YouTubeを観てたら、オススメに上がってきた動画があります。

 

それは

総合格闘技の矢地祐介選手が、ジークンドーの石井東吾先生と初めてコラボしたことで一気に武術界が盛り上がってくるきっかけになった、伝説の回です。

 

 

↓↓ 一応リンクも載せておきます。気になった方はどうぞ。

 

動画の内容を簡単に説明させてもらうと

 

至近距離で打つワンインチパンチという、デモンストレーション用の技があって

矢地選手は「勢いのつけられない至近距離でのパンチなんて効かないよ。あれって漫画とかのフィクションの技でしょ?」という感じに疑ってかかっていたのですが

 

長年武術を磨き続けている東吾先生の実際の技を受けて、

矢地選手は「これマジ!?どうなってるの!?」と、その威力に驚きを隠せなくなる…

 

という内容になっています。

 

さて

これを私なりに、スピリチュアル的観点を交えて見ていきましょう。

 

「思考は現実化する」

「あなたの体験する現実とは、あなたの思考の投影である」

 

この辺りは宇宙の真実とも言える重要なキーワードです。

 

「じゃあ、あれはどうなの? これはどうなの?」と細かい疑問が浮いてくるところがあると思いますが

 

おおまかに言うなら

 

良いと思える現実も、悪いと思える現実も、

全て私(あなた)の思考が創り出している。

何かが起きたのだとしたら(起きていないとしても)、

それは私(あなた)の選択によるものだ。

何かを信じることなしに、何かが創造されることはない。

与えることなく、受け取ることはない。

 

という意味ですね。

 

仮にその人が何も信じていないとしても、

「私は信じていない」という位置に軸足(信念・思考)を置いているから

本当に“何も信じていない”ということはあり得ません。

 

そうですね… 例えば「私、自分に自信がないんです」という人は

魂や意識が未熟とか、信じる力が弱いとかではなく

 

「私は自信を持てるほどの大した人間じゃないんです!」

「私は自分を疑っています!」

という信念を持っています。

 

「男なんて信じられない!」という女性は、

「男は信じるに値しない」

という信念を持っています。

 

ところで疑うのも信じるのも自由なので、それ自体に良い悪いはありませんが

ただ「目に映る全てはメッセージ」だというのに、

何でもかんでも疑うのは、ちょっともったいなくありませんか? とは思います。

 

 

思考・信念とは、大工さんにとっての設計図のようなもの。

(または映画館の映写機にセットされたフィルム)

だから設計図もなしに建築物が構成されることはありません。

 

行き当たりばったり木材を積み上げていたら、何か家が出来ちゃった的なこともありますが、その場合はエネルギーの投影量も少ないのですぐに散っていくことでしょう。

顕在的には自覚がないまま行き当たりばったりと手を動かしていたけど、実は潜在・高次元レベルではぼんやりと完成図が見えていた、ということもあります。おそらく芸術家はこのパターンが多いかと思います。

 

(ボクシングでチャンピオンになれるような人は、チャンピオンになるという信念・目標、もしくはチャンピオンになれるような思考・器を持っていたからなれるわけです。

試合に興味がない、トレーニングもあまりしない、遊んでばかりいるような人がチャンピオンになれるような甘い世界ではありません。

そこに至るためには悲壮感漂う顔をしながらではなく、楽しみながら取り組むのが必須でしょうけど、これはダラダラ練習するのとは違います)

 

 

軸足が定まっていない人は、この情報社会の中でかなり揺さぶられてしまうことになるので注意です。いわゆる自分軸がない人ですね。

 

とは言え、いきなり自分軸を作れ!と言っても難しいので

出てくる情報が多すぎて「もう私、何を信じていいかわからない!」

と混乱しやすい人には

「いや、何も信じなくて大丈夫ですよ」と言いたいところです。

 

「信じなくていい」

これは魔法の言葉なのですが…

例えば男性不信の女性は、男性と敵対し続けろという意味ではありません。

男は信じるに値しないという観念を、頑なに持ち続けなくていいという意味ですね。

 

私が師匠から教わった話になりますが、

川で溺れそうになったら、「なんとかしなきゃ、誰か!誰か!」と手足をバタバタさせると逆に溺れてしまうので、

まず手足(思考)を静かにさせましょう、ということです。

 

すると体は自然と水面に浮かんできます。

結果として「あ、なんだ大丈夫じゃん」「私の苦悩は勘違いでした~(笑)」という安心感が得られます。

 

水面上に浮かんでこれたら、後は自分の望む方向に意図して進んでください。

自由です。他の誰でもない、自分で決めていいんです。

 

「私の思考も行動も、何か大いなる存在に衝き動かされています」みたいな感覚も大事と言えば大事ですが…

聞こえてくる声が大いなる存在であっても、

自分のことですから自分の意思で決めるのが核心となります。

 

