おはようございます。
母との関係。私も悩みました!
私の母は一年ほど前に亡くなりましたが、
最後の何年間かは会うのも最低限。
母は私の姑にまで私の悪口を吹き込む人でした。
(悪口というより
「私は悪くないのよ。あの子がきついの。」
と被害者であることを訴えるタイプかな。)
そのうち、本人が放置していた糖尿病と痴呆が悪化し、
人のいうことをまったく言うことをきかなくなり、
自宅での介護がお手上げとなり、ホームに入所させてもらいました。
(この時もホームに入れることを決意した直後、偶然が重なり、
空いたベッドにすぽっと入ることができたのです。
ベッド待ちの人も大勢いるというのに、正にSOSの法則でした。
私の父は引き寄せ力半端ないです。)
彼女が亡くなる一か月前、
肺炎を起こしホームから病院に転院しました。
お見舞いにいった私に母は「たすけて」といいました。
痴呆でぼんやりしていることが多かったのですが
その時ははっきりと。
なかなか病状はよくならず、
次にお見舞いに行ったとき、偶然喉につまった痰の吸引の場面に
出くわしました。
見ている私がえづいてしまうほどの苦しい場面でした。
(こういうことを家族に変わって担当して下さる看護師さんには
感謝しかありません。)
入院して一か月たち、担当医師との話し合いで
「どうも、これ以上よくなることはない。
ホームに戻したらたぶん持たない。」
「病院に入れっぱなしにして点滴と吸引を繰り返せば
生きていられるけれど、本人はそれを望んでいるのか。」
と気づきました。
病院は「生かす」ことを前提としている。
QOL抜きなら、心臓が動く限り生かしてくれる。
ホームはお世話してくれるけれど、医療的介護には制限がある。
長くはもたない。
父と私の兄弟を説得して
「ホームに戻して看取る」という形にしました。
意外とすんなりと了承してくれました。
たぶん「誰が言い出すか」だったのでしょう。
ホームに戻して一週間もたたないうちに母は亡くなりました。
私以外の血縁全員が泣きましたが、私は泣きませんでした。
「やっと解放してやれた」という気持ちが強かったから。
(私が泣いたら、父や私の兄弟がこの選択を後悔してしまうだろうとも
思いましたしね。)
母の魂のその後の旅路も、時折ビジョンや感覚、夢で伝わり、
ああ、進んでいるなあ、と思っていたのです。
ただ、この感覚を理解してくれる人が周りにおらず、
(いてもなかなか会える人ではなかったり。)
少しさみしい気持ちでいたところ、
山川ご夫妻が私の地元で講演会をされることになり、
ようやっとお話をきくことができたというわけです。
母のことがなければ、たぶんその告知を新聞でみても
「レジェンドご夫婦、こんなところまでいらっしゃるんだ。」
で流してしまったかもしれませんね。
「すべては必然」
そして、必ず道しるべは用意されている。
(紘矢先生のお話をきくようになって本当に心が軽くなりました。
お会いするたび、枷を外していただいているというのか・・・。
ありがとうございます。)
私は、母との和解は成り立ちませんでしたが、
既に終わってしまった今生での母との関係を嘆くのではなく、
いま、ここから。
私が母として、子供たちに何ができるか。
私と私の母との関係を肥やしにして、進めていけたらなあ、
と思っています。