教えるといっても、
自分が教えるレベルに達していなければならないわけではない
教えるという行為にも複数のケースがある
1)その全てを理解した上で、誰かを教える
2)まだそこまでのレベルには達してはいないが、知っていることを情報として与えることが出来る
3)なにもわからないが、その行為を見ての感想を言うことが出来る
教えること=プロや先生レベルではなければならないわけではない
今回は1)を省いての考察としてみよう
2)のことについては、
上手くなりたい気持ちや、それをある程度経験をしたことで、
教える行為は成立すると考える
ここで大事なのは、教える相手がそこからどれだけ上達をするかではない
教えている自分が、教える行為によって何かを得て、そこから上達をする
ここに注目をしてみたい
自分の中で、上達を目指すためのアレコレがあると思う
上達をするには、その課題であったり、注意点をクリアをして行き、
一歩一歩前に進んで行かなければならない
しかし、現実は前へ進むことだけを許さない
わかっているはずなのに、それが出来ない
わかっているつもりなのに、それを忘れる
一歩前へ進むどころか、後退をしてしまう
本題
自分のために誰かを利用しよう
誰かに何かを『教える』ということは、
相手がそれに対して納得の出来るものでなければならない
・上手くなるために必要なこと
・上手くなるためにやってはいけないこと
・その根拠
・実践
教えられた側が、教えてもらって良かったと思えないような内容では意味がない
教えるからには、責任を持たなければならない
その責任感こそが、自分が上達をするためのエネルギーになる
先生「ここはこうやって~・・・」
生徒「先生!先生自身が出来てませんけども!」
こう言われてはツライ
ではどうするか
今まで以上にそれを気をつける
言ったからには、それが出来なくても、出来るように努力をすること
もしも、教えたことを自分自身がやってみて
努力をしても出来ない
努力をしても上手くならない
のであれば、
その教えは間違っているということ
その教えた内容は無効であるし、無駄な努力はしない方がよい
今の説明で気づいてもらえただろうか?
他人を教えたことでの責任感の部分以外に、
自分の上達理論や、今自分が上手くなるためにやっているアレコレが、
間違であることにいち早く気づけること
ここ、凄く大事
教える内容を自分が反復をすることだけが上達の要ではないのだ
取り組むべきことを客観的に見ること
見た結果が相手に対しても、自分に対しても有効な手段であるのか
それを、いち早く察して上達のステップにする
そういう目的も兼ねている
3)について
例えば、何もわからないのがダーツとしよう
わからないから、ダーツをプレイしている人間に対して意見を述べてはいけないのか?
答えはNOだ
ダーツがどういうものかわからなくとも、
それをどう感じたのかは個々それぞれの感想がある
ダーツを始めたばかりのC君が居る
ダーツ暦2年のA君が居る
C君が、A君に意見を述べることはNGか
答えはNO
C君には、A君のダーツを見ての感想が少なくともあるはずだ
その感想を引き出そう
A君のダーツは
格好がいいのか
格好が悪いのか
他の上手い人と比べて
なにが違うのか
どこが似てるのか
C君が、ダーツに関して疑問に思っていることを聞いてみよう
初歩的な疑問や質問があるかもしれない
だからといってそれを馬鹿には出来ない
物事の初歩は基本の宝庫
何日も、何ヶ月も、何年もやっていると、
上達のためのその先は考えるようにはなるが、
実は、本当の上達の要は基本に返ることで得る大事なことが多い
そういう練習に麻痺をした脳を蘇らせてくれるのがC君のような存在なのだ
コアな野球ファンが、お気に入りの選手を批評する
その批評はあながち間違いではないことが多い
つまりは、目が肥えているのだ
『プロの投手に対して意見とは、素人が何を生意気な』
これを言ってしまってはそれ以上の情報は得られない
耳を傾ける
他人の意見
素人の感想
そのどこかにヒントが隠されているかもしれない
その意見が間違いだと思えば、自分が絶対にやってはいけないこと
自分の背中は見ることが出来ない
ならば、多くの人に自分の背中を見てもらおう
鏡に映した自分で見る背中と、違った側面が見えてくるはずだ
他人を教えるということは
自分自身が教わるということ
柔軟に対応の出来る能力を身に付ける
それが上達の近道になる