[前回までのあらすじ]
少年の名前は渡辺ヒロユキ。この物語の主人公である。
物語の舞台は「県立峰曽田学園高校」、通称「ミネソタ」。この何の変哲も無い平凡進学校に入学した彼は、思いもよらぬ事件の数々に巻き込まれることになる。
先 週行われた体力テストでは50m走において妙な男(アメリカ人)に敗北を喫する(第2話)。そのアメリカ人は、入学式の日に殴られていた陸上部員(第1 話)だと判明するのだが、渡辺ヒロユキの心は晴れない。そんな時に現れたのがクラスメイトの女の子「霧島まりあ」だった。高校に入学して初めて女の子と喋 る渡辺ヒロユキよりも緊張していた彼女だったが、成り行きで携帯のアドレスを交換してしまう。(第3話)。
そして同日夜8時、期待と不安にソワソワな渡辺ヒロユキの携帯が・・・バイブレーション!
その内容が今夜、明らかになる。ミネソタシリーズ第4話!
これは、心の殻に閉じこもり、クールな学園生活を送ろうとする男に降りかかる、災いとトキメキのファンタジーである。
この物語は、フィクションであり、実際の人物、団体、とは一切関係ありません。あしからず。
『ミネソタ・ハリケーン第四話』
メールが来た。 From.霧島まりあ。
さて、どうしたものかな。僕は女の子とメールをするのが苦手なんだ。
他愛も無い話をさも面白い話のように展開する術を持たないのだ。こればっかりは仕方が無い。義務教育で教わっていないからだ。
同 じクラスのオシャレ眼鏡・吉岡に言わせれば、女の子へのメールとは、「こう送ればこう返信してくるだろう」というパターン化された会話へと、いかにスムー ズに持ち込むかが醍醐味であり、「(笑)」という魔法の記号によって他人のプライベートな領域に踏み込むことができる痛快さが病みつきになるのだという。
しかし、僕はまだ携帯電話に備え付けられたメール機能で快楽を覚えたことは無い。吉岡のように女子にモテるわけでもない僕には奴のメール論が正しいのかどうかは分からないが、とにかく僕にはそんな器用なマネはできないのだ。
可愛い絵文字と上を向いたり下を向いたりする矢印に満ちた可愛い文章に、僕が適切な返事を返すことができるはずがない。
やれやれ、せっかく話しかけてきてくれた霧島まりあとも、仲良く慣れそうにはないかな。
そんなことを考えながら、僕は霧島の赤い頬と大きな目を思い出しながらメールを開いた。
「峰曽田公園で待ってます。 霧島」
ん?
僕は続きを読もうとスクロールボタンを押す。しかしこれ以上の文字情報はこのメールに含まれていない。
霧島から、可愛らしい文体で「これからヨロシクね☆」的なメールが来るだろうと予想し、あるはずも無い展開を妄想したりもしていた渡辺ヒロユキは、驚いた。
敬語、「。」、モノクロ、3文節。
もうちょっと装飾を施してくれても良いじゃないか。
そんなに僕に興味がないのだろうか。
昆虫でもトイレのマークでも、せめて1つくらい絵文字をくれたっていいじゃないか。
僕は、心の底から霧島からのキュートなメールを望んでいた自分に気づき、恥ずかしくなった。「ムッツリスケベ」と渡辺ヒロユキは同義なのだ。渡辺ヒロユキは「ムッツリスケベ」なのだと、世界中に公表したい。もちろん、誰も僕になんか興味は無いだろうが・・・。
などと40秒ほど落ち込んでいた僕は重要なことに気付く。メールの内容である。
もう一度読み返してみる。
「待ってます」とある。
霧島は待っているらしい。どこで?峰曽田公園で。誰を?僕を。
最近メールの送信の仕方を覚えた僕の母親よりも味気無い文書は、この僕を呼び出すために送られてきたのだ。
何故だ。なぜ僕を呼び出す必要があるんだろう。
この僕にどんな用があるんだろう。
女の子に呼び出される→告白されると期待→「あの。これ、○○君に渡しておいて!」
なんていう極めてベタな悲劇的ストーリーが頭をよぎったが、現実がそんな喜劇的なシナリオをわざわざ僕のために用意しているはずはない。
本当に謎だ。なぜ僕を呼び出す必要があるのだろうか。
まともに話したことも無いクラスメイトが、僕に重要な用などないはずだ。
