光の中で歩を進めるのなら、それほど苦にはならない。暗がりの中を進むのは、手さぐりになり困難が多い。「光りあるうち光の中を歩め。」と言われるままに、歩いてはみたものの、それでも歩く者の表情はといえば、どこか寂しそうな、あるいは自分には、他に進むべき道があったのかもしれない、とでも言いたそうな様子でさえある。あまりに約束された道を歩むことに、退屈で窮屈な、むしろ多くの時間を損しているかのよう。こうした感覚は、理解しにくいようで、実は多くの人が経験しているのではないだろうか。

 

 

 「とにかく、先ずはやってみよう。人とは違う何かを。」といった姿勢で生きていると、人と違うというだけの理由で、周囲からは理解されない。周囲は得体の知れない何かを目の前にして恐れながら、くすんだ表情で見つめてくる。その視線を感じられるのであればまだ増しな方で、危険な者と捉えられ見向きもしない人が周囲を行き過ぎるのは孤独そのものだ。人と同じようにしていれば、それで人から受け入れられもするし、安心なのだ。しかし当の本人はそれに満足しきれていない。そのような、周囲の人の真似をして生きることは果たして、本来の自分なのだろうかと違和感を抱く。

 

 

 ギターのジミー・ペイジは自伝で、自分がアートスクールに通っていた当時の先生たちは皆、新しいものを目ざすことを奨励し、人の作ったものを一度崩して自分等らしい解釈で作り直すくらいの勢いで何かをやってみることを、学生たちに勧めていたという趣旨のことを書いている。時代がそうした斬新さを求めていたということも考えられる。

 

 

 なるほど、歴史的な何かは皆どこか発想がぶっ飛んでいる。レッド・ツェッペリンの作品はいずれのものも歴史的と私は言いたいのだが、そのいずれの作品を取っても、彼等は彼等なりの自由で独特な解釈で、様々な事柄を表現してきたのだ。

 

 

 しかも彼等は往々にして、そうしたかなり個性的な音楽創作を、意図的に行うのではなく、むしろ彼等の魂の赴くままに、極自然にやってのけている、といった印象を私は抱く。そこに論理的思考といったものの存在感は目立たない。とにかく実験的手法で何かを表現することに、ある種の快感を覚えている。素直に、感性のままに、音楽を創り出しているのだ。「これは人と違う。それは人と同じだ。ではやめようか。いや、やはり同じでもいいからやろうか。」などといった会話を彼等が交わしているとは、私はどうしても想像できない。

 

 

 そして彼等が幼いころから慣れ親しんでいる、英国の自然の尊さ牧歌的で穏やかな、且つどこか切ないような風景といったものが、意図せず極当たり前に彼等の創作を手伝い、ひいては彼等のあらゆる作品群に往々にして感じられる雰囲気となっているのだ。さらに、そうした自然の中で暮らす人々の心の模様も、彼等の作品の中に、雰囲気となってよく登場する。日常的な喜怒哀楽であり、あるいは言い知れぬ侘しさ喜び、そしてまたある時には激情ともなる、まさに移ってはまた戻るような人々の心の有り様だ。「静」と「動」という二つの局面の絶妙な織り交ぜは、彼等の音楽の大きな特徴と思うが、それはまさしく彼等が見聞きして育った、自然の中の存在として生きる人々の心の模様ではないか。

 

 

 私はレッド・ツェッペリンに憧れて久しいのだが、私が彼等に向ける感情の中で、あるいは最も強く長く私の心に在るものは、まさに上記に掲げたような、「周囲を意識する習慣のないまま、自らの感性のままに実践する」という、彼等の姿勢への敬意である。ともするとそれは敬意と言うより、羨望とも言えそうだ。

 

 

 私はレッド・ツェッペリンが音楽を創り出すように、ただ素直に自らの感性の赴くままに、生きるということに憧れてきたのだろう。彼等の音楽を聴きながら、そのような自己覚知をしている。

 

 

 今回紹介するのは彼等のスタジオアルバムとしては第5作目にあたる、「Houses of The Holy」、邦題は「聖なる館」である。これまで同様、彼等の織り成す「」を聴きながらの紹介をしていこうと思う。

