1832年1月18日生まれエドワードマネ。
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彼の家系は代々裁判官として勤めていた一家であり、
裁判官とスイス王家の養子の間に長男として誕生したエドワードは
裁判官になるようpalais de justiceで働き、地位も高い父から裁判官にあるよう
期待されていたそうです。
そんなことから彼の家系でアーティストになることは快く思われることではあるませんでしたが、ピアノをひき音楽の才能にも長けていた母親の影響も受け、ナポレオン三世統治のもとで変わりゆくパリにて育ちます。
海軍に加わるため17歳にしてリオデジャネイロへ渡航したエドワードは海について多くを学ぶことになり、その影響は後に彼の作品の中でも登場。帰って来た彼は海軍の試験に落ちしまいますが、それを機に芸術家の道を歩みだします。
若い芸術家達のためにワークショップを開いていたトマスクチュールは当時パリで最も人気のある画家。時間をかけ父を説得したエドワードは1950年、父の同意を得てクチュールのワークショップに飛び込み、それから6年間と続く絵画の勉強を始めることとなるのです。
彼が芸術家としてちょうど芽を出し始めたころ、フランスの人々はスペインに関心を持ち
出し、それがヒスパノマニアと呼ばれるようになるまでに発展しました。
この頃のエドワードマネの絵画はその時代の影響を如実に受けたものになります。
スペインの作風はゴヤをは筆頭に、フランスの作風と比べてトーンの暗いものも多く、
フランスの神話を作品したものとはかけ離れたダイレクトな表現が目立ちました。
ヴァラスケスを尊敬した彼はそういった直接的な表現方法を学び取り、自ら作品にとりこむようにしたと考えられています。
マネの結婚についてですが、ここはどこかしらミステリアスでもあります。
というのも、彼はスザンナレインホフと言う、マネ一家に雇われ、彼自身のピアノの先生でもあった年上の女性と結婚をするのですが、
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その子供が彼らの間(スザンナレインホフとエドワードマネ)に生まれた子ではなく、エドワードの父の息子ではないかとの考えもあるそうです。
スザンナは22歳の時に子供を生み、その子をリオン.エドワードと名付けます。
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リオンが洗礼を受けてから、エドワードはリオンのゴッドファーザーとしてリオンを受け入れ、
エドワードとスザンナが一緒に住んでいたことからリオンは彼らの子供ではないかという説だそうです。リオンはエドワードの数々の作品に登場することになるのですが、
不思議なことにスザンナはリオンを公共の場では彼女の息子ではなく彼女の弟であると言っていたそうで、彼女が亡くなった時にもリオンはスザンナの息子であると認められなかったそうです。
エドワードマネの作品にはめくるめくる多くの美しい女性達が登場しますが、その中でもベルテモリソはマネを語るに不可欠な女性です。
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彼女はマネ一家同様に上流階級の出身で、2人は1860年代の後半に出会ってから親密な関係があったらしく、彼の作品に11回も描かれます。
40代に入ってからは、19世紀には未だに不治の病とされていた梅毒にかかってしまい。膝の痛みなどを感じるようになったそうです。それをきっかけに作品は減り、画家として活動を続けてはいたものの51歳として亡き人になりました。