しかし、大した話で無いならば教室ですればいいものだ。
ま、とにかく行ってみれば分かるか。
時刻は午後8時過ぎ。4月の下旬といえども、峰曽田の夜風は冷たい。
霧島を待たせるわけには行かないので、僕は自転車にまたがって猛スピードで「マリア坂」を下った。
3分後、峰曽田公園に到着した。ここを愛犬「ゼリー」と散歩するのはいつも夕方なので、暗い峰曽田公園は見慣れない。
あたりを見回しても人影は無い。
電灯に照らされたベンチに座って霧島まりあを待つことにする。
5分くらいが経ち、携帯でテトリスをはじめようとしたとき、2人はやってきた。
そう、「2人」だった。
「まさか、君がまりあと同じクラスだったとはね。驚いたよ」
霧島の横に立つ男が言った。電灯を背負うように立つ男の顔はよく見えないが、声には覚えがある。
「ごめんね、夜遅くに。あたしが渡辺君と話してるのを見たらしくて、この人が会わせろって言って聞かないから・・・」
と、申し訳なさそうな声で話すのは霧島だ。きっと赤くなっているであろう頬を見られないのは残念だ。赤外線スコープを持ってこなかったことを後悔しながら言う。
「いや、いいんだよ。どうせヒマだったし。で、何か僕に用でも?」
さあ、答えを聞かせてくれ。僕はなぜここに呼ばれたんだ。
「えっと、あたしはその、何もないんだけど。この人が・・・」
霧島が隣の長身痩躯の男の顔を見上げる。
ちょうどいい具合に男の顔に光が当たり、正体が判明した。アメリカ人(2年生・陸上部)だ。
僕が驚いたのと同時に、奴は喋りだした。
「はじめまして。霧島まりあの兄、霧島大河です。先日はいい勝負をさせてもらったよ。もう忘れてしまったかな?」
忘れるはずがない。敗北の味は、海水よりも塩辛く、僕の口の中で粘ついていた。
「とんでもない。こちらこそ、いい経験になりました」
僕の悪い癖だ。適当なことを口にしてしまった。高校1年の体力テストの50m走が人生において何かの役に立つとは思えない。
予期せぬ展開に戸惑っているが分かったのだろう。霧島(妹)が話してくれた。
「この人、渡辺クンに用があるんだって。私の携帯で勝手にメールを送るなんて、考えられないわ」
なるほど、合点がつく。霧島からのメールに華やかさが無かったのはそのせいか。このアメリカ人(霧島兄)、やってくれたぜ。
「おいおいまりあ、さっきから『この人』って、昔は『お兄ちゃん』って呼んでくれじゃないか。俺は少し悲しいぜ」
同じく妹を持つ身として、分からなくもないアメリカ人(霧島兄)の主張は妹に届くことなく、無視された。
可愛そうなアメリカ人を救済しようと、僕は彼に問いかけた。
「アメ…いや、霧島先輩、僕に何の用が?」
「ああ、大した話じゃないんだが…。しかしその前に、その霧島先輩っていうのはやめてくれないか?スポーツドリンクを片手に持った美少女マネージャー以外にその呼び方はされたくない。分かるだろう?」
知るか。
「あ、すみませんでした。霧島…さん」
「『さん』はいらないよ。俺のことは、サーベルタイガー先輩って呼んでくれ。その方が親しく聞こえるだろう?」
は?この男、馬鹿だ。でなけりゃ本物のサーベルタイガーだ。
できることなら関わりたくないタイプの人間だ。逆らっちゃいけないと、15年間の人生が僕にささやいた。
「はぁ。さ、サーベルタイガー先輩が僕に何の用ですか?」
「君に、俺の夢を叶えてもらいたいんだ。君は走るのが得意だよね?」
「ええ、苦手だと思ったことはないです」
「じゃあさ、一緒にマラソンを走らないかい?」
「マラソン?僕は長距離はてんで駄目ですよ」
「フッ。君は自分の事をまるで知らないんだな。君のあの無駄のないフォームは、俺と2人3脚マラソンをやるためにあるんだぜ?」
「え?今なんて?」
「2人3脚マラソンさ。渡辺クン、君は俺と二人でフルマラソンを走るんだ」
僕は恐怖を覚えた。コイツ、絶対おかしいよ。そんな輝いた瞳で僕を見ないでくれ。嫌だ。絶対に嫌だ。NO。
僕の無言の拒否反応を無視して、サーベルタイガー先輩は話を続けた。