 

 

 

 

1曲目「The Song Remains the Same」

 開始早々に、疾走感に満ちたジミーのギターのフレーズが響く。ジョーンズのベースとボーナムの堅く重いドラムが加わり、疾風に乗って馬が駆ける音のようだ。重いキメに合わせ、ロバートの歌が始まる。彼には夢があるのだそうだ。狂った夢が。彼とは、この歌の中の主人公。その壮大な何かに向かって、何かを起こそうと立ちあがる。「今ここで走りださなければならない!」とひらめくやいなや、主人公は馬に乗って駆け出す。幾つもの景色が過ぎて行く。後ろなど振り返らない。ただひたすらに、駆けてゆく。この曲の雰囲気には、夢に満ちた青年の心の躍動を思い浮かべられはしまいか。例によって曲調は、彼等らしいハードロックといった感じだが、重量よりは速さが特徴だ。特にジミーの12弦エレキギターの効果的なフレーズが、まさに駆け抜ける者が切って過ぎてゆく風のよう。曲の終りにロバートの、まさに駆け抜けるその瞬間を謳歌しているような歌声が響く。

 

 

2曲目「Rain Song」

 英国には雨がつきものだ。年によっては比較的少ない雨量に終わることもあるらしいが、それでもやはり英国といえば雨。毎日一度は雨が降る。野外で、芝の上で昼食を摂っていたら、急に雲行きが怪しくなり、案の定雨に降られてしまい、急いで木陰に逃げる、ということを私は英国で経験したことがある。雨を日本で好まなかった私であったが、雨の国とも言える英国で降られる雨にはある種の感慨深さがあり、私はその雨模様を歓迎さえしたものだ。また、ひとしきり降った雨が上がり、また晴れ間が戻り、そこで空に架かる虹が、何とも美しかったこと。この曲の題名は、そのままに、雨の歌とでもいおうか。レッド・ツェッペリンが生まれ育った英国の雨への感慨深さが、私をしてこの曲に特別な思い入れを持たせる。ジミーのアコースティックギターの穏やかで美しい音色に、ロバートの語りかけるような歌声。ジョーンズの鍵盤は雲の流れのようでもあり、雨上がりの光のようでもある。ボーナムは曲の中盤から所々にドラムを入れるが、それはまるで雨の景色の美しさへの感嘆のようだ。その繰り返しから、曲調は一変し、激しさをもって躍動する。ジミーのエレキギターにボーナムのドラム、ジョーンズの鍵盤までも、重く激しく鳴り渡る。そこへさらに、自然の偉大さを前に思わず叫ぶようなロバートの歌が乗る。そしてまた曲は静かになり、ジミーの優しいギターフレーズで曲が締めくくられる。始終スローテンポで優雅に展開される、まさに雨の景色のどことなく切ない雰囲気を思わせる曲だ。この曲は、「レッド・ツェッペリンⅣ」に収められている大曲「Stairway to Heaven」に迫るほどの力作と私は思っているのだが、何しろ曲のメインとなるジミーのギターフレーズが、珍しい和音で演奏されているのが特徴で、或る意味明解な「Stairway to Heaven」のアルペジオに比べると、聴き取って真似て演奏するには少々難しい印象だ。それにしてもこのジミーのアコースティックギターの音色は、本当に美しい。

 

 

3曲目「Over the Hills and Far Away」

 またもやジミーのアコースティックギターの音色で始まるのだが、その旋律は、まるで新しい遊びを考えついた子供たちが、期待に胸ふくらませて走りまわる姿のような、たまらなく軽快で明るい表情をもって響く。ギターは重奏になり、さらに楽しそうに鳴る。ロバートの歌声は、一緒に行こうと聴き手を誘うよう。開始から暫くはその調子で経過する。そして、やはりと言わんばかりに、これまた彼等らしくジョーンズのベースとボーナムのドラムが加わった重いキメを聴かせて、以降はずっしりと鳴りつつも軽快さの残るロックへと展開する。ロバートの歌が止む間に聴こえるジミーのギターフレーズに心は躍る。転調を見せる間奏でジミーはあまり激しくギターソロを弾かないが、また元の展開に戻るときの旋律が、明るく愉快な遊びを思わせるようだ。そこでジョーンズはベースで同じ旋律を弾き、旋律が生き生きとする。曲の終わりには、この曲の始まりのギターフレーズが、ゆっくりと静かに、遠くの方で鳴っている。遊ぶだけ遊んだ子供たちが、陽が暮れる遠くの丘を眺めているように。