その大いなる存在というものが実はおかしな存在だと気づけた時、

あるいはその存在の声が聞こえなくなった時、困るのは自分自身ですから。

 

 

手足のバタバタを静かにさせろと言いましたが、

「ずっと何もしなくていい」と、額面通りに受け取らないでください。

 

永久に手足を動かすなと言っているのではありません。

 

抽象的になりますが

夏とか冬にしかできないイベントもありますし、

暗くなったら灯りを点ける必要はあるし、

何もしなくても自分という楽器の調律はズレていくので、

やることはしっかりやる必要があります。

 

現実的に言えば、食事・運動・睡眠の3つのことです。

 

精神的にはストレスを溜めないこと。義務・我慢・犠牲(3G)をやめること。

 

ところでなぜ

「現実とは、私の思考の投影だ」というのが大事になるのでしょうか?

 

この現実は、誰かによって創らされた現実だ。

私は何も選んでいない。何も創造していない。何も信じていない。何もしていない。

私には、自分の現実を自由に創造する力なんてない。

ああ、私はされるがままの人生なのね。

次はどんな世界に飛んで行ってしまうのかしら?

 

という被害者の領域を脱するには、まず根本原理であるそこを抑えなくてはならないからです。

 

自分以外の他の誰かに力を委ねたくなるのは、長い歴史の中で培われてしまった私たちの悪いクセです。

 

「宇宙にサレンダーしましょう。宇宙に流れを任せましょう」と、

スピリチュアルでよく聞くフレーズですが、

これは

「私が!私が!」という固さをゆるめて、視野を広げて

「全てはワンネスだったんだ」「私はあなたで、あなたは私だったんだ」という調和の位置に着地するためであり、

 

「あなたの人生の舵を他人に取ってもらいましょう。人生を放棄しましょう。自分の意見を持たず、親や先生、権威の言いなりに生きましょう」という忘我ではありません。

 

だから

「世界がどうなってしまうか? ではありません。

私(あなた)はどうしたいのですか?」

という問いを核に持ってきましょう。

 

自分がどうしたいのかをハッキリできれば、

極端に言えば世界がどうなろうと関係がなくなります。

 

誤解を恐れず言ってしまえば、

私たちはみんな一人ひとりが神です。

 

創造する力は例外なく、全ての人が持っています。

 

「あの人は持っているのに、私は持っていない…」

その考え方はワンネスから離れています。

 

もちろん髪の毛がキレイ、一級建築士の資格を持っている、英語が得意、筋肉がすごい、おしゃべりが苦手といった個性による違いはありますが、それらに優劣の差異を見出すのはおかしな話です。

 

「私は無力だ」と思っていると、

「私は無力だ」という被害者的な現実を、自分の力で創造していきます。

 

被害者の自分を、自分の力で生み出す。だから加害者も自分。

その苦悩は脳内で発生した幻想、自作自演ということです。

 

目を開けて、しっかり現実を見てください。

 

そこから何が見えてきますか?

 

「ああ、私は可哀そうな被害者。これが現実よ」と、そこで思考を止めないでください。

 

念のために言っておくと、神だからと言って傲慢にならないように。

 

えばるために神だと言うのではなく

どこかに置いてきてしまった自分の力を思い出しましょう、という意味です。

すると、えばる必要がないことに気づけるはずです。

 

もし私が傲慢にも、いくら「月よ、出でよ!」と念じたところで

その時の月が日本から見て地球の反対側に来ているのなら、私のわがままで日本の上空まで月を持ってくることはできません。

仮に私の一存で月の位置をどうにかできるのなら、潮の満ち引きや生態系が壊れてしまいます。

 

「自由意志はない」系の話をする人は、

何でもかんでも自由にコントロールできないなら自由意志とは呼べませんよね? という理屈だと思います。

ですが私の視点から見たら、そもそも自由意志というものの定義づけがズレています。

 

例えば友人と会いたいのにも関わらず

「いや、今週はちょっと忙しいから無理」と会えないこともあります。

 

友人とさえいつでも自由に会えることもできないのに「私は神だ」「自由意志がある」なんて、何の冗談かと思われるでしょうか?

