白い雲と兄弟

 

 

「にいちゃん。みてみて。あの雲。」

「なんだよ、今兄ちゃん、メダカを捕まえようとしてたんだから。どれ。」

「ほら、あの雲。母ちゃんが使ってるザルみたいだな。」

「そうかねぇ。おれにはザルじゃなくって、兵隊さんの兜にみえるぜ。」

 

真夏であった。真夏の青空の下、幼い兄弟が田んぼのあぜ道で遊んでいた。あたり一面に広がる田んぼ。イネが青々と伸び、真夏の太陽に照らされて、時折風に揺れながら、輝いて見えた。

 

「でかい雲だな。それにしてもでかいな。」

「兄ちゃん、あっちの雲。ほら。みてみて。」

「ああ、見てるよ、兄ちゃんも。」

「あの雲。芋みたいだな。でっかい芋。」

「おまえ、毎日芋の話ばっかりしてっから、なんでも芋に見えるんじゃねえのか。」

「じゃあ兄ちゃんには何に見えるんだよ。」

「そうだなあ。おれには、兵隊さんの水筒に見えらあ。」

 

 用水路には、澄んだ水が緩やかに流れていた。水草が底の方で、揺れていた。メダカが泳いでいるのが見えると、兄弟はそれを眺め、手で掬おうとした。

 

「8月もなかばになると、夕方は少し涼しくなるって、父ちゃんが言ってたな。」

「兄ちゃん、父ちゃんは今頃どうしてるんだろうな。」

「父ちゃんのことは、心配すんな。」

「おれ、早く父ちゃんに会いてえよ。」

「父ちゃんも、きっと早くおれたちに会いてえのさ。」

「なあ、兄ちゃん。あの雲。ほら。みてみて。」

「おう、雲がどんどん流れて来るなあ。お前は、あの雲は何に見えるんだ?」

「あれ、日本に見える。」

「ああ、そう言われりゃそう見えるな。すると、あの辺りがおれたちのうちだな。」

「あの辺りって、どこだよ。兄ちゃん。」

 

 雲の丁度真ん中辺りを指し示す兄の指先を、弟はしばらく見詰めて、その指先が示す方へ眼を移した。真ん丸とした眼であった。額に汗をかき、顔も首も腕も足も、真っ黒く陽に焼けていた。兄の指先も、その付け根の手も腕も、肩も首も、足も、もちろん顔も、弟と同じく真っ黒く陽に焼けていた。

 

「兄ちゃん、おれたち、日本の真ん中に住んでんのか。」

「だいたい真ん中だ。」

「ヨシちゃんちは、どの辺だろうな、兄ちゃん。」

「おれたちのうちの、三つ隣だから、ちょっと右のほうだ。」

「へえ。そうかあ。」

 

 真っ黒く陽に焼けた兄弟。青々と輝くイネ。だだっ広い田んぼ。きらきらと流れる用水路。その場面にあっては、兄弟を真ん中に置き、余所で起きていることなど、まるで作り話のようであった。まるで時間が止まっているかのようであった。兄弟が見上げる青空には、白い雲が、時折、穏やか過ぎるほど穏やかに流れてきた。

 

「なあ、兄ちゃん。おれ、兄ちゃんが学校に持ってってる地図、見たんだ。」

「おう、お前あれ見たのか。どうだった。面白えか。」

「何が書いてあんのか、分かんねえんだけど、海の向こうって、何があんだろうな?」

「何だよ、いきなり。」

「米国とか、英国とか、母ちゃんたちが言ってた国も見付けたんだ。」

「おめえ、何が書いてあんのか分かんねえって今言ったじゃねえか。」

「その辺の壁に貼ってあるのと同じ字だもの。なあ、兄ちゃん。父ちゃんは海の向こうに行ったんだろう?海の向こうの、何処に行ったんだよう?」

「だから、父ちゃんのことは心配すんなって言ってんだろう?」

「おれ、父ちゃんに会いてえんだよ。」

「そんなことばっかり言ってると、また母ちゃんに怒られるぞ。」

「だってよ。だってよ、兄ちゃん。」

「うるせえぞ。ヨシちゃんちの父ちゃんも、行ったじゃねえか。」

 

 弟がまだ、今よりもずっと幼い、母親に抱っこされていたころに、父親は出征したのであった。弟は、父親がどこか遠い場所に行ったということは分かっていたが、それが何のためかまでは分からずにいた。兄から、父親の写真を見せられ、父親の話を聞かされていた弟は、父親に強く憧れた。出征の当時は兄もまだ幼かったが、兄は、父親が何をしに家を出て行ったのかを知っていた。

 

「なあ、兄ちゃん。あの雲。みてみて。大きなお舟みたいだな。」

「そうかな。おれにはでっかい芋に見える。」

「兄ちゃんまで芋かよ。」

「それにしても、腹減ったなあ。」

「母ちゃんが我慢しろってよ。また腹減ったなんて言ってると、母ちゃんに怒られるぞ、兄ちゃん。」

「ああ、分かったよ。分かってんだよ。」

 

