前回のブログからかなり時間が空いてしまいました。
ですが、約束通り続きを書こうと思います。

アスペルガー症候群と診断された私の戦いはまず、時計を読めるようにして時間を認識することから始まりました。

常に時計を見ながら、母に「今何時?」と聞かれすぐに「○時○分」と答えられるようになるまで猛特訓。

次に、1時間前や1時間後などの時間の経過を電池のない時計を使い「今の時間から1時間前(後)は何時?」などの質問に合わせて実際に時計の針を動かして行くことで覚える。

これにより、今では5分前(後)の時間の計算はできるようになったものの、未だにカップラーメンの3分の計算は苦手でスマホのタイマー機能を活用してます。



最後に応用編。
ここが1番苦労したところ。
苦労して身につけた応用編こそ、電車に乗ることです。
指定された時間に目的地着くようにするには、どの電車に乗ればいいのか、また目的地までの移動時間から何時の電車に乗ればいいのか、電車の種類(急行,準急,普通etc.)を応じて目的地の駅までの数を路線図を頼りに把握すること。


これらが全てそつなくこなせるまでに1年以上かかりました。
それでも、今となっては友人達と電車で出かけられるようになり、好きなアーティストのライブやイベントに行けるようになったので、母に怒られながらも必死に特訓して良かったです。


去年、3年の結婚生活にピリオドを打った際、元夫に「アスペルガーの人は偏屈で何を考えてるのか分からない。」「いくらまともなことを言っても話が通じない。」などとバカにされ、13歳で父を亡くし母の理解と協力を無くしてここまで成長出来なかった私に「お母さんに頼りすぎ。お母さんが死んじゃったら一緒に心中でもするの?」と言われました。

(ちなみに、元夫はマスオさん状態で我が家で生活していた為、家の事情も全て知っている上での発言です。)


人見知りでコミユニケーション下手で人付き合いが苦手な私にとって、心を許せる親友以外で頼れる人は母だけだったので、この発言はかなりショックでした。

次の更新ではそんな私の今についてお話します。





今回は今まで公表しなかった私自身の発達障害のことを話そうと思います。
ここでは、私の発達障害が発覚するまでをお話します。

平成元年生まれ、現在30歳の私。
私に発達障害があると知ったのは16歳の時。

きっかけは大好きな父の突然の死だった。
遡ること今から17年前、私は当時13歳。
父は自宅の仕事部屋で倒れ病院に緊急搬送され、詳しい検査の結果、「ウィリス動脈輪閉塞症」通称"もやもや病"による脳血管破裂と診断された。
 しかも、この時に父は既に脳死状態で診断から9日後に私や母に見守られながら36歳という若さでこの世を去りました。

私は一人っ子であると同時に"超"がつくほどの父親っ子だったため精神的ダメージが大きく、これをきっかけにこの後、母が見ても「この子は何かがおかしい。」と思えるほど顕著に発達障害の症状が現れることになるのです。

*ここから先は母から聞いた話を織り交ぜながら書いていきます*

私の成長過程の中で母が気になったことは2つ。
"時計が読めないこと"と"片付けられないこと"

中でも特に気になったのが"時計が読めないこと"
この頃の私は、中学生にも関わらず時計が読めず、時間が分かりませんでした。

周りの大人達は、「少し発達がゆっくりなだけ。私ちゃんはマイペースなんだから、焦らなくてもそのうち出来るようになるよ。」と言う人がほとんど。

でも結局、16歳の高校生になっても時計が読めるようにはならず、それどころか電車すらまともに乗れないという事態に…。

この事態に流石の母も危機感を感じて私を精神科に連れて行ってくれたのです。これが16歳の時でした。

そして、母とともに行った精神科で検査を受けた結果、私がアスペルガー症候群であることがわかりました。
しかも私の場合、ADHD〈不注意優勢型〉もあるとのこと。

つまり私が、まともに電車に乗れなかったのは自閉症スペクトラムの一つであるアスペルガー症候群により言語指示理解や時計のような時刻の概念の理解が困難だったため駅の電光掲示板や路線図をきちんと読み取ることができず理解できていなかったから。

母からすれば今まで悩んでいた事の理由が分かって少しですがほっとしたと思います。
しかし、ここからが私と母にとって本当の戦いの始まりとなったのです。


本日はここまで。この先は次のブログでお話します。


ちなみに母曰く、私が初めてアスペルガー症候群とADHDの診断がされた当時は発達障害というもの自体が世間的にもさほど浸透しておらず、ADHDもアスペルガー症候群も現在に比べると情報量が少なかったため、調べるのにも相当苦労したそうです。

また、私の発達障害が分かったのが父が亡くなった後だったため、"我が子の障害を認めない"という選択肢は母の頭の中には無かったのだとか。

それどころか、「娘なりにできることを少しづつ増やして発達障害と上手く付き合っていけるように。これから先の人生の中でいつか娘が一人になる時が来ても困らないように。」と、常に私の事を考えてくれていたことを最近になって初めて知りました。