こんにちは、大智です☯
今回は私の個人的な出来事をお話しようかと思います。
先日、私の人生初体験として
カラスに襲われるという出来事がありました。
(写真はタカですが笑)
ここで少し話を逸らします。
さて私を含め、スピリチュアルに程よく浸かっている方(笑)はここでどんな反応をするでしょうか?
「カラスが襲ってきた? それは大智さん、変なエネルギーフィルムを映写機にセットしているからそんな現実がスクリーンに投影されたんだよ!」
「その体験をするために、大智さんが生まれる前に、何年何月何日何時何分にカラスに襲われますっていうシナリオを設定してきたんですよ! すべては運命によって上手く廻っているんだよ!」
と思われますか?
“運命”も“自由意思”も両方信じている私としては
「確かにそういう(↑)ところもあると思います」という返答になるでしょう。
(強いて言えば、私は“運命”も“自由意思”も両方信じていません。
要するに“どちらか”に浸かっていないということです。“その中間またはその両方”に真理が隠れていると思っているので。
ですから、運命ばかりを信じる人には
「もっとよく考えて。自分の選択で、自分の意思で自由に生きるということをもっと深く追究してください。人生は自分が決めるの。幸せだって誰かが持ってきてくれるものではないわけ。自分の心の在り方が幸せを創造するんだよ。支配者みたいな力を持った運命じゃないよ、わかる?」と言うし、
自由意思ばかりにこだわる人には
「あのさ…、あなたがどうこうする問題じゃないのね。全部自分でやろうとしても限界が来るでしょ。少しは運命に身を任せてみては? 宇宙の大いなる流れ。サムシンググレートだよ、わかる?」と言います)
「すべて決まっている」とサジを投げるのは簡単です。お手軽・安直・安易です。
安易と言えば、入り込み易いダークサイドです。
言ってしまえば、そこが終着点になっていて、もうその先がありません。
せっかく手には美しいガラス細工があるのに、それを自ら地面に叩き割ってしまうような感じを受けます。
「イイことがあってもイヤなことがあっても、全部運命ですと片づけてしまえれば人生はどれだけ楽になることか…」と悩める方もいるのではないですか?
「ダークサイドは力が強いのではなく、入り込み易い」という性質を持っています。
『スターウォーズ』のマスター・ヨーダの言葉ですね。
「ヨーダが言っているのだから間違いない!」と鵜呑みにしているのではなく、私自身の内観・体感を通して得た気づきです。
もちろん「難しく考えないで、自分が楽になれる考え方をすればいいのでは?」というスピリチュアルな考え方もありますが
「はいはい、あれもこれも全部運命うんめ~い」とホウキで吐き捨てるようなものであれば、それは間違っていると思います。
エゴもエゴで、ときには自分にとって都合のいいストーリーを作り上げて逃避する性質を持っています。=正当化。これはダークサイドと同様です。逆に、自分に苦しく厳しく罰を与えるように縛り上げてくるのもダークサイドです。縛られているようで、実はこれも逃避です。
楽 =楽しい、のびやか、スッキリ感、喜びを感じる、情熱が湧く、心の重荷が下りる、後を引かない、カルマの解消
安易 =支配者にとって都合のいい教え、ダークサイドの罠、魔が差す、心の隙間、逃避、思考力の欠如、カルマの蓄積
これは似ているようで本質が違いますよね。
(カルマについては罪と罰のようなものとして考えないでください)
この辺の説明が難しいのですが… また矛盾しているようにも聞こえてしまいますが
ただ「決まっているところもあるのは真実」だと思うのです。
そして同時に、未来は確定していないと思います。
過去とはあくまで記憶、
未来とはあくまで予測。
あるのは「いまここ」だけ。
起きた出来事としての過去に関してはもう確定していて、その情報はアカシックレコードに刻まれているけど、
未来については何も決まっていない。毎瞬毎瞬の選択・決断・行動でどんどん変化していくもの。これが私の思う大原則です。
無限のタイムライン~パラレルワールドとしては、
すでに無数のフィルムがふわふわとアカシックレコードとかブラックホール辺り(と言っても場所ではない)に存在しているけど、
それが確定するときは「あくまで私(宇宙の中心)が選択したとき」だけ。
ドラゴンボールの孫悟空風に言うなら
「どうなるか、やってみないとわからねえぞ!」って感じです。
映画『マトリックス』でも語られるように、「問題は選択だ」というわけです。
ダークサイドの化身のようなスミスは「選択など幻想だ。平和も真実も、愛も幻想なのだよ!」と説いてきますが、「だったら何だと言うのですか?」と私は思います。