「渡辺クン、君はこの退屈な世界に満足しているかい?俺は、していない。」
返答を聞く気がないのなら質問をしないでほしい。
「俺 はしていない。でも、いつかはしなくてはいけないと思っている。だけどね、それは今じゃない。目の前のものを全て受け入れるには、俺にはまだ知らないこと が多すぎる。だから、「その時」が来るまで俺は本気で世界に抗いたいんだ。やらなきゃいけないことじゃなくて、やりたいことをやりたいんだ」
好きにしたらいい。僕だって、少なくとも十代のうちは好き勝手させてもらうつもりだ。でも僕を巻き込むのはおかしい。正式に断ろう。
「2人3脚でマラソンだなんて、無茶ですよ。僕じゃなくて、他をあたってください」
しかし、この男を前にして、僕の言葉など無力だった。
「無茶だって?みんなそう言うよ。無謀だとか、ばかばかしいとかね。だけどね、俺は信じているんだ。そう、誰かの言葉なんかよりも、自分自身の未来を。いや、君と俺、二人の未来をね」
ミネソタ公園に、サーベルタイガーの咆哮が響き渡った。僕は言葉を失い、時間が止まったような静けさが僕らを包んだ。
再び時計の針を動かしたのは、霧島まりあの小さなため息だった。
「ごめんね、渡辺くん。この人、少しおかしいの。」
こちらこそごめんよ、霧島。僕は君のお兄さんをフォローできる言葉を知らないんだ。
「だから、少しだけこの人のわがままに付き合ってあげて。お願い。」
「うん」
――――――うん。・・・・????
なんだって?霧島まりあ、君は僕の味方で、良識ある少女だと思っていたよ。なのに、僕をサーベルタイガーに売るのかい?僕はもう誰も信じられない。
勢いで「うん」だなんて言ってしまったのを訂正しなくちゃ・・・
「決まりだな。」
僕よりも早く口を開いたのは、アメリカ代表・サーベルタイガー先輩だった。
「じゃあ、明日から放課後に練習するから、掃除が終わったら相撲部の部室に来てくれ。あそこは今年から部員がいなくなったらしいんだ。待ってるぜ」
「じゃあね、渡辺クン。また明日、教室でね」
「ちょっと待て、まりあ。俺の相棒に『渡辺クン』はないだろう。それじゃ親しく聞こえない。あだ名を考えてあげなきゃな。そういうことだ、楽しみにしていてくれ。あばよ!」
霧島兄妹は、風のように去っていった。僕の頭には、サーベルタイガー先輩の代名詞「あばよ」がこだましている。
他人の言葉より、自分自身の未来を信じる。悪くないかもしれない。
けれど僕はついさっき、明日からの未来に、一切の希望を失った。
サーベルタイガー先輩が、ブラックホールのごとく僕の未来を奪い去ったこの日を、僕は忘れない。
僕の名前は渡辺ヒロユキ。好物はみかんゼリー。ただそれだけの男だ。
2時間後、そんなつまらない男の携帯が、バイブレーション。
From霧島まりあ
「今日はホントごめんね。けど、これからよろしくね☆」的なメールだった。
可愛らしいメールが、少しだけ僕の心を救った。そのメールに返信しようとしたところ、再びバイブレーション。From霧島まりあ
「明日から君の名は「渡辺ひもゆき」だ。 あばよ!」
僕は、頬をつねった。古典的な方法だったが、これが夢でないことは認識できた。
平和で静かな日常は、もう思い出せない。
僕の名前は、ひもゆき。明日から、相撲部の副部長になる男だ。
つづく
少年の名前は渡辺ヒロユキ。この物語の主人公である。
物語の舞台は「県立峰曽田学園高校」、通称「ミネソタ」。この何の変哲も無い平凡進学校に入学した彼は、思いもよらぬ事件の数々に巻き込まれることになる。
先 週行われた体力テストでは50m走において妙な男(アメリカ人)に敗北を喫する(第2話)。そのアメリカ人は、入学式の日に殴られていた陸上部員(第1 話)だと判明するのだが、渡辺ヒロユキの心は晴れない。そんな時に現れたのがクラスメイトの女の子「霧島まりあ」だった。高校に入学して初めて女の子と喋 る渡辺ヒロユキよりも緊張していた彼女だったが、成り行きで携帯のアドレスを交換してしまう。(第3話)。
そして同日夜8時、期待と不安にソワソワな渡辺ヒロユキの携帯が・・・バイブレーション!
