ボクの父親の事を


まだ聞けるうちに聞き出し


残して置きたいと思い


また長くなりそうなので


少しずつ区切りながら


書いてみたいと思います。


その1は、“現役時代“編です。





ボクの両親は高校の同級生です。


卒業と共に一度は離れたものの


数年後に家族となり


ボクと弟が生まれました。




父は高卒で、二級建築士、更に一級建築士の資格を


1発で取ったそうです。


最初の会社で研鑽を積み、


キャリアアップして定年を迎えた会社に転職したそうです。



仕事は主に、今はほとんど見かけなくなりましたが、


いわゆる、建物の屋上に巨大な電波塔を載せた、電電公社、


後のNTTの電話局の設計、施工管理だったそうです。


今でも、既に役目を終えた建造物で


解体を免れた建物のいくつかが街中に残存しています。





また、父自身も“大変だった“と言っていたのが


第二電電、いわゆる今のKDDI、もっと言うと“au“の基地局の施工設計管理だったそうです。


愛知県は一宮市郊外にある広大な敷地にあるそれは、


東海地方全域の要となる施設で


それが無ければおそらく、今、東海3県でのau利用は出来ないでいたはずです。


ボクの幼い記憶では、北海道は札幌。九州。そして、僅かでしたが東京本社への栄転。


日本中を駆け回っていました。


そして一番は、東海地方の人なら多分知っているであろう“東山動植物園“


そこの一番高い丘の上標高80mにそびえ立つ“東山スカイタワー“


名古屋市制100周年を記念して建造された134mの展望台兼防災行政無線塔で、平成元年に竣工しました。


その設計コンペに父の会社も参加。


父も毎晩図面を持ち帰り、必死に設計に打ち込んでいました。


残念ながら、父の素案は外れたものの、会社としてコンペに優勝。


父は、施工管理を任され、土台からてっぺんまで監督したそうです。


しかし、建設途中で思わぬトラブルが。


土台の丘80mと、本体の134mを合わせると214mもの高さの建造物が


緑豊かな森の中に突然、出現した訳です。


その外観が、ミラー状であったために、近隣に生息する、大型の猛禽類、オオタカやトンビ、オオワシなど


次々と建設中のタワーに激突。タワー直下にある事務所や車両の上に死骸が数えきれないほど降ってきたそうです。


これは大問題となり、大幅な設計変更、鳥類対策、忌避電波装置の設置など、父も頭を抱えていました。


そんなアクシデントを何とか乗り越え、無事、開業に漕ぎ着けたそうです。


ちょうど、ボクが高校生の時でした。



それからしばらくは落ち着きを取り戻したものの


また一つ、大きな仕事が始まりました。



名古屋の実家を人に貸してまで移り住んだ静岡で携わった


静岡県立美術館のロダン館。


全部で51点の作品の“免震展示台“の設計を手掛けたそうです。


それぞれの作品の重心を探り出し、大きな地震が来たときに、土台だけが揺れ動いて


作品は倒れないような、そんな装置を開発、設計する仕事。


カレーの市民、地獄の門、そして、考える人。


一つ一つの作品に直に触れ、計測し、重心を割り出し、そして展示台の設計。


完成後には、作品をその上に戻す、という、数年がかりのプロジェクトでした。



そんな大きなプロジェクトを終え、実家に戻った父は、


心身ともに疲れ果てたのか、支社長昇進の声がかかり始めたそのタイミングで病に倒れ、


設計、施工管理という出入りの激しい激務から内勤中心の積算に部署移動したものの


56歳という若さで無念の退職となりました。


年金がもらえるまで、大変な苦労を重ね、重篤な時期も乗り越えて、しかし、とうとう


名古屋の実家を売りに出し、今の場所へと移り住んできました。


モノづくりという、地図と人の記憶に残る仕事を成し遂げた父。


今、思うと、その時代、一級建築士の資格を1発合格した、ということが


どれほど凄いことだったかを後からじわじわと思い知らされました。しかも、高卒で、です。


その、モノづくりのDNAを受け継いだ、ある出来事を紹介します。