 

 

4曲目「The Crunge」

 ボーナムの堅く重いドラムで始まるものの、フレーズにどこか無造作な印象をもって聴いてしまう。さらにジョーンズのベースがその無造作な感じのドラムに、重く太く乗ってくる。そしていよいよジミーの出番だが、軽快なノリを重視した、音を細かく切って弾くギター演奏を乗せてくる。ここで漸くにして、この曲の輪郭が整い、正確にまとまった曲として理解できるようになる。この曲は、各楽器とも決して難しい演奏をしていないのかもしれないが、輪郭が整ったうえで聴いてみると、彼等だからこそできる演奏なのではないかと思うくらいに、合わせて演奏するのが難しい印象だ。そのまとまり方に、たまらない躍動感を覚え、曲のはじめにこの魅力を理解できなかった自分を恥じる程だ。ロバートは、弱冠声をつぶして粘らせて歌うように聴こえる。彼等が自由に、遊び心をもって、まさにレッド・ツェッペリンとしての演奏を楽しんでいるのだ。

 

 

5曲目「Dancing Days」

 ジミーはレッド・ツェッペリン時代に、ギターアンプはマーシャルを多く使用し、その音は彼らしさの象徴ともいう程に、多くの曲に共通して聴けるのだが、彼は音へのこだわりから、その音色に様々な効果を加えて、元々の音を変えることがある。曲毎に違う音色に聴こえることはしばしばだ。この曲のギターもやはり、意図して空間的効果を加え、さらにざらつきながらも粘り気のある音にし、独特な工夫を試みているようだ。ジョーンズのベースとボーナムのドラムは例によって重厚で、曲をしっかりと締めているが、ジミーのギターの旋律には、どこか緩さがある。ロバートの歌も迫力をもって聴かせるというよりもむしろ力の抜けた、楽天的な印象だ。これから何をして過ごそうかと、休日の明るい時間帯に何かを期待する人の気分を想像する。

 

 

6曲目「D’yer Mak’er」

 レッド・ツェッペリン版レゲエ音楽、というのがこの曲の一般的な位置づけのようだが、彼等の持ち味である重厚感が、単なるレゲエ音楽という印象をどうしても与えにくいと私は感じている。あるレゲエ音楽の評論家がこの曲を聴いて、「レッド・ツェッペリンはレゲエを分かっていない」と批評したことがあるらしいが、彼等は自らの解釈と取り組みで、あくまでも彼等らしく新しい音楽を創造したということにできないだろうか。曲調はまさしくレゲエという程にゆったりしているのだが、そこにもジョーンズとボーナムの演奏の重さが際立っており、その融合のような現象が絶妙だ。特に、途中でボーナムが単独で入れてくる堅く重いフレーズが、曲にメリハリをもたらす。ジミーのギターもそれこそレゲエを想わせるように終始軽く鳴っており、ロバートの歌といえば、細かいルールに縛られずに呑気に歌うようであり、天真爛漫だ。恋人に軽く愛情を囁く歌が、またもや曲を明るく楽しくする。ジョーンズのピアノが効果的に入ってきて、この曲を明るく盛り上げる。

 

 

