<苦>

 

『pt.III<被害者>』の冒頭で触れた、“思い通り or 思い通りではない”の話に戻って…

 

水を差すようだが、

「すべて思い通りですと言うけど、それって仕方なく自分を納得させるための後付けではないですか?」と思ったりすることもある。

その後付けが良いとか悪いとかではなく。

 

 

というのも、

「病気や怪我なんて、辛いからいらないよ」って言っているのに、宇宙やハイヤーから「いいえ、あなたの気づきのためです。自分で選んだのを忘れたんですか? これはあなたの避けられない運命ですよ」とばかりに、押し売りに近い形で病気や怪我をプレゼントされることはあるし、

 

「あなたの思い通りに好きなこと、やりたいことをやって生きなさい」と言うけど、

本当は毎日お菓子だけを食べていければ最高だけど、そんな生き方をしていたら体を悪くするに決まっているし、

 

観たかったボクシングの試合が、選手の怪我で延期になったりすることもあるし。

(バシャールあたりは「まだその試合を見る時期ではなかったのです。みなさんの集合意識がそのパラレルワールドを望んだのです。ですから、その怪我も完璧なタイミングで起こりました」とか言いそう)

 

ボクシングのチャンピオンが「次の試合も俺が勝つ未来しか見えてこない。相手のパンチも全部よけてやる。対戦相手と観客に俺の強さを思い知らせてやる」と100%の実力や自信を持って試合に臨んでいたのに、大番狂わせが起きてあっけなく負けてしまうようなこともある。

「いやー試合前は“今回も俺が絶対に勝つ”なんて言ってたけど負けちゃった。実はそろそろチャンピオンをやめたかったんだよね~」と楽天的な人は言うだろうけど、それはまさに後付けとか負け犬の遠吠え的なやつではなかろうか?

(後付けであっても、もちろん「自分の欠点を直して、もっと強くなってリングに戻ってきます!」と言うような姿勢や、または引き際を見極めるのも大事である)

 

ボクシングに限った話ではないけど、

「怪我が原因でもう現役を引退せざるを得なくなりました。進退を考えている間はウツ状態で、眠れない日々が続きました」

「若くしてお金でトラブってしまい、いつの間にか表舞台から消えてしまった天才レーサー。彼がレースを続けていたら史上最高峰のチャンピオンになれていたはずです」

みたいな話は映画とか小説の中でだけ展開されているわけではない。

 

そんなリアルな話を聞くたびに、私は「…んー、その人たちは本当に人生が思い通りになっているの?」と眉をひそめてしまうのだ。

 

そして

「思い通りになっているのなら、なんでみんなは笑顔じゃないの?」と。

 

でもやっぱりバシャールは「彼はもうレースをするべきではないのです。彼のハイヤーがそう選んだのです」という感じに言うだろうけど、「それって本当なの?」と、時により私はちょっと納得できていなかったりする。

 

スポーツや仕事や音楽や芸術で素晴らしい才能を発揮できたはずなのに、

世知辛い業界の圧力や他者からの妨害だとか予期せぬトラブルによって、世界に羽ばたく前に燃え尽きて自殺するような人だっているのに、ハイヤーとは言え、わざわざそれを選びますかね…?と。

 

 

ここで

「こんなはずではなかった!(予想も想像もしていなかった)」

「ハイヤーのバカバカ!なんてことをするのよ!」

「私はそんなことをやってくれなんて頼んでいない」

「運命とか神様とか、誰かに選ばされたんだ」

「本当は選んでいないのに、自分で選んだ風にされてしまっている」

「私が忘れているだけだって? そんなの後付けじゃん!」

と言うと、そこで自分の中で対立が起きたり、被害者意識のスイッチがONになりかねないのが注意点である。

 

もちろんこういった場面の数々でも“サレンダー”(物事は完璧に起きている。宇宙を信頼する)が重要なのだが、ここではあえて、ちょっと横に置いておこう。

 

 

思い通りか、思い通りではないか…の二択ではない。

 

思い通りにならないと言いつつ、本当は思い通りになっている。

 

