ミネソタ・ハリケーン


俺の住む峰曽田市の名産品は竹。住宅街を少し離れると竹林が多く見られる。峰曽田竹は芯が強く、よくしなる。もちろん美味しいタケノコも獲れる。


しかし峰曽田市民はタケノコよりも、太く大きく育った上質の竹を加工して物を作ることを好む。
とりわけ竹馬の生産が盛んで、出荷量は日本一だ。

現在の竹馬業界では、ステンレスのポールにプラスチック製のステップが付いたタイプが主流である。軽く丈夫な近代竹馬の普及とともに、竹で作られたものは敬遠されるようになってきた。

ミネソタ・ハリケーン
それでも、峰曽田の竹馬ブランド「小夜美(さよみ)」は、厳選された素材と職人達の確かな技術によってライダー達に愛され続けている。江戸時代に創業した 伝統あるブランドだが、峰曽田の大地から沸きあがる尽きることの無い探究心によって、めまぐるしいペースで新商品を発売している。昨年の主力モデルに採用 された、プロ野球の広島東洋カープ・前田選手のバットからヒントを得たというグリップは、竹馬の普及と性能の向上に大きく貢献したとされ、文部科学大臣賞 を獲得したほどである。

その「小夜美」の宗家、霧島の家の長男として生まれた俺の運命は、生まれた瞬間に決まったと言っても過言ではない。「小夜美」の社長(親方と呼ばれる)は宗家の長男が世襲するしきたりなんだ。

東証一部市場に名を連ねる唯一の竹馬メーカーの社長になる男、それが俺だ。

ミネソタの男達にとって、竹馬は単なる遊びではない。夏に行われる峰曽田祭りでは毎年3000人の峰曽田男児が町中を竹馬で練り歩く。ふんどしだ けを身につけた男にとって、竹馬は魂といえる。それぞれが1年かけてカスタマイズしたド派手な竹馬を、いかに優雅に、男らしく乗りこなすのかということに 命を懸けているのだ。

ミネソタ・ハリケーン
(余談だが、竹馬のカスタマイズパーツは、作業着屋や、ヤンキー向けの制服などを取り扱っているお店に行けば買える。ミネソタに訪れた際のお土産はそれら を買うといい。やたらと「峰」の文字がプリントされているから。間違っても、「みねそたサブレ」は買ってはいけない。アレは中国で作られ、ミネソタで包装 されているという話を知らない奴はミネソタにはいない。)

そんなミネソタで、俺の血統を羨まない人間は珍しい。
竹馬を生業をすることが、ミネソタ男の夢なのだ。俺も、竹馬界のエリートである霧島の家に生まれてきたことを誇らしく思っていた。あの日までは。

あれは、俺が小学6年生の夏だった。その年の竹馬全国選手権・峰曽田地区予選小学生の部での出来事だ・・・


竹馬選手権は通常2日間行われる。1日目には、竹馬での立ち方の美しさや独自性、安定感等を競う種目「スタンド」、2日目にスピードを競う種目「駿馬」が行われる。

その年の「スタンド」で、俺が編み出した【サーベルタイガー】という立ち方は、まるでサーベルタイガーの牙のごとく、竹馬のグリップを常人では1 秒も立っていられないほどに前へと突き出した状態で静止していたため、「時間を止めるスタンド」ともてはやされ、史上2人目の大会3連覇を果たした。

ミネソタ・ハリケーン
しかしそれは、霧島家に生まれた人間としては当然の結果として見られた。もちろん俺自身もそう思っていた。


同じく3連覇のかかっていた2日目、「駿馬」での全国優勝が確実視されていた俺は余裕で予選を突破し、軽い気持ちで決勝に望んだ。

赤いシグナルランプが青に変わり、各馬がスタート。

スタートで一気に飛び出す。
俺のオリジナル竹馬【小夜美スペリオン】の真紅のシャフトで地面を突くと、地球が俺に推進力に与えてくれた。

前に見えるのはゴールテープのみ。後方からは誰の足音も聞こえない。
地区予選の決勝なんかで全力を出すのは名家の品格を問われる。

ゴール手前で少しスピードを緩め、拳を突き上げようとした瞬間、悪夢は起こった。
隣のコースの選手が俺を抜き去った。
何が起こったか分からなかった。
一切の気配を感じられなかった。
まるで俺の影が俺から離れていくような奇妙な感覚に襲われただけだった。


負けた。竹馬界のサラブレッドである「小夜美」の後継者が、地区予選で敗北などあってはならない。俺は周りの大人達に、同情と冷ややかな視線を浴びせられた。

両親、特に父親は失望していた。
小学6年にして、存在価値を疑われるなんて思ってもいなかった。負けた悔しさを感じる余裕もなかった。誰からも相手にされなくなるんじゃないかという恐怖で、その日から毎晩震えが止まらなくなった。

しばらくして、かつての信頼を取り戻すには竹馬しかないことに気付く。俺は、レースの時に跳ねた土がついたままの愛馬「小夜美スペリオン」を持って夜のミネソタ公園へ走った。

しかし、俺は竹馬には乗ることが出来なくなっていた。「時を止めるスタンド使い」とまで言われた少年は、竹馬で立つことすらできなくなっていたのだ。それまでどんな風に竹馬に乗って、どんな風に歩いていたのか、まるで思い出せなかった。

たった1度の敗北が、俺から竹馬を奪った。

それでも俺の背負う宿命は変わらない。たとえ竹馬に乗れなくても、霧島の家の長男は家を継ぐ仕来たりなのだ。
俺は竹馬と自分の運命を憎み、長い間ふさぎこんで過ごした。



しかし13歳の夏、俺はブレイクした。一皮剥けたというのだろうか。何か答えのような物を見つけた気分になった。

18歳の誕生日が来たら、俺は「竹馬に乗れない竹馬職人」にならなければいけない。ならば、それまでの時間を、誰よりも楽しんでやろうと決意した。
そのためには、周りの人間と同じことをしていてはいけない。俺だけの、何よりも面白いものを見つけなくては。


それからというもの、俺はあらゆるスポーツ、ゲーム、芸術に手を出した。けれど、どれも俺の心を揺さぶらなかった。
高校1年の秋、体育祭で「2人3脚」を体験するまでは。

二人三脚。こいつは究極のスポーツだ。理由なんていらない。間違いない。
俺は二人三脚に関して研究を始めた。すると、二人三脚はあるステレオタイプに縛られていることに気付かされる。

二人三脚と聞いて、長距離走を連想する人はいるだろうか。きっといない。
なぜ誰も二人三脚でマラソンをしようとしないのだ。
間違いない。二人三脚マラソンこそが、究極のスポーツなんだ。理由なんていらない。俺が証明すればいい。


俺は陸上部に入部し、自らを鍛えながら、究極のスポーツをする上での究極のパートナーを探した。
見つけ出したのは半年経ってからだった。

高校2年の4月。俺は職員室に忍び込み、新入生全員の名前と顔写真の書いてある資料を閲覧、記憶した。

そして新入生が入学してから1週間、俺は1年生全員のふくらはぎを見て回った。俺は足の筋肉の隆起や腱の長さなどを見れば、その人間の走りのセンスを見極められるようになっていたのだ。
気付けば、「変態」と呼ばれるようになっていた。

しかし、そんなことはどうでもいいのだ。俺はついに見つけた。究極のふくらはぎを持つ男を。

そいつの名は渡辺ヒロユキ。
中学を出たばかりだというのに落ち着き払ったクールな少年は、見るからに眠そうな目をしていた。

役者は揃った。本当の意味で。

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「サーベル・サイド・ストーリー2」に続く