その内容が今夜、明らかになる。ミネソタシリーズ第4話!
これは、心の殻に閉じこもり、クールな学園生活を送ろうとする男に降りかかる、災いとトキメキのファンタジーである。
この物語は、フィクションであり、実際の人物、団体、とは一切関係ありません。あしからず。
『ミネソタ・ハリケーン第四話』
メールが来た。 From.霧島まりあ。
さて、どうしたものかな。僕は女の子とメールをするのが苦手なんだ。
他愛も無い話をさも面白い話のように展開する術を持たないのだ。こればっかりは仕方が無い。義務教育で教わっていないからだ。
同 じクラスのオシャレ眼鏡・吉岡に言わせれば、女の子へのメールとは、「こう送ればこう返信してくるだろう」というパターン化された会話へと、いかにスムー ズに持ち込むかが醍醐味であり、「(笑)」という魔法の記号によって他人のプライベートな領域に踏み込むことができる痛快さが病みつきになるのだという。
しかし、僕はまだ携帯電話に備え付けられたメール機能で快楽を覚えたことは無い。吉岡のように女子にモテるわけでもない僕には奴のメール論が正しいのかどうかは分からないが、とにかく僕にはそんな器用なマネはできないのだ。
可愛い絵文字と上を向いたり下を向いたりする矢印に満ちた可愛い文章に、僕が適切な返事を返すことができるはずがない。
やれやれ、せっかく話しかけてきてくれた霧島まりあとも、仲良く慣れそうにはないかな。
そんなことを考えながら、僕は霧島の赤い頬と大きな目を思い出しながらメールを開いた。
「峰曽田公園で待ってます。 霧島」
ん?
僕は続きを読もうとスクロールボタンを押す。しかしこれ以上の文字情報はこのメールに含まれていない。
霧島から、可愛らしい文体で「これからヨロシクね☆」的なメールが来るだろうと予想し、あるはずも無い展開を妄想したりもしていた渡辺ヒロユキは、驚いた。
敬語、「。」、モノクロ、3文節。
もうちょっと装飾を施してくれても良いじゃないか。
そんなに僕に興味がないのだろうか。
昆虫でもトイレのマークでも、せめて1つくらい絵文字をくれたっていいじゃないか。
僕は、心の底から霧島からのキュートなメールを望んでいた自分に気づき、恥ずかしくなった。「ムッツリスケベ」と渡辺ヒロユキは同義なのだ。渡辺ヒロユキは「ムッツリスケベ」なのだと、世界中に公表したい。もちろん、誰も僕になんか興味は無いだろうが・・・。
などと40秒ほど落ち込んでいた僕は重要なことに気付く。メールの内容である。
もう一度読み返してみる。
「待ってます」とある。
霧島は待っているらしい。どこで?峰曽田公園で。誰を?僕を。
最近メールの送信の仕方を覚えた僕の母親よりも味気無い文書は、この僕を呼び出すために送られてきたのだ。
何故だ。なぜ僕を呼び出す必要があるんだろう。
この僕にどんな用があるんだろう。
女の子に呼び出される→告白されると期待→「あの。これ、○○君に渡しておいて!」
なんていう極めてベタな悲劇的ストーリーが頭をよぎったが、現実がそんな喜劇的なシナリオをわざわざ僕のために用意しているはずはない。
本当に謎だ。なぜ僕を呼び出す必要があるのだろうか。
まともに話したことも無いクラスメイトが、僕に重要な用などないはずだ。
しかし、大した話で無いならば教室ですればいいものだ。
ま、とにかく行ってみれば分かるか。
時刻は午後8時過ぎ。4月の下旬といえども、峰曽田の夜風は冷たい。
霧島を待たせるわけには行かないので、僕は自転車にまたがって猛スピードで「マリア坂」を下った。
