皆さん、こんにちは。
モン吉です!


最後にご紹介したいエピソードがあるので、長いのを投下することお許しをm(_ _)m

 

先日連休を利用して、「武田勝頼」公の菩提寺「景徳院」へ行ってきました。
ここは勝沼インターを降りて20号を東に進み、車で15分ぐらいのところの山あいにあり、本当に静かなところです。
しかし、この静かな山あいの「天目山」といわれるこの場所で、かつて武田勝頼と北条夫人一行数十人が織田家の軍勢に追われた末に自刃するという凄惨な歴史的事件がありました。その霊を慰めるために徳川家康の命で建てられたのが「景徳院」です。
勝頼公ですが、「真田丸」を見ていた人はご存知かと思いますが、一般的にはあまり知られてない人物かもしれません。

 

●武田勝頼について
1573年4月、武田信玄死去によりそれまで名乗っていた他家姓を「武田」に戻し家督を継ぎました。武勇に非常に優れた人で、上杉謙信や織田信長も高い評価をしていたそうです。
しかし、優れた人物にもかかわらず自身の出自や信玄の相続政策の失敗から家中をまとめることができず、これが後に重大な結果を招くことになります。
勝頼は非協力的な家中をまとめるために遮二無ニ積極攻勢をかけ領土を拡大。一時期徳川家を滅亡寸前まで追い込みました。それでも家臣たちは変わることはなく、勝頼もそんな家臣に失望し遠ざけたため益々溝が大きくなるばかりでした。


そして1575年5月、「長篠の合戦」が起きます。戦中、長年の経験から家臣たちは撤退を進言したものの、普段からコミュニケーションが取れてなかった勝頼は真に受けずこれを却下。(ここが勝負)そんな焦りもあったかも知れません。その結果織田・徳川連合軍に大敗北を喫し、「戦国最強」と謳われた武田軍が壊滅するのです。


その後7年間何とか国を維持しましたが、上杉家「御館の乱」介入の結果北条家を敵に回して後ろ盾を失い、さらに敗戦による生産力低下や鉱山の金産出量の低下によって経済が悪化。已む無く重税を課した結果民心が離れ、家臣達もそんな現状に将来を悲観し相次ぎ離反。1582年3月、ついに織田軍・北条軍・徳川軍から攻め込まれ、家臣の裏切りの連続で抵抗らしい抵抗もできず天目山に追い込まれて自害し、名門「甲斐武田家」が滅亡しました。

 

●泣けるエピソード
勝頼は政略結婚で北条家から後妻を迎えました。
北条夫人です。このとき勝頼は31歳、北条夫人は13歳。年が離れたこの二人に子供はいませんでしたが、非常に仲が良かったそうです。
しかし、前述の通りその幸せも7年後に悲しい終わりを迎えます。
以下は勝頼夫婦の最後に関する言い伝えです。(「甲乱記」人間774年さん訳から抜粋)
長いけど、マジ泣き(と私は思う)なので宜しければ是非最後まで読んでください。

 

(中略)
進退窮まった勝頼は北条夫人に
「武田の命運は尽きた。あなたは女だから自害する必要はない。幸いここから小田原へは道も険しくないので、どんなことをしてもあなたを無事にご実家へ送り届けます。」
と小田原に落ち延びることを勧めた。


しかし北条夫人は
「なんと嘆かわしいことをおっしゃるのでしょうか。前世の縁が浅くないからこそ、夫婦の契りは深いものなのです。
たった一夜であっても、お互いのために命を捨てられるのが夫婦の仲なのに、私たちは契りを結んで今年で7年にもなります。
たとえ小田原に落ち延びたとしても、あなたが末の露と消えてしまうのに、私だけが残っても何の意味もありません。
元より夫婦は二世の契りと申します。ここで共に自害して、死出の山も三途の川も手に手を取って渡り、来世でも共にありたいと願うのが私の本心です」
とおっしゃって、全く小田原へ落ち延びようとなさらない。


更に女官に向けて
「長い歳月、一人の子も出来なかったことを悲しんでおりました。
 神や仏に、子が出来ますようにと祈っておりましたが、今となっては、子がいなくて良かったと思っています。
 幼い子がいれば、大層思い悩むことになったでしょうから。」
と穏やかにおっしゃる様を見て、哀れに思わない者はいなかった。

 

(中略)

 

そして天目山に至り正面で戦闘が始まったと聞くと、西に向かい念仏を高らかに唱え、
「勝頼様はどこにいらっしゃいますか。私は先に自害いたします。
 お急ぎください。お待ち申し上げております。」
というお声を最後の言葉にして、脇差を胸元に突き立て、声も立てずに衣で顔隠して御倒れになった。


そのころ勝頼は、4、5人の敵と渡り合って戦っていたが、家臣から北条夫人が自害したと聞いて急ぎ北条夫人の元へ引き返した。
勝頼は北条夫人の枕元へ立ち寄って衣を除けて顔をご覧になった
北条夫人の雪のような肌は血に染まり、化粧も消えかけ、朝顔がしおれたような風情になっていた。

 

剛健で知られた勇将の勝頼も、悲しみのあまり北条夫人の顔を二目と見ることが出来ず、涙に暮れ心乱れたのも無理がないことであったろう。

ややあって、涙を押さえて、北条夫人のお顔をかき抱くようにして自身の膝に乗せ、北条夫人がまるで生きているかのようにこう語りかけた。


「不意にこの大乱が起きて、そうであってもなんとか反撃しようと思っていたが、結局立て直すことができなかったよ。
 それだけでも情けない思いをしていたのだが、最後にこのように涙に沈み切ってしまうほどの悲しみを味わうとは。
 暫く待っていてくれ。死出の三途の川を、手を取って共に渡ろうぞ。」


勝頼は北条夫人に突き立てられた柄まで赤く染まった脇差を抜き取ると、その脇差で自身の腹を十文字にかき破り、はらわたを掴んで四方へ投げ捨て、北条夫人と同じ枕に倒れ伏し絶命した。
(終わり)


武田勝頼、享年39歳。北条夫人、享年19歳。
有り余る才能がありながら、心ならずも滅亡への道を歩んでしまった悲運の将・武田勝頼。
家臣や一族に裏切られ続け、全てを失った男の最後の救いは、互いを思いやる夫婦の固い絆でした。
そして二人は今、400年の時を超えて安らかに勝沼の山あいで眠っております。

 

次回は北条夫人の兄「北条氏政」をテーマにしたいと思います。

 

①景徳院の入り口です。とても静かな場所です。

 

②勝頼公と北条夫人及び信勝のお墓です。どうぞ安らかに。

 

③没頭地蔵尊です。きれいにされてました。

 

④首洗い池。何のことかはわかりますね・・・・・。

 

 

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