さすがはオスカーを独占した作品。カラーとモノクロ、現在と過去の組み合わせ、大義と野心、嫉妬、復讐。おまけに次々に登場する聞いたことありそうな名前。どこまでが真実で、どこからが創作なのか。そんなすべてが緊張感と混乱を生み出す演出。あたかもオッペンハイマーと世界の双方の未来を予見するかの様なオープニングとエンディングのアインシュタインとの会話の配置。「ダークナイト」シリーズ同様に拗れた設定を描かせたら間違いないクリストファー・ノーランの世界感、お見事です。


科学者としての功名と戦争の勝利のための手段。それはいずれも相手に先んじなければ得られない果実。しかし兵器は科学と異なり、相手も同様のものを持つことでその絶対的価値は失われます。それは微妙なバランスで積み木を積み上げ続ける様に危うい「相互確証破壊」という、双方が相手を破壊し尽くす量の核兵器を持つことを前提とする「ゲーム」の始まりを意味しました。

 

個人、国家のそれぞれが壮大な「利己」に向かって切った舵が今日の世界を形づくる。集団ヒステリーの様に足を打ち鳴らす群衆は、その選択が将来、世界を滅亡の淵に追いやることになることなど微塵も想定していなかったに違いないのです。


アーサー・ケストラーは「ホロン革命」の冒頭でこう論じています。


「有史、先史を通じ、人類にとってもっとも重大な日はいつかと問われれば、わたしは躊躇なく1945年8月6日と答える。理由は簡単だ。意識の夜明けからその日まで、人間は「個としての死」を予感しながら生きてきた。しかし、人類史上初の原子爆弾が広島上空で太陽をしのぐ閃光を放って以来、人類は「種としての絶滅」を予感しながら生きていかねばならなくなった。人間一個の存在ははかない、そうわれわれは教えられそれを受け入れてきた。が、他方では、人類は不滅であると当然のごとく信じてきた。しかし、いまやこの信念に根拠はない。我々は基本的前提を改めねばならない。」


「相互確証破壊」は「核兵器は使ったら使われる」という前提を抑止力としていました。しかし現在のウクライナ戦争や北朝鮮の核開発の報道では「相手が使った回数と同数の報復までで止まることを担保する」とか「核兵器の保有は権利だ」といった威嚇射撃を容認する様な論調さえ聞こえてきます。この映画には「核開発を正当化している」「広島、長崎の被爆の様子を描いておらず核兵器の使用に対する反省として十分ではない。」といった批判があります。クリストファー・ノーランはそう言った批判を受けるのは承知の上で、あえて徹底してオッペンハイマーの内面に沿っていくことで、いくら悔やんでみても時計の針は巻き戻らないことに苦悩するひとりの科学者が背負った十字架に焦点をあてて苦悩の深さを描くことで、それを無自覚に許容し歓迎した世界のすべても同罪であることを内側から湧き出す様に示してみせているとはいえないでしょうか。


「第三次世界大戦でどのような兵器が使われるかは分かりませんが、第四次世界大戦はこん棒と石で戦われるでしょう」


核兵器の開発をトルーマン大統領に進言したアインシュタインはこう語っています。彼のこの言葉は科学者としてのただの論評なのか、それとも後悔なのか。180分で描くにはあまりに重たい、しかし今だからこそ作られるべき作品だったのだと思いました。