小島秀夫作品は僕にとって古典文学同様の意味を持つ。

僕はそこから影響を受け、随分精神的に救われた。


「メタルギアソリッド1」は第一級の素晴らしいエンターテイメントだった。

だが、それ以上に、スネークという、文学や映画以上に

生き生き描かれたキャラクターの魅力がそこにあった。

スネークは僕がそう生きるべきモデルの一部となった。


「メタルギアソリッド2」は現実とは何かを教えてくれた。

バーチャルリアリティーが現実世界を変える?

それはまるで古くからの哲学、認識論の問答のようだ。

正直ライデンには感情移入できなかったが、

イロコィ・プリスキンは僕にとってフィクションにおける最高のモデルとなった。


「メタルギアソリッド3」は完璧なゲームだった。

完璧なキャラクター描写、ストーリー展開、そして完璧なエンディング。

正直これは小島作品の頂点だったと思う。

いろいろ言いたいが言えない。

沈黙をもってしかこの完璧なゲームを表現できない。


「メタルギアソリッド4」、悲しい英雄の最期の物語。

30代後半にさしかかった僕は自分とスネークを重ね合わせた。

徐々に老いていく自分と急激に老化していくスネーク。

なかなか消えてくれない心の傷と戦うだけで疲弊する毎日。

僕は初めて髭をのばし、スネークと自分を同化することで、

その精神的危機を乗り越え、文字通りスネークに救われた。


こんなゲームが他にあるだろうか。

奇跡だ。

小島監督に心からお礼を言いたい。


そして「メタルギアソリッド・ピースウォーカー」。

僕はこの作品は上の4作品と同じように並べるべきではないと思う。

後継作と呼ぶにはゲームの性格が違いすぎる。

おそらく「メタルギアソリッド」独特のおもしろさをモンハンの世界に

持ち込みたかったのだろう。確かにそれはそれで面白い。

でも「メタルギアソリッド4」までの正統作品とは一線を画している。


「メタルギアソリッド」の一番の醍醐味は単独潜入だ。

「孤独」というものが常にそこにはあった。

そして「孤独」というテーマがそれほど魅力的な理由は、

人は本質的に孤独な存在だからだろう。

だからこそ「愛」や「ぬくもり」に飢えてしまう。

それを求めた結果、

自分が孤独であることを再確認することになるのだとしても。


だが我々は携帯やインターネットでのかりそめの結びつきによって、

本来の孤独感を完全にマヒさせ、そこからの苦痛をごまかしている。

誕生日には誰かからのメールが来るし、

何かいいことが起こればお祝いメールが来る。

寂しくてたまらない時には誰かにメールを送れば応えてくれる。

まるで孤独は消えうせたかのよう。

でも本当に消えうせたのだろうか?

見えないだけではないのか、見ようとしないだけでは…。


現実を正しく認識しないものはいずれ何らかの病いに陥るものだ。

人が本来孤独な存在であるなら、それを忘れない方がいい。


「メタルギアソリッド」の話からは随分それてしまった気もするが、

僕には集団でミッションを遂行するスネークよりも、

単独でミッションを遂行するスネークの方がリアルに思えるのだ。


「ピースウォーカー」は「メタルギアソリッド」シリーズの

正統な後継作ではないと僕は主張したい。


結局ゲームでも映画でも小説でも、いつの時代でも、

本当に人の心を動かすのは、よく描かれたキャラクターだと思う。