 

でも友人は友人で神なので、忙しいから会えないという選択をしているだけなので落ち込む必要はありません。

ただタイミングが合わなかったというだけです。

神だから全てのタイミングを意のままにコントロールできるのではなく、タイミングが合わなかったら「じゃあまた別の機会に」とすることもできるのが神なのです。

 

「○○しかない、これしかできない」ではなく

「○○もある、あれもできる」という視野・選択肢の広さが鍵です。

 

選択肢を広く持つこと=自由度が上がるということです。

 

だから

「お互いに都合のつく日を決めようか」とか

「別に日時を決めなくても、急用もないわけだから、通り道で見かけたときに色々話そうね」とか

そんな感じに友人と会う世界線を創っていけばいいのです。

 

月が空に現れてほしいなら、満月の前後まで待てばいいだけです。

 

被害妄想的に「ああ、今を逃したらもう私は友人と会えないんだ」と、

その可能性を制限しない限り、扉が閉ざされることはありません。

 

宇宙は自由だし終わりはないのに、

なんでわざわざ、そこで制限とか終わりを作りたがるのですか? ということです。

(少々屁理屈ですが、

「自由意志はない」と言うのも自由だからこそできることです)

 

でも「明日がある」「明日がある」と言ってばかりで何でも後回しにするクセはよくありません。

常にいまここ、いまここ、という感覚も養っていきましょう。

 

いまを大切にするのと、いまに固執するのと、そこを履き違えやすいので注意です。

 

「思考が現実化する」をちょっと言い換えると、

 

私たちは思い込みを通して現実を認識・解釈しているということ。

 

もっと言い換えると、人は信じたいものしか信じない。

 

前回の投稿にも触れたように

 

オーガニックを馬鹿にする人は、オーガニックを信じる人を見ると

「あいつらやべえ」と目に映り、その解釈によって憤ります。

 

オーガニックを信じる人は、そんなふうに馬鹿にしてくる人を見ると

「オーガニックを馬鹿にするのはやめてくれませんか?」「オーガニックって、そもそも有機=食べ物っていう意味なんですけど?」「食べ物=やばいって、どんな理論ですか?」

と思うようになる。

 

もっと言えば、

馬鹿にされたか馬鹿にされていないかの受け取り方も、その人その人の思い込みになります。これが「人生とは自作自演だ」と言われる所以になります。

 

しかし、わざとケンカを売っておきながら「私はケンカを売ってないんだけどな~。ケンカを売られたと思うのは、あなたの感想ですよね~?」とニヤニヤする趣味を持つ人は論外です。

 

そういう場合は「はい、私は仲良くしたかったんですけど、私はあなたに馬鹿にされたと思います。私の感想になりますけど、あなたとは話が合いませんね~」と距離を取るといいでしょう。くれぐれも、力で相手を懲らしめようとしてはなりません。そういう精神が摩耗する世界では、いつか苦しくなるだけです。

 

「なぜあなたはケンカを売って喜ぶような性格をしているのでしょうか?」という視点も大事です。

それも「人としてあり得ない!」みたいな敵対・排他的な視点ではなく、冷静に根っこを分析するように。

 

私たちは、思い込み(イメージ)を具現化しています。

 

「この食べ物の栄養がすごいと聞きました。だから私がこれを食べたらきっと健康になるに違いない」と思っていたら、

「その食材を口にしたら健康になる私」という道を自分の思考(波動)で創造する。

 

「この食べ物って実は体に悪いんだよな」と思いながらその食べ物を口にしていたら

「体に悪いと思う食べ物を口にして、体が悪くなるであろう私」という道を自ら創造していく。

 

私がAというエネルギーを放出していれば、それに相応しいAのエネルギーを持った登場人物が私の目の前に現れてくれる。

 

「男なんて信じられない!」と、男性を毛嫌いする女性は

これから先も変わらず男性と敵対し、排除し続ける現実を歩むことになる。

 

人のことを信じていないから、信じるに値しない人ばかりが現れてくる。

 

信じられない男が問題なのではなく、男を信じないあなたが彼らを引き寄せる原因になっています、という話になります。

これは誰が善か悪かではないし、もちろん詐欺師とかDVみたいな男からはさっさと離れていいと思います。

 

宇宙は単一ではなく虹のグラデーションです。

立方体の上位次元には、超立方体もあります。その上には超々立方体もあります。中には好ましい人もいれば好ましくない人もいます。

 

だからどこに自分の意識の焦点を合わせるか、です。

集合意識うんぬんもありますが、まずは自分です。

 

神が磁石(波動)が動かすから砂鉄(周波数)が動いていくイメージです。

 

宇宙とは、簡単に言うとそんな構造になっています。

 

ただ、この構造の説明は真実である一方

多くの人が理解するためにはだいぶ言葉が足りていないし、解釈の仕方によってはかなり的外れになっていきます。

 

今回私が何を言いたいかというと、

 

冒頭の矢地選手が

「ワンインチパンチなんて空想でしょ? なんか今日は東吾先生という人に撮影現場に来てもらったけど、彼は体格が小さいから大したパンチを打てないだろうし、もしかしたら偽物なんじゃないの?」

と内心疑ってかかっていたからといって

 

矢地選手の下に

大したことのない、偽物の東吾先生がやってくることはありません。

 