思い通りになっていると言いつつ、でもやっぱり思い通りにいかない。

 

 

「あなたが“思い通りにならない”と思っているから、思い通りにならない現実を自分で創造し、体験することになる」

「人生は思い通りにならないんだという、その想いは“どうか思い通りにならない世界であってほしい”というお願い(オーダー)になっています」

「だからあなたの願いはいつも叶っていて、つまり思い通りになっています」

…というメッセージはあって、(前述のように方便を感じつつも)私もこの通りだと思っている。

 

でもそれを言ってしまうと、ここから先に話が進まないので「思い通りになりませんね~」というテイで話を進めていこう。

 

 

ここで誤解されやすいのだが(私自身も誤解している部分があった)、

 

「すでに、人生はすべてが思い通りになっているから、願いはいつも叶っているから、

もう何も問題ないです。現実も幻想ですので、みなさん今後ともそのまま生きてくださいね~」

…と終わりにしていいわけではない気がする。

 

それだったら私のブログも、この世に出回っている本たちも全部削除してしまっても問題ないし、

誰もそういった情報たちに触れる必要もないし、

せっかくのバシャールも「地球のみなさん、こんにちは。おや、何だかみなさん苦しそうな顔をしていますけど、あなたたちのハイヤーは苦しみを体験したいようです。願いはすべて叶っているので、内心はご機嫌が良いことと思います。ではさようなら。次は20万年後に顔を出します」と10秒くらいで去って行くだけだ。交流もなく。

 

 

しかし私はバシャールに訊きたいことや教えてもらいたいこと、交換し合いたい意見もあるし、

今後とも私たちは色々な本や知識と出会うことで開けていく気づきもあるし、

「スピリチュアルのあれって、どういうことだろう? 武術のこれって、どういうことだろう?」と探究を深めていく必要もあるし、

怒りとか不安とか恐怖について学んでいく必要はあるし、

斎藤一人さんのような教えや生き方も広めていく必要はあるし、

 

“苦しいよ苦しいよ”と人生が行き詰っている人には、「時代は転換期を迎えています。スパルタンのようなド根性を出そうとすると苦しくなってしまうものなんです。あなたが本当に望むことはなんですか? 立派なスパルタンになることですか? 時代遅れなスパルタンをやめることですか?」と丁寧に話をしていく必要はあるしで、

 

…それなのに「すべて幻想です。”エゴは偽物の私、ハイヤーは本物の私”なんてこともありません。全て私です。しかもみなさんがサレンダーしようがしまいが、100%思い通りになっています。いやーよかったですね、では解散!」では、あまりにも雑すぎてしまうというもの(笑)。

 

太極拳には“スワイショウ”という、気功および身体操作の極意とも呼べる準備運動があって、実際に重要なエクササイズなのだが…

「いいから、これだけをやっていろ。宇宙を信頼しろ。これは武術の極意である。後は自分で考えろ。私は帰って寝る」と雑に丸投げをする師匠がいるとすると、その師匠は自身の役割を放棄していると言わざるを得ない。

 

スワイショウが極意なのは確かだし、人に教えを乞うばかりではなく自分の体の感覚を通して気づきを深めていくのも大事だし、

…でも正直これを黙ってやっているだけで武術の達人が誕生するのか?と言うと、限りなく可能性は低いわけである。

 

要するに「みんなもう思い通りになっているので、わざわざ私が教えることはないです。ハッピーエンドです」と終わりにするのはアリと言えばアリだけど、少なくとも私の目からは「それは問題があると思います」ということ。

 

 

…話を戻して、

それで私も、この場を借りて時には

「人生って思うようにいかないもんだな」

「地球のみんなが心の底から笑顔になれる日はいつになったら訪れるんだろうな?」

と、こぼしてみたりする。

 

 

…だってそうでしょう?

