こんにちは、ジェイエーアメニティーハウスの『ショーグン』です!

 

前回3/1につづきのお話で「大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡」についてお伝えしましたが、今回は番外編としてその遺跡公園に隣接する「横浜市歴史博物館」へ行って参りました!

 

今年はペリーが横浜に上陸し日米和親条約が締結されてから「170年」という節目の年になるという事で「サムライMeetsペリーwith黒船~海を守った武士たち」という企画展が開催されておりましたので撮影が許可されている展示の一部をご紹介させて頂きたいと思います!

早速行ってみましょう!グッ

 

まずは1853年の江戸湾内の海防体制です。

1度目のペリー来航後、もともと警備に当たっていた4藩(川越、彦根、会津、忍藩)と全国から招集した追加7藩(熊本、福井、徳島、高松、長州、姫路、柳川)の陣営を造り防衛を強化を図ったようです。

砲台(台場)も設けられたようですが、基本方針は「相手が攻撃を仕掛けてこない限り攻撃はせず、穏便に追い返す」事だったようです。

上の図は当時の浦賀付近の海防状況を記した図で右上の外国船がペリー艦隊、左下が江戸となっており、江戸の手前には品川台場が3か所記載されております。

ペリーが再来航した際には金沢は武州金沢藩(横浜市)、本牧は鳥取藩(鳥取県)、神奈川宿は赤石藩(兵庫県)、横浜応接所は小倉藩(福岡県)と松代藩(長野県)が警備を担当したようで、日本各地の藩士が結集したようです。

 


こちらは本牧に出張した人数、藩士の現場での役職が書かれたものでこれによれば総勢1353人が出張しており、更に増員の人数を含めると約2,000人もの藩士が出張したようです。相当な人数ですねビックリマークあんぐり

上の書面は有事の際の伝令係、現場の巡視役を担っていた武州金沢藩士の萩原唯右衛門という方が1854年に記した日記で、異国船7隻が来航したとの記載がされているようです。

170年経った今でも当時の緊迫した現場の状況が伝わってきます。

この人物画は1854年に鳥取藩士が川崎に上陸したアメリカ人のビッティンガーという方を描いたもののようです。

当時幾度となく外国人が上陸し、現地の沿岸警備に当たっていた藩士が穏便に対処し追い返すという事が繰り返されたようです。言葉が通じない背の高い外国の方を相手にするのはさぞ大変だったかと思います。煽り

上の絵はアメリカ人が「バッテーラ」という短艇に乗り日本沿岸を測量した様子を描いたものです。恐らく大型船の碇泊場所を検討していたのでしょうか。現地にいる藩士としては心中穏やかではなかったと思われます。滝汗

ついにペリー提督のお出ましです!

上記は小倉藩の医者であった桐原鳳卿という方が日記の中で描いたペリーの肖像画で、腰には剣とピストルをぶら下げていたとのよう温厚な方だったようです。

 

1854年3月3日に日米和親条約が締結された後、退却する黒船を見送る見物人を描いた絵です。ほっとしたのか嬉しそうに見えます。照れ

 

1859年の開港直後の横浜を描いた絵で赤い服を着た方々は外国人のようです。

街として発展していくスタートラインですねビル

 

現在横浜市は全国の市町村人口ランキングで1位の376万人を誇る大都市となりましたが、当時の横浜村(現在の山下公園付近)は黒船が来航するまで80数戸が立ち並ぶ寒村地帯だったようです。

もしペリーが横浜に来ていなかったら今のような都会的な街並みにはなっていなかったのかもしれませんね。ニコニコ

 

以上簡単ですがご紹介させて頂きました。

この企画展では教科書等に記載されている一般的な黒船来航の資料ではなく、現地の守護にあたった武士たちのリアルな記録が展示されておりました。

知らない事も沢山あり大変興味深かったので今後も定期的に歴史を掘り下げていきたいと思います。

 

現在も発展し続けている横浜が今後どのような街になっていくのか楽しみです!

最後までお付き合い頂き有難う御座いました!

 

また次回お会いしましょうビックリマーク

 

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