ミネソタ・ハリケーン

「俺は、絶対に乗り越える。止めないでくれ、ひもゆき。今じゃなきゃだめなんだ!」

サーベルタイガー先輩が勢い良く走りだした。僕と霧島(まりあ)は全力で逆方向へ駆け出す。学校の帰り、部活でどれだけ疲れていようと僕ら2人は全力で走らなくちゃならない。

サーベルタイガー先輩が奇妙な行動を始めたら、僕たちは逃げる、必死に逃げる。
他人のフリをしないと、いつか取り返しのつかないことになりそうだから。

3日に1度はこうして走っている気がするが、たぶん気のせいじゃない。彼の奇行はとても頻繁で、いつどこで始まるか分からないのだ。

今日だってきっかけは些細なことだった。
いつものように霧島はジャージで、サーベルタイガー先輩はバスローブを羽織って帰宅していると、兄妹は音楽談義を始めた。どうやら某邦楽アーティストがリリースした新曲についての話だったらしいが、霧島(妹)のある一言がサーベルタイガー先輩の中に眠るロッキン・スピリッツを目覚めさせてしまったのだった。

「…。そもそも、『ロックチューン』とか言ってる時点で、それはロックじゃないわよ。」

この一言さえなければ、彼は「ミネソタのバルログ」という称号を手に入れたりしなかったかもしれない。
妹の言葉を聞いた彼は、こう言ったのだった。

「ああ、その通りだ。ただ借り物の言葉を威勢よく叫ぶだけじゃ駄目だろうね。
俺は別にミュージシャンを目指しているわけじゃないが、偉大なロッカーには敬意を払うよ。ライク・ア・ローリングストーンとは、よく言ったものだぜ。
ロックの名曲というのにはきっと、彼らの生き様の放つメッセージが詰まっているのさ。
よし、俺も彼らにもっと近づくために「アレ」を乗り越えなきゃいけないな。これは言わばロッカーの通過儀礼みたいなものなんだろ?」

言い終わるか終わらないかのうちに、サーベルタイガー先輩はデカデカと『私有地』と書かれた空き地に向かって走り出した。高いフェンスに囲まれた空き地に向かって駆ける彼は真っ赤な夕日に照らされていた。

「俺は、絶対に乗り越える。止めないでくれ、ひもゆき。今じゃなきゃだめなんだ!」


そう、霧島大河は乗り越えた。ロックの象徴・・・『有刺鉄線』を。

全速力で彼から逃げた僕は見ていないが、バスローブ一丁で有刺鉄線付きのフェンスをよじ登る彼の姿はまさに「ミネソタのバルログ」であっただろう。

切り傷だらけになって家に帰ってきた彼の手を消毒した霧島の話だと、その日以来サーベルタイガー先輩の理想の女性は綾波レイから「オノ・ヨーコ」に代わったそうだ。
そして、現場を偶然見ていた吉岡の話によると空き地のフェンスの扉には鍵がかかっており、隙間もなかったらしく、もう一度有刺鉄線を越えることになったサーベルタイガー先輩は少し寂しげだったという。

サーベルタイガー先輩の奇妙な行動には、目的もメリットも無いように見える。いや、たぶん無い。僕は、そんな彼の最大の奇行プロジェクト・「2人3脚マラソン」のメンバーとして、明日も相撲部の部室に向かわねばならないのだ。
やれやれ。
今日は早く寝るとしよう。

僕の名前は渡辺ヒロユキ。最初に選ぶポケモンは、いつだってゼニガメ。ただそれだけの男だ。

つづく