だから「ふふふ。ネオ、君が私にひれ伏す未来が視えるよ」「聞こえるかい? 君の死が近づいてくる音だ」「すべて決まっていたのだ」という決定・完了形のような表現は、私のような探究者にとっては安直であり、不適切なのですね。
話を戻しましょう。
人生で初めてカラスに襲われる数十秒前、
当然私は「あ、カラスに襲われる!」などと、文字通り夢にも思っていませんでした。
「何月何日の今日、私は何か怖い思いをします」などと生まれる前から決めていたわけもありません。
私がもっと直感の鋭い人間であれば、「今日外に行くのは危険だ。今日は家で大人しくしておこうかな」と思ったのかもしれませんが、まあ別に気にしないでいいでしょう。あまり未来ばかりを予期しても仕方ないので。そんなことをしていたら一生外に出られませんしね。
結論だけを先に言うと、
この時期(春~夏頃)はカラスの繁殖期で、私が通りがかった公園の中に巣があった。
カラスは気が立っていて、人間を威嚇・攻撃するようになる
…というだけの話なのですが。
ただ、私はそのことを知らなかったのですね。
私が散歩中のことです。
最初は、まずカラスが私の頭上近くを飛んできました。
カラスからすれば「おっと、ぶつかりそうになっちまった」的なものだと思ったので、私としては「気をつけてね~」と思う程度だったのですが…
割とすぐに「あれ、なんか威嚇されてるかも?」と私の直感でわかりました。頭で考えたのではありません。ぞわっと“感じた”のです。
なぜ“感じた”のか。それは私の中に何か恐怖のような暗いものが存在しているからなのでしょう。
でもそれが何か?という感じで(笑)
バシャールから学んだのですが
「闇も愛せば光になる」「そのとき、闇は排除すべき敵ではなくなるのです」ので、恐怖を排除しようとか思わなくなったからです。
「感情を切り離す」のと、「手放し統合」は似て非なるものだと思うのです。必要以上に、病的に囚われることさえなければ、適度な恐怖であればむしろあった方が良いくらいの考えに落ち着きました。
なんなら縄文とかムーの時代でさえ、猛獣や毒蛇に襲われて命を落とすことはあったといいますしね。
たとえば精神性が賢者のように高いと、同じく精神性が賢者みたいな人とばかり縁がある、というのもある意味では正しいのですが…
何が何でもそうとも限らない、といった感じです。
(ちなみに精神性が高い低いで人を計るのは本来ナンセンスですよ)
で、威嚇を感じた私は、多少イヤ~な予感はしたのですが
「あなたがフォーカス=注意を向けるところにあなたの現実が創られる」
「あなたに敵がいるとしたら、それはあなたの想念が創り出した幻想の産物である」
「イヤな人がいるなら、離れればいいのです。やっつけようとせず、あなたが相手から離れましょう」
というスピリチュアルを実践すべく、私はなるべくカラスのことを気にしないように(←でも実は気にしている!)先の道へと歩いていきました。
それで「はあ、なんか、いま威嚇されてたな~」「カラスのことはもういいから、今は自分の体の感覚に意識を向けよう。瞑想、瞑想、感覚、感覚、いまここ」
となった瞬間に、背後から後頭部へカラスに突進されたというわけです!(笑)
自分で言うのもなんですが普段から穏やかな性格の私ですが
初めて味わう重さの打撃ということもあって
「ちょ、なんだよ、もう!」と考える間もなく苛立ちました!(笑)
普段かりかりぷりぷりしているような人がそういうトラブルに遭遇したのであれば、「ほら見たことか」と思う私ですが…
かと言って、私が穏やかだからカラスもみんな穏やかになると思ったら大間違いですね!
で、ここで苛立つ私は波動が重いですか? 精神性が低いですか? 意識が未熟だからアセンションできませんか?
まぁどうでもいいのですけど。正直、そういう話に持って行くのは私としてはナンセンスな気がします。
そうそう、ネガティブとかポジティブとか、私は考えなくなりました。
何と言うか、ネガポジに囚われるのをやめてから、どうでもいい感じで、なんかそんな概念あったね~みたいな(笑)
そうですね。
例えば火が通った熱い鍋を触ってしまって「あ! ついてる! ワクワクと喜びが湧いてきたぞ」
財布をスラれてしまって「感謝します! 最高! ポジティブ! 幸せだな!」
変なリーダーみたいな人を前に「あなたという運命にサレンダーします。統合ですから、あなたの教えを受容します」
と歓喜の涙を流すのは、これはもうポジティブというか… 病にかかっていますからね。
まさに安易な、考えることをやめて楽な道に入ってしまうダークサイド。
そんな私が思うに、
熱ければ「熱い!」でいいし、
痛ければ「痛い!」でいいし、
いたずらしたわけでもないのに後ろから突進されたら「なんだよ、もう!」でいいのです。
むしろ「逆に、それ以外に何かありますか?」というくらいで。
それとも火傷しても鍋を掴み続けますか?