7曲目「No Quarter」

 ジョーンズの、暗い深淵か、もしくは深い湖の底から聴こえてくるかのような鍵盤の音色に導かれ、曲が始まる。しばらくジョーンズの独奏が続き、やがてロバートが、いつになく暗い表情の歌声で歌い出す。全体の雰囲気は、さしあたり、侘しさの中で、座りこみ、手元に目を落とし、ぼんやりとする者の心情のよう。心という川の流れに乗って、様々な思いが運ばれて来ては、すぐにまた流され消えてゆくが、後悔のような、理不尽さのような、受け入れるにも受け入れられない、捨てたくても捨てきれない思いが、結局いつも心の隙間に残ってしまう。そうした遣る瀬ない者の心だ。途中からジミーのギターリフとボーナムのドラムが入るが、ジミーの音はざらつきがあるもどこか控えめに聴こえる。間奏でジミーとジョーンズのそれぞれのソロが、まるで二度と戻れない過ぎ去った日を嘆くかのような旋律であり、さらに光陰矢のごとしとばかりの時間の経過を思わせる、ジミーのテルミンが聴こえてくる箇所も、短いながら大変印象的だ。ジミーのギターリフが繰り返され、次第に静かになっていき、曲が終わる。この曲は、レッド・ツェッペリンのライブ演奏において、ジョーンズのソロタイム曲として往年のファンにとって大変印象深いものだ。

 

 

8曲目「The Ocean」

 ボーナムが曲の出だしのカウントを、その特徴的な声で執っているところから始まる。ジミーとジョーンズ、さらにボーナムが一斉に力強く演奏して始まるこの曲だが、その出だしがまたもや堅く重く、彼等の音を愛する者にとってはまさに「痛快」だ。それでも曲の主となる内容には、あまり快活さはなく、少々怪しげな雰囲気がある。ロバートの歌声もあまり強く叫ぶこともない。この曲のジミーのギターリフは基本的に2パターンであるが、大変印象深い旋律であり、改めてジミーのアイデアの豊富さや、閃きの凄さに驚かされる。「レッド・ツェッペリンⅡ」に収録されている「Whole Lotta Love」や「Heart Breaker」にも迫る程のギターリフであろう。しかし間奏でジミーは、ギターソロにてあまり強い主張はしてこない。このギターソロの最中に、よく耳を澄ますと、遠くで電話が鳴っている音が聞こえるので、興味のある方は試してみてほしい。ギターソロの後のブレイクで、ロバートが、いわゆるスキャットを歌うが、その歌声に何やら妖艶な感じを受ける。再度ジミーのギターリフが展開されるが、この曲を開始からここまで聴いてみて、単調な印象を受ける、という人はいるのではないか。力強く始まるわりに曲全体は怪しげで妖艶さもあり、この雰囲気のまま同じフレーズが繰り返されて終わるという、分かり易い構成の曲なのか、と思わせておいて、実はこの曲はそこから急展開をみせる。いかにも明るく軽快で、脳天気な曲調に大きく変わるのだ。ジミーが自由奔放にギターソロを弾いて聴かせる。ジミーの後ろでロバートがコーラスを、これまた自由な歌まわしで入れてくる。ジョーンズもボーナムも軽快なフレーズを、しっかりとした重さで支えるように演奏している。彼等全員で彼等らしくこのアルバムの最後の曲を締めくくる。この急展開に、聴き手は意表を突かれることになる。

 

 

 

 

 レッド・ツェッペリンの特徴といえば、ジミーとジョーンズ、さらにボーナムがまとまったときの、堅く重い演奏であり、この作品「聖なる館」においても充分に聴かれるのだが、ジミーの粗削りなギターソロは少なく、音全体も重厚感よりも軽快さが主となっている。また、ロバートの歌の声質にも変化があり、高く透明で空間を張ってくるような歌声はあまり聴かれない。しかし、それらをもって、彼等の演奏が技術的に低下したと考えるのは間違っていると思う。この作品に収録されているいずれの曲にも、彼等でなければできない独特の演奏やアイデア、雰囲気がある。前作「レッド・ツェッペリンⅣ」と、あるいは同じくらいの「音」に対するこだわりの強さがあり、さらに実験的要素の量的質的変化がいっそう顕著である。

 

 

 人とは違う何かをもっており、それをいかに実現するか、具現化するか。レッド・ツェッペリンというバンドはそもそもそういった感覚の中から誕生したのかもしれない。自分独自の、人とは明らかに異なることを、極当たり前のように実践するということが、習慣化されており、周囲の人と同じ要素を持ち合わせていない人の集合。それがつまり、レッド・ツェッペリンというバンドなのではないだろうか。自分の持っている何かに気付き、それを完全燃焼させるほどに、取り組むことができたなら、それは間違いなく幸福なことではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日はこれにて。