こんにちは、大智です。

 

いきなり本題に入りますが、

 

インスタグラムで2000万人ほどのフォロワーを持つ海外の女性モデルが過激な衣装を披露したとのことで、

「美しい」「憧れる」といった賞賛の声がある一方で

「不適切な格好だ」と非難する声も多いようですね。

 

賛否両論分かれる、とはまさにこのことなのですが…

 

コンプライアンスって何だろうか?

 

「法的遵守」とか「倫理規範」と訳されるようですが、単純に「他者への配慮」と言ってもいいのでしょう。

 

で、

世の中で言われている“コンプライアンス”とかを見てて、『おかしい』と感じている私がいるのです。

 

個人的には、性に関しては「見せびらかさないでいい、隠さないでいい」といった感じで…

 

と言うのも、

 

「見ると不愉快に感じる人がいるから隠せ」と、

「見ると嬉しい人がいるからどんどん見せろ」の

 

この二つは同類・同列だと思うのです。

 

「マスクを着けろ」

「マスクを外せ」

これも同列ですよね。どっちが良いか悪いか?ではないのです。同列です。

 

これをお読みの方は、

要するに、“強制・強要・威圧・脅迫・押し付け”が入っていることに気が付けますか?

 

強制・強要・威圧・脅迫・押し付け。

 

それが入ってくると、ほぼ例外なく反発・対立・抑圧が発生します。

ただいがみ合って、明日にはまたいつも通りに戻るのならまだいいのですが、

人を組み敷いて大口で高笑いする人と、組み敷かれて何も言えず陰で泣く人が発生します。

こじれた関係は、そのままずっとこじれていきます。

 

私が注目しているのは

「何も言えない」社会がじわじわと拡がりつつある、というところですね。

 

(今回のモデルさんの話で言うと、

「みなさんの反感を買ってしまった」「じゃあ何を着たらいいかわからない」「着るものが限られていく」という話に繋がっていきます。

もちろん主観によって程度の差は出てきますが、本人が嫌がって着ているものでなければ、周りがどうこう言うものではないのかなと)

 

これを肌感覚でわかっている人も多いのではないでしょうか。

もちろんこれも私の感想であって、「そう感じなさい!」という強制ではありません(笑)

 

私が言っているのは「思い当たることはありませんか?」という語りかけですね。

思い当たりがなかったら、それはそれでいいのです。

 

 

「何も言えない」というところをもう少し話したいので

 

少し話が横にズレます。

 

「子供を家に残して親が外出したら、子供への虐待に該当する」

「子供だけでお使いに行かせたら虐待」

「子供だけで公園で遊んでいたら虐待」

「これらを近隣の住民が見かけた場合、通報する義務がある」

 

といった条例?が2023年の後半くらいに埼玉県で検討されたそうですが、これがいかにおかしな話であるかを察知できる感覚を養っていただきたいです。特に最後の一文がやばいと思いませんか?

 

あれもダメ、これもダメ、ああしなさい、こうしなさい…

誰かから命じられるがままで、いつの間にかどんどん自由が減っていき、もはや牢屋と何が違うのですか? と私は思うのです。

 

この条例は圧倒的多数の反対意見によって引き下げられたそうですが、名前や中身をちょこっと変えただけで、似たような話がまたいつかどこかのタイミングで出てくる可能性があるように思えます。(あくまで可能性です)

 

子供の安全・防犯のためだっていう理屈はわかりますけど、

そのために子供の都合とか、親の都合とか、環境や事情をかなり無視しているし、一体どれだけの負担やデメリットがあると思いますか? という話です。

 

「せんせーい、それってイジメですよね?」と教師に圧をかけてくる、上から目線の生徒と同じようなものです。

「これがイジメだって言うなら、教師の俺はどうしたらいいんだ!?」「俺はもう何も言えなくなるぞ」と途方に暮れてしまう類のやつです。

 

要するに、この条例は安全・防犯のためだとか言いますけど、なんか後付け感がすごいんですよね。

本当に子供や家庭のことを思うなら、何でそんな話になるのさ? という本末転倒です。

 

安全・防犯を徹底していったら牢屋のようになっちゃいました~ あ、防犯ができて便利ですね良かったですね~ ではなくて、

牢屋の中に閉じ込めたいから安全・防犯のためだという名目を使っているのではないですかね?