 兄弟はしばしば、母親から叱り飛ばされた。兄弟が空腹を訴えれば、そんなに腹減ったならその辺で食えるもん探して食えばいいだろ、ただし人様のものに手を付けるんじゃないよ、と怒鳴った。また、ある日弟が、兄の地図を見ながら母親に、兄と一緒に父親の元に行きたいと言えば、あんたたちまで行かれたら、あたしゃどうなるんだよ、と怒鳴り、堅いゲンコツで弟の頭を叩いた。

 

「母ちゃん、おっかねえぞ。兄ちゃん、また打たれるぞ。」

「ああ。打たれた後になっちゃえば、打たれた痛さなんて忘れちゃって。また同じこと繰り返しちゃう。どんだけ痛いめにあってもな。なんでだろうな。駄目だよな、そんなんじゃ。」

「母ちゃん、この前、めそめそ泣いてんだよ。兄ちゃん知ってるか?おれ、母ちゃんの泣いてるの、見たくねえよ。」

 

 兄は弟の話を聴き、口を閉じて遠くをぼんやりと見つめた。兄の心の底から、どうにもできない、言い知れぬ熱い何かが、込み上げた。兄は、その熱い何かを、これまで何度も経験していた。熱い何かは、兄を、時に苛立たせ、時には悲しませ、泣かせた。何か別の方へ、気持ちを向けてみるものの、その熱い何かを、心の底から根ごと引き抜き捨て去ることが、どうしても出来ずにいた。兄は歯を食い縛り、拳を力の限り強く握って、その体をわなわなと震わせた。

 

「兄ちゃん、みてみて。あっちの雲。ほら。ありゃ飛行機だ。」

「おう、飛行機だ。本当だ。飛行機だな。」

「飛行機は、空飛ぶんだろう?兄ちゃん。空に飛んでいけるんだろう?」

「そうだ。飛行機は空を飛ぶんだ。」

「どっか遠くの方まで、飛んで行けるんだよな、兄ちゃん?」

 

 兄は、次に弟が何を言い出すのか、見当がついていた。そんな兄弟の想いに寄り添うかのように、大きな白い雲が、優しそうに、兄弟の真上にやってきた。

 

「兄ちゃん。おれ、あの飛行機に乗って父ちゃんのところに行きてえ。」

 

 一寸躊躇ったものの、喜びに眼を輝かせる弟を見た兄は、弟の言う言葉に、ついに、自らの心を開いて大声で言った。

 

「よし、あの飛行機に乗って行くぞ。遠くの、海の向こうへ。お前はまだ小さいから、本当は飛行機には乗れないけど、おれが特別に乗せてやる。主操縦手はおれだ。お前は副操縦手だ。飛行機が飛ぶぞ。高いところを飛ぶぞ。ものすごく速いんだぞ。降りたくても降りられないんだぞ。母ちゃん、おっかねえなんて泣いても知らねえぞ。よし、それ、行くぞ。飛行機で、父ちゃんを助けに行くんだぞ。いいか。」

 

 兄が弟に向かって、背筋を伸ばして立ち、凛々しく敬礼をした。弟は、眼を輝かせたまま、口を真一文字にし、兄の身振りを真似た。

 

「それ、出撃!ほら、お前も言うんだよ。出撃!」

「出撃!」

「行くぞ!ぎゅいいいん!」

「ぎゅいいいいん!」

 

 兄も弟も、そのやせ細った両腕を横に広げて、飛行機となった。ぼろくなった草履に、土埃で白くなった両足で、田んぼのあぜ道を駆け回った。兄弟の目ざすところは、遠い海の向こう。あぜ道を飛び立ち、青々と輝く田んぼを真下に見下ろし、兄弟は、海の向こうへ飛び立つ飛行機になった。だだっ広い田んぼの、遥か彼方の地には、大きく連なった山々が、ぼんやりと、涼しげに見えていた。

 

 

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 その日の晩、兄弟が眠る頃、無数の爆撃機が、兄弟の住む町めがけて、轟音を鳴らし飛んできた。無数の爆撃機は、町の中心部や、その外れの田畑までも、容赦なく空爆した。鳴り響く激しい爆撃音と共に、瞬く間に、町の全てが、炎の海と化した。人々は、裸足で駆けだし、悲鳴や怒号をあげ、逃げまどうが、迫りくる炎の波に呑まれ焼かれてしまう。躓いて倒れる人。その上を踏みつけにして走り逃げる人。年寄りも。女も。赤ん坊も。家々も。電柱も。道も。田んぼも。あぜ道も。町一面が、炎で赤く染め上げられる。町の中心部を流れる川に、炎と化した大勢の人々が飛び込む。何人も。何人も。次から次へと。川は流れを止め、助けを求め飛び込んでくる人々で埋め尽くされる。町も、人も、炎の海にあって、為す術はなかった。

 

 あくる日。いつもの夏の日のように、町の真上には青空が広がり、白い雲が時折流れてきた。何もなくなってしまった町から、炎の波が引き、燻ぶり煙をあげるなか、雑音の混じった敗戦の知らせが告げられた。

 

 かの爆撃は、終戦の日の前の晩のことだったのだ。

 

 焼け野原。町の中心の川に飛び込んだ人々の遺体。生き延び茫然と座り込む人。泣き叫ぶ赤ん坊の声。

 

 

 あの兄弟は、どうしただろうか。

 

 

 

 

 

 

今日はこれにて。