 

『一切皆苦』という仏教の言葉にあるように、

私たちはどこかボタンをかけ違っていて、あるいは重大な見落としや的外れがあるから、私たちは普通に生きているつもりでも、何かと人生の中に苦しみが生じてしまっているのだと。

 

「仏教でそう言ってましたから」「お釈迦様は現代人より進んだ意識を持っていて、そんな人が語った言葉だから」

といった理由で、何がなんでも「その通りだ。これが真実である。みんなこれに続け!」という話に持って行くのはいささか急ぎ足かもしれないが、

現代人に必要な、段階的な教えとしては、私は確かにその通りだなぁと感じている。

 

 

しかしいくら仏教のすべてを理解しようが、“そこ”がゴールではないので、その教えが理解できたら次はどうしよう?() という話に思考を進める必要があるように感じる。

 

「どうしようどうしよう?と思う、その作為を持つことをやめなさい。バタバタと暴れる手足の動きを止めて、サレンダー(降参・服従・帰依)するしかないんです」ということでもあるけど…

 

 

だからと言って

「一切皆苦(この世は苦しみだらけ)」「諸法無我(私はいない)」「南無阿弥陀仏(ああ仕方ない)」と一生唱えていても、段階的に見えてくるものはあるけど…

その人の意識が根本から変化していかないことには、その人の人生が良くなることは基本ないのだ。

 

どうせ唱えているなら

「ついてる、ついてる」「ありがとう、ありがとう、ありがとう」「幸せだな~豊かだな~()の方が有意義だと思う。個人的な意見としては。

 

「自分が世界を創造しているんだ」「自分がどんな体験をするか選んでいる」という大前提を忘れてはいけない(私がなぜこれを大前提と呼ぶかは、今後も触れていく)。

それと同時に「運命が私を動かしている。運命に逆らって私個人が何かしようと思っても無駄だ。私はただ大いなる運命の流れに身を委ねるだけだ」という視点も必要である。

 

 

 ちなみに私がここで言っている「どうしよう?」とは、「さて、どのように創造していきますか?」という問いであって、何かしなければいけない、このままじゃダメだ、ああどうしようどうしよう、という焦りや不安や不足感のことを指していない。

 

やや余談だが、言葉とはニュアンスの読み取り方が難しいものだ。

たとえば「この本のどこが面白いの?」と友人に聞かれたとしたら…

「この本に面白い要素なんて、どこにもないじゃん。よくこんなつまらない本を読むね。時間の無駄。理解に苦しむ。この本を好んで読むやつはバカだと思う」と否定的に蔑まれているようにも聞こえるし、

はたまた「正直私はつまらない本だと思ったけど、あなたは面白いと思ったんですよね?」「この本のどういうところが面白いと思ったの? あなたが面白いと思ったポイントを教えてほしいな。そのポイントが私にもわかったらこの本を面白く読むことができる気がするんだよ」という助言や感想、意見交換を求めている場合もあるし…

 

精神世界・都市伝説・宗教・スピリチュアル界ではこのような齟齬が特に発生しやすい気がする。ただでさえ色んな用語や曖昧な概念が次から次へと出てくるのだから。

よって言葉の上でだけ判断しないように、相手の意図や、相手の言葉が指しているその先にあるものをなるべく偏りがないように読み取りましょうといったことが鍵になってくる)

 

 

「意識を書き換えよう」「思考を変えましょう」といった表現は私も何度としてきたが、

本当のことを言ってしまうと…、

私たちが“思考を変える”ことは本質的にはできない。

 

例えば怒っている時にピタっと怒りを止められるような操縦桿を、私たちは持っていない。

 

もし操縦桿を持っているのだとしたら…

怒りをすぐに止められるし、反対にお酒も抜きに一日中大笑いすることもできてしまうだろう。ある映画を観て感動したのなら、その感動を一年中引っ張って号泣し続けることだってできてしまうことになる。

 

それに愛犬が死んで悲しんでいるときに自分のコントロールで涙を止めるとか、もしそれができたらロボットのようで逆に怖いと思う。

愛犬が死んだのを悲しまずに「ありがとう」と笑顔で送り出してあげましょう、とは言うものの、

その愛犬が飲酒運転の暴走によって轢かれてしまったとして、「ありがとう」などと笑えるわけがない。

 