 

 

これは虐待だ、不愉快な気持ちを受けたとか、不適切な表現を用いたとか、誹謗中傷だ、差別発言だ、○○ハラスメントだとか、

 

なんでも「○○ハラ」と、知らない名前がどんどん新規に作られていきます。その度に、人々の心はささくれだっていくのです。

 

「なになに? そんな名前のハラスメント、聞いたことないよ?」

「○○ハラスメントという罪状を人に押し付けるハラスメントですか?」

「え、下校中の子供に話しかけるだけでも犯罪なの? 今の人達はそんなこともゆるさないの? やべー、俺、いままで普通に何十回もやっていたぞ!?」

というようなことが頻発するのではないかと困惑する私です(笑)

 

と言うのも、現代は

言った者勝ち、騒いだ者勝ち、ネットで同調する人を多く集められた者勝ちなところが強いですよね。

 

矛盾するようですが、多数の人が反対しているのに、ごく少数の権力者たちの声で世の中が動いていく、というのも同様に危険です。

 

陰謀論チックになってしまいますが、

要するに、“そのことは、誰にとって都合がいいのですか?”という視点があれば理解できると思います。

 

最近知ったのですが

SNSのメッセージのやり取りの中で「。」の句点が付いていると、怒っているように感じるのでやめてください、という

「。ハラ」なるものもあるようで…

 

そのうち「了解しました」を表す「りょ」すらもアウトになっていくのでしょうか。私はそもそも「りょ」さえ使ったことはありませんが(笑)

 

コンプライアンスがこじれると、どこまでも底無しにおかしなことになるというお話です。

 

または人々の心を弄ぶために、わざとこじらせていくためにコンプライアンスという、もっともらしい言葉を使っている場合もある気がします。

 

 

話を最初に戻します。

 

性的=いやらしいと思う人の目線がいやらしいのではないかと。

 

私は、女性の身体は美しいと思う人間です。

何なら、生きる力を失くしかけた人の心を立ち直らせるオアシスのような不思議な力さえある気がします。

 

(すると「男性の身体は汚らわしいのか、差別だ」という声も上がりそうですが、そういう話ではないですね)

 

過去「くまのプーさんは下半身が露出しているから卑猥だ。ズボンを履かせろ」と海外で騒がれた記憶が思い起こされるものです。

 

プーさんが卑猥なら、私たちはなんと卑猥なものに囲まれていることか(笑)

なら鳥さんたちを一羽一羽捕まえて服を着せないといけませんね。裸で暮らす鳥も卑猥なので。「服を着せてください」なんて頼まれた覚えもないのに…

 

それで、

「プーさんをそのような目で見る人の心がいやらしいと思います。あなたの理論ですと、プーさんのことが好きな子供たちも卑猥になるのでしょうか?

と私には思えるのです。

 

下手したら「そうです。子供の心が卑猥に育っていくから、私たちの団体が健全に救ってあげるんです」という返事がかえってくるのでしょう。

 

でも私に言わせてもらえれば… 好き嫌いの話なので、もうその人その人の自由なんですよね。プーさんの主でもない、その人が決めることではないのです。

型に当てはめるとか、法律で決めるとか、教科書に載せるとか、コンプライアンスとかで定めないといけないようなものではありません。

 

 

感想は人それぞれなのですが、

「みんな隠せ」「みんな見せろ」と、強制・強要・脅迫・押し付けをするからコンプライアンスがおかしくなっていくのではないかと。

 

プーさんはもちろん、女性の身体を見てどう感じるかも、人それぞれ違います。

「美しい・かわいい」と思うか、

「いやらしい・汚らわしい」と思うかも、その人の自由です。

 

第一、好き嫌いは人それぞれなのです。

 

仮に私が「ショートヘアーの女性と結婚したいものだ」と言っても、それはあくまで私の好き嫌いの話であって、

「ロングヘアーの女性は結婚するな。彼女らは幸せに生きる価値が無い。ロングヘアーの女性は私の視界に入ってくるな。女性はみんなショートヘアーにしろ」などという、強要あるいは誹謗中傷ではないのです。

 

その人からすれば、別に私の髪型がロングヘアーだろうと、あなたに何の関係があるんですか? という話ですよね。

でもそこで「ショートヘアーが好き」という発言はゆるされないとなると、今度は「三つ編みが好きです」という人も口を閉ざしていってしまうのでしょう。

 

「○○な女性は嫌いだ」も同様です。好き嫌いは表裏なので。

 

対立や分断が深まって、そして“統制”が行き着くところまで行き着けば、

例のモデルさんに対して「美しい」とコメントをすると、コンプライアンスに反するという言いがかりをつけられたり、

「性的搾取への加担だ」と蔑まれ制裁されてしまうような、不条理極まりない日も来るでしょう。

 