むしろ、

最初はそのように疑ってかかっていたからこそ、

その次にリアルな東吾先生のワンインチパンチを受けて

 

「ウソでしょ!?こんなパンチを受けたのは初めてだよ!東吾先生、どうやったの!?漫画の話じゃなかったんだ!」

 

という新しい、未知の驚きを体験したわけです。

 

矢地選手は疑いをスッキリさせたかったから、

疑いを見事に晴らしてくれる逸材と出会うことになった。

 

もしも矢地選手が頭の固い人物(=文字通り、古い価値観に囲まれている)であれば、

そのリアルな衝撃を体験してもなお

「いやいや偶然打てたパンチでしょ~? それか、俺が油断していただけか…」と疑い続けることになるのでしょう。

それか「いや、相手は岩のように止まっててくれないから試合では使えないよ」と、違う方向に思いを巡らせるようになります。

(なおワンインチパンチは試合で使えるか使えないかがポイントになるのではなく、身体操作の構造の話に深く関わってきます)

 

また仮に、矢地選手が実は以前から東吾先生との交流を持っていたとして「彼は本物だ」と知っていたら

「ウソでしょ!?」という反応は示さず、「あー、やっぱり東吾先生はすごいですね」だけで終わるものです。

 

基本的に私たちは

自分の中にはないを投影・体験することはありません。

 

でも、です。

 

ワンインチパンチを信じていなかったからといって、

矢地選手は永久にワンインチパンチを偽物と思い続ける体験しかできない… というわけではないんですね。

 

宇宙は最高に素敵なストーリー、シナリオに満ちています。

 

神である私たちは、それを体験したいと思ったから生まれてきました。

魂レベルでは、全てわかっています。

 

では矢地選手の場合は、何をわかっていたのでしょうか?

 

目の前にいる東吾先生という人物・技術が本物か偽物か、それを最初からわかっていた… のではなく

 

「未知の体験に出会う」「予想もしていないことが起こる」ということがわかっていたのでしょう。

 

皆さんも経験がありませんか?

 

この料理が美味しいという話を前から聞いていても、実際にその料理を食べた時の予想以上の美味しさに感動したり、

 

「海は美しい」という情報は知っていても、実際に海を目の当たりにして、その美しさに訳も分からず涙してしまったり。

 

この料理の美味しさは10だと思っていても、実際の料理は10以上の美味しさだったりします。「これは絶対美味しいヤツじゃん!」と思いながら食べてみても、実は隠し味とか食感が苦手で減点がつくことだってあります。

 

海の美しさは100万円の価値があると思っていたからといって、100万円程度の経験しかできないわけではありません。海に着くまでの交通費だけを見れば大した金額には届きませんが、そこで得られる価値としては100万円以上の価値があることと思います。

 

(お金の力で何でも思い通りにできると思う人は、地球をいくらで買えると思うのでしょうね?)

 

それが要するに、

 

『人生は何が起きるかわからない』

『未来は決まっていない』

『考えるな、感じろ』

 

という話にも繋がるわけです。

 

運命は誰かに歩まされるものではなく、自分で決めて創っていくものです。

それがまた新たな縁=ドミノ倒しとなり、次に繋がっていきます。

 

「私は入り口まで案内したが、扉はお前の手で開けろ」

「運命なんて信じちゃダメ。あなたの人生はあなたが決めるものよ」

 

映画『マトリックス』のモーフィアスや預言者がそんなことを言っていましたね。

 

飼い主は馬を水飲み場まで連れて行くことはできるが、馬が自分で水を飲もうとしない限りは馬の喉を潤すことはできない。

私は月を指で指し示すことはできるが、月のエネルギーを感じられるかどうかはあなた次第だ。

お前に何を見聞きさせるかは俺の自由にできる。でもお前がそれに対して何を感じ何を思うかまではコントロールできない。

…といった感じです。

 

 

最後になりますが

 

古代ギリシャを舞台にしたゲーム『アサシンクリード オデッセイ』では、運命に翻弄され故郷のスパルタから迫害された主人公が、

当時実在したとされる歴史学者ヘロドトスを船に乗せ、長い旅を共にすることになります。

 

果てしなく続いている大海原を前にヘロドトスは、主人公にこう言います。

 

「やることがたくさんある。

多くの未知と出会えるぞ」

 

そうして多くの物語が展開されていくことになるのです。

 

内容を知っている映画の台本を、誰かに読まされてワクワクできる人はいないと思います。

 

先はまだ白紙の、知らない体験が待っているからこそ、何と出会えるかワクワクできるというものです。

 

未知=道。

 

リアルという名のファンタジーワールドです。

 

ファンタジーという名のリアルワールドです。

 

 

長くなってしまい申し訳ないです。

最後までお読みいただきありがとうございます!

 

大智☯