ところで
私はよくワンちゃんの動画を見ます。
ワンちゃんって自由でいいですよね。
エゴとかハイヤーとか、そんなの関係なく、あるがままって感じで!
地球で生きている以上、多少の上下関係や我慢の関係が出来上がってしまうでしょうけど、
生まれながらの人間社会の教育や洗脳もないし、出世欲もないし、お金の支配もないし、将来への不安とか恐怖もありません。パーソナルスペース、テリトリーはともかく、所有の概念も微々たるものです。
あえて言うなら、飼い主から愛されなくなったとき、エネルギーが枯渇していきます。でもそれは自然なことです。
尻尾を振りながらムチに打たれるのを喜ぶワンちゃんは存在するわけがないですね。痛いものは痛い。それ以上もそれ以下もなく、ただそれだけ。
ワンちゃんは本当にその日暮らしのような生き方をしていて、
喜ぶときは、そのワンちゃんが思ったままに素直に喜ぶし、
怒るときは、そのワンちゃんが思ったままに素直に怒る。
ただし、いつまでも喜んでいないし、いつまでも怒っていない。
これがポイントだと思います。
(そのワンちゃんがあまりに強烈な支配下に置かれた場合にはその限りではありませんが)
感情に良い悪いはありません。
「怒りを感じたら魂とか意識が未熟だ」と語るのだとすれば、それはたとえば白い人が黒い人を見て蔑むような感覚に近いと思います。
ただ、感情に振り回されたり囚われたりするのは危ないので、
「自分の機嫌は自分で取る」という言葉通り、“ある程度は”自分でコントロールできるようになれるのが望ましいです。
そして怒りも恐怖も、適切に活用することができれば、
敵のように見えるそれらの観念・感情も、実のところ味方ですらあるのです。
なお家族が死んだのに涙をコントロールして爆笑に変換しましょう、という話ではありません。これはだいぶ危ない人ですよね(笑)
「犬はケモノでしょ? 人間は精神性が優れているんだからケモノと一緒にするのはどうなの?」と思われる方もいるかもしれませんが
「なぜ犬が精神的に劣っていると思うのでしょうか?」「人間は我慢ができるから偉い? 我慢するのがなぜ偉いのですか? 人間だけが宇宙において特別な存在なのですか? ワンネスという言葉を聞いたことはありませんか?」
と私は素直に感じるものです。
さて話をカラスに戻して。
どうやらカラスに攻撃されているのは私だけではありませんでした。
そのとき私は黒い服を着ていたのですが、黒さは関係なかったようで。
黒い服とはおおよそ無縁の、近所の気のいいおじちゃんも襲われていますし、
後日、小学生が明らかに怯えながらカラスから走って逃げている場面にも遭遇しました。
この時、私は小学生をかばって両者の間に入りました。
小学生はそのまま逃げていってくれて、私はと言うと、カラスから二度目の標的にされるという名誉の負傷?を負うことに…(物理的なケガは負っていません)
カラスの気が立っているのはわかります。人間にもそういう時期はあるものですから。
私の住んでいる地域からは緑は減少してきているし、もしかしたら電磁波~靈界の影響もきっとあるでしょうし、ストレスフルなのは人間も動物も一緒なのでしょう。
でも、何も悪さをしていない小学生を追い回すのは、「カラスさんよ、それは違うだろ!」と本気で思いました。私の観念・思考としては、です。
なにより、“その場”に出くわしたというシンクロが、私を無関心にさせなかったわけですね。
(もしかしたら小学生がカラスの巣をつついてしまった可能性も少しはありますが、そこまではわかりません)
私は小学生を無視して、黙って迂回することも可能と言えば可能だったはずです。
でも困った人を無視するのは、私としてはあり得ませんでした。「こうするしかなかった」と言っていますが、これも選択です。
さらに言うなら、助けてあげたら見返りがあるとか、人助けをしないと神様に叱られるとか、そういう思考は私は持っていません。
ファイナルファンタジー9の主人公ジタンに言わせれば
「人を助けるのに理由が必要かい?」ってやつです。
「どうせこの世は三次元の罠が張り巡らされた幻想の遊園地です」とか
「あなたが何もしなくても、運命に任せて、放っておけば全ては自動でうまくいくんです」とか
「あなたの目の前でカラスに襲われる小学生がいる、というのはあなたの脳内が引き起こした錯覚・思い込みです」とか