 

締めつけは、人の心から“自由”を奪っていく。

 

“自由”をなくした心は、何も言えず、何も出来ず、生気を失い死んでいく。

 

だから究極… と言うか、私の理想としては

 

「どっちでもいいじゃん」と言える社会が望ましい、と思うのです。

 

言葉って難しいですね。

 

「どっちでもいいのであれば… 女性が肌を晒すな。何ならうなじも手足も、みんな隠すべきだ! という社会になってもいい」という意味ではなく、

(=自由がない)

 

「肌を見せても、隠しても、本人の自由に決めていいんですよ。その選択を尊重しましょう」という意味ですね。

(=自由がある)

 

変な話、職場とかに過激な服装をしてくるのも本人の自由でいいわけです。

 

 

ただし注意点があって…

 

そんな女性を見て襲いたくなる男性や、実際に襲ってくる男性はけしからんのですが、

 

世の中にはそういったけしからん男もいる、という理解は必要かと。

 

でも、だからと言って、そういった男性に目くじらを立てて攻撃・排除・規制するのではなく、

「そういう危ない人もいるから気を付けよう」くらいの心持ちで済ませればいいのですね。

 

身も蓋もないことを言ってしまうと、

女性を襲う男性というのは、女性がどんな格好をしていても襲ってくるのでしょう。

 

言うなれば、

店頭やネットで一目惚れした商品を、「だって欲しかったんだもん!」と言って値段に関係なく買ってしまうようなものと似ています。

 

だから身を守るためには、やっぱり時と場所を選ぶような、最低限の心構えは必要という話なのですが

 

必要以上に怯えてしまうと

「今日の私はいわゆる普通の格好をしているけど、襲う男は襲う。私は襲われるかもしれない。ああ外に行くのが怖い。(皮肉を抜きに)可愛い女性の顔で生まれてくるんじゃなかった」

と自身を追い立てるようなものになってしまうから、考えモノとなります。

 

好きな服を選んだら、それがたまたま胸元が開いていた… 程度でしたら問題ないと思います。

ただ『不適切にもほどがある!』というドラマにも出てきたような、胸元をあからさまに見せて男性に媚びるような服を着るのは、さすがに時と場所を考えましょう、という話です。

その“あからさま”というのも、結局は個人の感覚次第なんですがね。

 

で、もし時と場所を考えられなくても、それはその人の自由なので「言うことを聞きなさい」と圧をかけることもないと思います。

 

なんかこう、選ばれし地位を得た人間だけにのみ、好き勝手に生きていい権利が与えられる… みたいな価値観はよろしくないですね。いつの時代の話ですか? といった感じで。

 

 

「見せびらかさないでいい、隠さないでいい」という言葉から導き出されるように

 

「自然体にしていればいいんです」というわけですね。

 

あと、人の選択は尊重すること。

人を自分の思い通りに支配・コントロールしようとしないこと。

 

目くじらを立てるから、そこに角が立つのです。

 

角が立っているから、目くじらを立てるのです、という理論もありますが、

 

「人のやることなすことにいちいち目くじらを立てるという“種(因)”が先にある」から、

「角が立つという“花(果)”が咲く」という順番だと、私は思います。

 

実際に私は、過激な服装をした女性を見ても「ワー…」くらいにしか感じないのです。SNSに投稿して冷やかすこともする気がありません。

 

もしその人がタイプであれば、私はただ喜ぶだけですね。何となく気が合いそうなら話しかけるかもしれません。で、相手に拒否されたら私も引き下がるだけです。

 

たぶん、相手がいやらしいと思ってしまうような視線を送ってしまうこともあると思います。でも私は男なので仕方ないのです。

その仕方ないものを、女性側は目くじらを立てて何とかしようとするから争いになるわけです。

 

「あなたはそういう視線を送りたくなるのね」と理解を示して受容するしかないでしょう。不適切だとか、コンプライアンスに反するだとか、女性蔑視だとか、騒がなくてもいいと思います。

 

で、その女性が親しい人なら「ちょっと服に気をつけてみたら?」と提言くらいはします。私であれば。

でもその提言を聞くか聞かないかは、その人の自由です。

 

そんな提言をする私のことを疎ましく思って距離を取るのも、

「良い友人を持てたな」と関係を維持するのも、その人の自由ですね。

 

 

 

何を言いたいかというと、

 

楽しく、自由に、平和に行こうぜと、まぁそんな感じのことです!

 

ではまた次回お会いしましょう!

 

最後まで読んでくださりありがとうございます!

 

大智☯