3分後、峰曽田公園に到着した。ここを愛犬「ゼリー」と散歩するのはいつも夕方なので、暗い峰曽田公園は見慣れない。
あたりを見回しても人影は無い。
電灯に照らされたベンチに座って霧島まりあを待つことにする。
5分くらいが経ち、携帯でテトリスをはじめようとしたとき、2人はやってきた。
そう、「2人」だった。
「まさか、君がまりあと同じクラスだったとはね。驚いたよ」
霧島の横に立つ男が言った。電灯を背負うように立つ男の顔はよく見えないが、声には覚えがある。
「ごめんね、夜遅くに。あたしが渡辺君と話してるのを見たらしくて、この人が会わせろって言って聞かないから・・・」
と、申し訳なさそうな声で話すのは霧島だ。きっと赤くなっているであろう頬を見られないのは残念だ。赤外線スコープを持ってこなかったことを後悔しながら言う。
「いや、いいんだよ。どうせヒマだったし。で、何か僕に用でも?」
さあ、答えを聞かせてくれ。僕はなぜここに呼ばれたんだ。
「えっと、あたしはその、何もないんだけど。この人が・・・」
霧島が隣の長身痩躯の男の顔を見上げる。
ちょうどいい具合に男の顔に光が当たり、正体が判明した。アメリカ人(2年生・陸上部)だ。
僕が驚いたのと同時に、奴は喋りだした。
「はじめまして。霧島まりあの兄、霧島大河です。先日はいい勝負をさせてもらったよ。もう忘れてしまったかな?」
忘れるはずがない。敗北の味は、海水よりも塩辛く、僕の口の中で粘ついていた。
「とんでもない。こちらこそ、いい経験になりました」
僕の悪い癖だ。適当なことを口にしてしまった。高校1年の体力テストの50m走が人生において何かの役に立つとは思えない。
予期せぬ展開に戸惑っているが分かったのだろう。霧島(妹)が話してくれた。
「この人、渡辺クンに用があるんだって。私の携帯で勝手にメールを送るなんて、考えられないわ」
なるほど、合点がつく。霧島からのメールに華やかさが無かったのはそのせいか。このアメリカ人(霧島兄)、やってくれたぜ。
「おいおいまりあ、さっきから『この人』って、昔は『お兄ちゃん』って呼んでくれじゃないか。俺は少し悲しいぜ」
同じく妹を持つ身として、分からなくもないアメリカ人(霧島兄)の主張は妹に届くことなく、無視された。
可愛そうなアメリカ人を救済しようと、僕は彼に問いかけた。
「アメ…いや、霧島先輩、僕に何の用が?」
「ああ、大した話じゃないんだが…。しかしその前に、その霧島先輩っていうのはやめてくれないか?スポーツドリンクを片手に持った美少女マネージャー以外にその呼び方はされたくない。分かるだろう?」
知るか。
「あ、すみませんでした。霧島…さん」
「『さん』はいらないよ。俺のことは、サーベルタイガー先輩って呼んでくれ。その方が親しく聞こえるだろう?」
は?この男、馬鹿だ。でなけりゃ本物のサーベルタイガーだ。
できることなら関わりたくないタイプの人間だ。逆らっちゃいけないと、15年間の人生が僕にささやいた。
「はぁ。さ、サーベルタイガー先輩が僕に何の用ですか?」
「君に、俺の夢を叶えてもらいたいんだ。君は走るのが得意だよね?」
「ええ、苦手だと思ったことはないです」
「じゃあさ、一緒にマラソンを走らないかい?」
「マラソン?僕は長距離はてんで駄目ですよ」
「フッ。君は自分の事をまるで知らないんだな。君のあの無駄のないフォームは、俺と2人3脚マラソンをやるためにあるんだぜ?」
「え?今なんて?」
「2人3脚マラソンさ。渡辺クン、君は俺と二人でフルマラソンを走るんだ」
