【前回までのあらすじ】
心の殻に閉じこもるクールな少年・渡辺ヒロユキ。県立峰曽田学園に入学した彼は無気力に毎日を過ごしていた。そんな彼が唯一本気になった出来事、それは「体力テスト」。走ることに絶対の自信を持っていた彼を打ち負かしたのは「アメリカ人」こと、長身痩躯の2年生だった。
この物語は、渡辺ヒロユキが峰曽田で巻き込まれる摩訶不思議な冒険である。

注)この物語はフィクションです。実際の人物、団体などとは一切関係ありません。

『ミネソタ・ハリケーン第3話』

8時20分起床。朝食は無し。8時30分までに顔を洗い、8時34分までに家を出れば、40分からの朝のホームルームにギリギリ間に合う。これが僕の1日の始まりだ。

僕の家から学校まではおそろしく近い。距離にして900m。そして、自転車置き場から教室までがおよそ120m。この約1kmを全力で駆けるおよそ5分間。それだけが、僕の1日で唯一、何かを頑張る時間である。

大したことではないように聞こえるかもしれない。しかし、僕の家から峰曽田学園までの道は、長く急な坂道なのだ。人呼んで、「マリア坂」。
マリア坂を自転車で上るのはなかなか骨が折れる。夕方には、女の子を後ろに乗せた男の人が、ペダルを漕ぐのに必死なのを隠すために涼しい顔をしようとして、二重に必死になっている光景がよく見られる。
それでも大抵は途中で男の下半身と顔面の筋肉に限界が訪れ、二人仲良く歩くことになる。そして、女の子の
「ごめん、あたし重かった?」
の一言から始まる、予定調和ともいうべき会話が展開されてしまうのだ。
人類は同じ事を繰り返すのが楽しくて仕方が無いのだろう。
いや、別に僕は嫉妬しているわけではない。きっと僕もその状況になったら同じ事をするだろう。僕だってどこにでもいるありふれた人間。好物はミカンゼリー。ただそれだけの男だ。
話が少しそれてしまった。とにかく、マリア坂は長く険しい坂道なんだ。二人乗りでなくても自転車で上りきるのは至難の業だ。
そもそも坂道に名前がつくことなんてあまり無いことだろう。けれど、その斜度と長さへの畏怖と敬意を込めて、人々は坂道に名前をつけたのだ。その坂道に面する大きな建造物、「HOTEL MARIA」にちなんで。

そんな坂を、僕は毎朝猛スピードで駆け上がらないといけないのだ。テンションを上げるために、大音量で音楽を聴かねばとても上りきれない。それも大抵は、反骨精神に満ちた音楽。「先生達の言うことや、教科書に載っていることに、何も意味なんて無かったぜ!俺達は今、此処で生きてるんだ。」
ミネソタ・ハリケーン
的な叫び声を聞きながら自転車に乗り、もの凄い勢いで「学校」へ向かうのはなんだか滑稽だけれど、それが僕の朝だ。

今日も、僕の朝はそんな風に始まった。
3日前に行われた体力テストの翌日から、僕は男達からモテはじめた。
勘違いされるような表現を訂正したい。

僕は、運動部の先輩達から執拗な勧誘に遭っているのだ。
野球部、ラグビー部、アメフト部、そして陸上部だ。

しかし、どの部活にも興味は持てない。走るのは嫌いではないけれど、競技としての陸上に面白みを感じることはできないし、ラグビーとアメフトの違いだって分からない。野球部は僕のモミアゲを奪いに来ているとしか思えない。

何度勧誘に来ても、僕は「考えておきます。」とだけ言ってトイレに逃げ込む。面倒なのは嫌いなんだ。
ただ一つ恐れているのは、女子マネージャーに勧誘に来られることだ。はっきり言って、逃げられる気がしない。いや、心のどこか奥の方でそれを期待している自分が怖くて仕方ない。
年上のお姉さんに、
「ねえ、君きっと向いてるよ。入っちゃいなよ。」

なんて、余裕たっぷりな感じで勧誘されたら、ラグビー部はおろか、ボブスレー部であろうとウェイト・リフティング部であろうと入部してしまいそうだ。
ミネソタ・ハリケーン
しかし、頭ではしっかり分かっている。僕は何をしても後悔するんだ。何もしないのが一番落ち着いていられる。それにウェイト・リフティング部になんか入ったら、ザンゲフみたいな体型になってしまう。
ミネソタ・ハリケーン
そんなことを考えながら、今日も黙って授業を聞いて、昼休みには吉岡とポケモンカードゲームとシティハンターの話をしながら弁当を食べ、午後は眠って過ごし、掃除をして、何事もなく1日を終えた。

15時半に解放された僕は、頭を「らんま1/2(再)」に切り替えた。そういえば先週からオープニングの歌が変わったんだ。

鼻歌を歌いながら自転車置き場へ向かった。

部室棟の前を通りかかったときに、ふと入学式の日の出来事を思い出した。
陸上部の部室から言い争う声が聞こえ、細長い男が殴られていたんだ。たしかその男は
「あばよ。」
と言ってニヤニヤしていた。

ん・・・。あばよ?