怒るのをやめて楽しくしようと思っても、そんな場合に出てくるのは大体が口元が引きつった笑いくらいである。そして抑え込まれた怒りは昇華することなく、内側でくすぶり続けることになる。

 

私はここで「思考を変えることはできない」と話しているのだが、これは無力感とかブロックとかそういう問題ではなく、ただの構造上の話である。

 

 

…しかしだ。

私たちが普段の口癖を変える、普段取っている行動を変える、環境を見直す、フォーカスを意図的に変えるといったアプローチをしていくことで、

結果的に“思考が変わっていく”ことはあるのだ。

 

少なくとも私は「神様お願い、私の思考を変えて」とお願いをすることで、自分の思考が変わったことはない。

自分が変わらないのなら、神様がどんな力を持っていても私の思考を強制的に変えることはできない。自分のコントロールを他人に明け渡して霊に憑依とかされない限りは。

それに無理やりこじ開けるようなマネが神様にできたとしても、後の反動・跳ね返りが怖いと言える。

 

伝わりづらい変な表現となってしまうが、“思考を変えたかったら、自分が変わるしかない”ということ。

 

…ただし長年の使用によって染み込んだ思考アプリのアンインストールには時間もエネルギーもかかってしまうと考えた方がいい。

「私、本当に、本当に変わりたいんです。でも変われないから苦しいんです」といった声は、あちこちで聞かれないだろうか?

 

もちろんサクッとできる人であればそうした方がいいと思うので、あまり“難しい、難しい、自分にはできない”とハードルを必要以上に上げないことだ。

 

(追記すると… アカシックレコード=図書館にすでにデータとして残っている意識を書き換えることはできない。

どこにフォーカスするかによって個人の思考や意識が変わっていくので、”書き換える”という表現は不適切であり、より正確に言うなら”選び直す”ということ

 

 

それで、自分が変わるためにはどうすればいいか?

 

そのためには

「こういうときはこう考えるといいですよ」と書かれた本を文字の集合として読むのではなく、感覚を通しながらじっくりと読んでみるとか、

憧れの人は普段どういう考え方をしているか観察してみるとか、

 

会社が嫌だと思ったら自分ではなく環境の方を変えてみるとか、

(人が環境を作っているのだけど、

環境が人を作っている面も大きい)

 

健康状態が良くないのなら食事を変えてみるとか、

(便通が良いか悪いかだけでも、その人の思考に影響が出る。

軽やかな思考ができているから便通が良いのか、

便通が良いから軽やかな思考ができるのかは、卵が先か鶏が先かの話だけど、

どちらにしても食事を見直す必要はある)

 

頭ばかり使っている人は運動に取り組んでみるとか、

無意識に、習慣的に使っている口癖を意識的に変えていくとか、

自分は普段どんな思考をしているか注視して気づいてみようとか、

テレビのニュースで報道される怖い話から離れて、自分の好きなことに取り組むとか、

 

…まあ探せば色々とあるので、自分がいいと思ったものを選んで実践してみることをオススメする。

 

 

それで、こういった一連の取り組みを総合的に、

そして簡易的に“自分の思考を変える”と表現しているのである。

 

だから言葉尻だけを捉えてしまう人、あるいは精神世界を深く学ぶ人はつい、

「何を言ってるんですか? 私たちが思考を変えるなんて、できるわけないじゃないですか。それも幻想です。そもそも変える私というものが不在なんです。もうサレンダーしかないです」

「思考を変えるのが私なら、変えられる思考とは誰のものですか?」

と冷笑を浴びせたくなってしまうのだ。

 

だから私はそういった横槍に対しては

「やっぱり”私”というものは何か?という問いは欠かせないですね」

「でも話がややこしくなるので、そういう揚げ足取りはいらないです。それとも、ややこしくすれば満足しますか?」と言いたい。

 

私自身も非常にややこしい話をしている張本人なのだが(笑)。

 

 

「Design Your Universe 第十四話 -選択/運命 pt.VI<楽>-」

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