僕は恐怖を覚えた。コイツ、絶対おかしいよ。そんな輝いた瞳で僕を見ないでくれ。嫌だ。絶対に嫌だ。NO。
僕の無言の拒否反応を無視して、サーベルタイガー先輩は話を続けた。
「渡辺クン、君はこの退屈な世界に満足しているかい?俺は、していない。」
返答を聞く気がないのなら質問をしないでほしい。
「俺 はしていない。でも、いつかはしなくてはいけないと思っている。だけどね、それは今じゃない。目の前のものを全て受け入れるには、俺にはまだ知らないこと が多すぎる。だから、「その時」が来るまで俺は本気で世界に抗いたいんだ。やらなきゃいけないことじゃなくて、やりたいことをやりたいんだ」
好きにしたらいい。僕だって、少なくとも十代のうちは好き勝手させてもらうつもりだ。でも僕を巻き込むのはおかしい。正式に断ろう。
「2人3脚でマラソンだなんて、無茶ですよ。僕じゃなくて、他をあたってください」
しかし、この男を前にして、僕の言葉など無力だった。
「無茶だって?みんなそう言うよ。無謀だとか、ばかばかしいとかね。だけどね、俺は信じているんだ。そう、誰かの言葉なんかよりも、自分自身の未来を。いや、君と俺、二人の未来をね」
ミネソタ公園に、サーベルタイガーの咆哮が響き渡った。僕は言葉を失い、時間が止まったような静けさが僕らを包んだ。
再び時計の針を動かしたのは、霧島まりあの小さなため息だった。
「ごめんね、渡辺くん。この人、少しおかしいの。」
こちらこそごめんよ、霧島。僕は君のお兄さんをフォローできる言葉を知らないんだ。
「だから、少しだけこの人のわがままに付き合ってあげて。お願い。」
「うん」
――――――うん。・・・・????
なんだって?霧島まりあ、君は僕の味方で、良識ある少女だと思っていたよ。なのに、僕をサーベルタイガーに売るのかい?僕はもう誰も信じられない。
勢いで「うん」だなんて言ってしまったのを訂正しなくちゃ・・・
「決まりだな。」
僕よりも早く口を開いたのは、アメリカ代表・サーベルタイガー先輩だった。
「じゃあ、明日から放課後に練習するから、掃除が終わったら相撲部の部室に来てくれ。あそこは今年から部員がいなくなったらしいんだ。待ってるぜ」
「じゃあね、渡辺クン。また明日、教室でね」
「ちょっと待て、まりあ。俺の相棒に『渡辺クン』はないだろう。それじゃ親しく聞こえない。あだ名を考えてあげなきゃな。そういうことだ、楽しみにしていてくれ。あばよ!」
霧島兄妹は、風のように去っていった。僕の頭には、サーベルタイガー先輩の代名詞「あばよ」がこだましている。
他人の言葉より、自分自身の未来を信じる。悪くないかもしれない。
けれど僕はついさっき、明日からの未来に、一切の希望を失った。
サーベルタイガー先輩が、ブラックホールのごとく僕の未来を奪い去ったこの日を、僕は忘れない。
僕の名前は渡辺ヒロユキ。好物はみかんゼリー。ただそれだけの男だ。
2時間後、そんなつまらない男の携帯が、バイブレーション。
From霧島まりあ
「今日はホントごめんね。けど、これからよろしくね☆」的なメールだった。
可愛らしいメールが、少しだけ僕の心を救った。そのメールに返信しようとしたところ、再びバイブレーション。From霧島まりあ
「明日から君の名は「渡辺ひもゆき」だ。 あばよ!」
僕は、頬をつねった。古典的な方法だったが、これが夢でないことは認識できた。
平和で静かな日常は、もう思い出せない。
僕の名前は、ひもゆき。明日から、相撲部の副部長になる男だ。
つづく