソンといったアーティストがレコーディングに使用している[33]。なお、Brooklyn Recordingでチーフ・エンジニア兼ジェネラルマネージャーを務めていたビル・ドゥーリーが、Extasy Recording Studio Northのディレクターを現在務めている[33]。
DAWソフトはMark of the UnicornのDigital Performerを使用[9]。globeの「seize the light」では、MIDIのプログラミングを含め、Digidesign Pro Toolsを使用して小室哲哉とエディットのやりとりをした[9]。Korg T1、Doepfer LMK4+をMIDIマスターキーボードとして使用している。
TOSHIが X JAPANの再結成に向けてスタジオへ出向いた後、Extasy Recording Studioの設備の充実度はおそらく世界一であると自身のホームページで明かした。両スタジオに備えられたレコーディング機材と、シンセサイザー、ピアノなどの楽器の総額は10億円を越える[28]。YOSHIKIと交流のあるミュージシャンもレコーディングに使用することがあるこのスタジオは[37]、あくまでYOSHIKI個人の所有物であるため、たとえX JAPANのレコーディングでメンバーが使用する場合でも、メンバーの所属する事務所がレンタル料を支払う。
設立レーベル [編集]
1986年、Xのレコードを出すためにExtasy Recordsを設立。後にLUNA SEAやGLAY、ZI:KILLを輩出する一大インディーズレーベルとなる。1994年に ポリグラムグループとプロデューサー契約を結びPlatinum Recordsを設立。2000年にメディアファクトリーの出資を受け、Extasy Japan、Extasy Records Internationalを設立。Extasy Japanはイーストウエストジャパン(当時)と流通契約。Extasy Records Internationalは2000年にワーナーグループの日米協業としては初となるワーナー・ミュージック・グループとの流通契約で、レーベルとして始動した。元々は、ロサンゼルスにあるエクスタシーレコーディングスタジオの運営会社で、YOSHIKIのマネージメント業務も兼ねている。X JAPANが再結成した2008年にExtasy A Musicを、X JAPANのシングル「I.V.」の全世界同時発売時に設立した。
持病 [編集]
初期の頃に頭を激しく振りつつ、力任せにドラムを叩いていた結果、頚椎椎間板ヘルニアや神経循環無力症などを相次いで発症し、これまでに何度もライブの中止や延期を引き起こしている。X JAPANの全国ツアー「DAHLIA TOUR 1995-1996」で倒れた際には、「次に痛みが出たら車椅子生活になる」と医師から宣告された[38]。再発防止のために筋肉で骨を補強するようスポーツ専門家から勧められ、自宅にジムを作って筋肉トレーニングに励むようになった[38]。その結果、見た目が変わるほどにまでに筋肉が強化されたが、回復後に行われたライブ「DAHLIA TOUR FINAL」以降は首にコルセットを巻いてドラムを叩くようになった。2008年にX JAPANが再結成したが、ワールド・ツアーの最中の2009年にヘルニアをさらに悪化させ、椎間孔切除の手術を受けた[39]。手術は成功したものの、ほかの頚椎間や腰にも損傷が判明したため、3年以内に再手術が必要であると医師から宣告された[40]。
そのほか、甲状腺の疾患や、過去に長い期間、手首に負担がかかる角度でスタジオのマスター・キーボードを弾いて以来、慢性的な腱鞘炎を患っている。