「何月何日、私は人助けのヒーローをやるから、被害者Aさん、加害者Bさんを演じてね。はーい、321、アクション! はい、全部台本が決まってました」とか、
そういうレベルの話を持ち出すのは私の脳内とココだけに留めておきます。
念のため「まさか子供を無視することを体験するために、私はあそこに居合わせたわけではないよね?」と後から確認のために思い返しています。
無視するのは簡単です。誰にでも「楽に」デキる、安易なダークサイドです。
誰でもできると言うと、アレです。
なんか「この動画を見るだけで金運・幸運がドバドバとやってきます! 龍神があなたのところにやってきます! この運命的な機会を逃さず、多くの友達に拡散してください! いいねボタンとチャンネル登録もぜひ!」みたいなやつです。
私は相手にしませんが(笑)
先程も言いましたが、
ガラス細工を割るのは誰でもできる。
しかしガラス細工を作れるのは職人だけみたいなイメージです。
ここが難しいところなのですが、逆に、
「選ばれし一握りの能力を持った人にだけ光の道が開かれる!」みたいなのも、私の中では同じくナンセンスな分類となります。
と言うのも、
そのガラス細工を作る能力は、実はみんな、もうすでに持っているんですよ。
キーワードは「松果体」です。
少し話がずれましたが、
さらに思い返せば、
もともとダークサイドに浸かり切っていた私の過去を鑑みれば、
「わー、カラスっ! ちょ、怖い、助けてー!」とひるまなかったのは、私にしては上出来です。
きっと武術の鍛錬のたまものでしょう。(上空にいるカラスを殴るつもりはありませんが)
格好良いことを言うと、
狼は牙を抜いて言いなり&仰向けになるのではなく
牙を持ちながらもそれを我欲のために用いないことが強さだと思います。
ですから「牙が危ないので抜いてしまいましょう!」みたいな昨今の風潮は私にとっては「?」と感じるわけです。喩え話です。
ちなみに格闘技に秀でた人でもたまに「ビビリ」な人もいますが、
そういう人は偽者だと言っているのではありません。
さて
対立のエネルギーを出したり、敵意を相手に向けたら相手と同じ土俵です、というのは私も実感している武術的なスピリチュアル要素です。
ですから
逆に言えば、対立のエネルギーを出さずに、敵意を見せなかったら、相手も気にしないでしょう? と思っていたのですが…
「ポジティブポジティブ」「楽しい楽しい」「嬉しい嬉しい」「ありがとうありがとう」「感謝感謝」とだけ言っていれば、人生から嫌なことがなくなります… というわけではないのだな~と。
後日ネットで調べてみたら
カラスは人間の無防備な背後を狙うので、去るときは背中を見せずに、カラスに注意を向けながら、頭の防御にも気をつけながら離れましょう、というのが気が立ったカラスと道端で遭遇した場合の対策だったんですね。
だから「敵意はないよ」と思わせるために目を逸らし背中を向けるのは、カラスにとっては好都合だったわけです。
それで見事に無防備な背後から襲われるという、まあ面白い体験をしました、というお話です。
スピリチュアルも、ハマりすぎには注意です。
じゃあ私がカラスに襲われたことにスピリチュアルは一切関係なかったのかと言うと、それも違います。
なぜなら
私とカラスの間で何かエネルギーのラインのようなものが繋がって、そのような現実が共同創造されたのは間違いないと思っているからです。
もしかしたら、アメリカが戦争で日本を打ち負かせたあたりから、日本の土地ではどんな体験ができるかと、傾向として運命的に決まっていた部分もあると言えばあります。
で、
「じゃあ敵意を見せればいいのか」と言うと、それもそれで違いますね。
要するに距離の取り方です。
あとは社会全体としての環境も大事ですが、こちらは話が大きくなります。
まあ痛い目には遭っているのですが、私はカラスが憎いのではなく、滅んでほしいわけでもなく、敵だと思っているわけでもなく、
「この道は私も通りたいからさ。なるべく避けるけど、そんなに気を立てないでくれよ」という感想を持つ程度ですね。
まぁおかげさまでブログのネタにもなったわけですし(笑)
人間もカラスも生きるのに一生懸命なのはいいことですが、
やはり物理的にも心理的にも余裕は必要だな~と思うわけです。
というわけで雑談でした!
お読みの方々には、スピリチュアル的な気づきを少しは得ていただければ幸いです!