アバヨ・・・?

僕の頭の中で絡まっていた記憶の糸がほぐれ、ピンと張るのを感じた。
思わず立ち止まってしまった。
そう、先日のアメリカ人(2年生)と陸上部の部室から出てきた男は、同一人物だ。僕は確信した。峰曽田に、「あばよ。」なんて言葉を使いこなす男が二人もいるとは思えない。
やれやれ。僕は体力テストの敗北を少なからず悔しがっていた。かけっこで負けるのは、実に久々の出来事だったのだ。
しかし相手が悪かったと知ってスッキリした。陸上部員なら仕方ないさ。僕の足は、普通より少し速い。その程度だったんだろう。あんな頭の悪そうな人でも、陸上部なら足は速いさ。

自分自身に後ろ指を指して、「こんなもんさ」と納得させることに成功した僕は、再び歩き出そうとした。そのときだった。

「あの、わ、わた…渡辺君?」

名前を呼ばれて僕は振り返った。
そこには背の低い女の子が立っていた。見覚えがあるような、無いような。・・・可愛い。
彼女はこう続けた。

「あの・・・そこ、り、陸上部の、部室。」

うむ、僕が立っていたのは間違いなく陸上部の部室の前だった。

「も、もしかして渡辺君、り、陸上部に、その…入部するの?」

なぜこの女の子はこんなに緊張しているのか知らないけれど、顔を赤くしながら話す彼女を前に僕は惑った。

「いや。そういうわけじゃないんです。ただなんとなく立ち止まっただけで・・・。ところで、なんで僕の名前を?」

女の子はさらに顔を赤くして、うつむきながら話した。
「そ、そうだよね。ごめん、勝手に入部希望かなって思っちゃって。
 あの、私、同じクラスの霧島。霧島まりあ。知らないよね、私の名前なんて。」

「同じクラス?ごめん、実はまだクラスの人の名前と顔が一致してないんだ。僕は渡辺ヒロユキ。あ、知ってるんだよね。」

僕は嘘をついた。クラスメイトの名前と顔が一致しないどころか、ほとんど顔さえ覚えていない。今までもこれからも、覚えるつもりもなかったけど、どうやらそろそろ覚えないとマズそうだ。失礼にもほどがある。
けれど彼女は何も気にしない様子だった。

「ううん。わたしクラスで目立ってないからね。仕方ないよ。
 私ね、陸上部に入ってるんだ。走るのは遅いんだけどね、走るのが大好きなの。」

「へぇ、そうなんだ。」
僕の悪い癖だ。いつもこの一言で会話を終わらせてしまう。けれど今日は違った。彼女は話を続けた。

「渡辺君は、走るの速いんだね。それに、あんなにキレイな走り方ができるなんて、羨ましいな。」
「ねえ、速く走るのって、どんな気持ち?」
「走ってるときは何考えてるの?」
「昔からあんなに速く走れたの?」
「部活は?入らないの?」

これだけ言ってしまうと、彼女は大きな目をキラキラさせながら僕の顔を覗き込んでいた。

「えっと、あの、何から答えればいいのかな。」
僕は本当に困っていた。一度にこんなにたくさんの質問をされたのは初めてだった。
けれど、一つずつしっかり答えてあげるべきだったのだ。
僕のせいで、せっかく元に戻りかけていた彼女の頬はまた真っ赤になってしまった。

「ご、ごめんなさい。私、お話しするの苦手で。なのに、話し出すと止らなくなっちゃって・・・・・・。」

「いや、いいんだよ。僕はすぐ黙ってしまうから。たくさん話してくれたほうが楽だし。」

「本当?じゃあまたお話してくれるかしら。私、もう行かなきゃならないの。部活始まっちゃう。ねえ、携帯教えてよ。赤外線、付いてるよね?」
ミネソタ・ハリケーン

僕は慌ててポケットから携帯を出した。ほとんど使うことの無い僕の携帯から赤外線が放たれるのは随分久しぶりだ。
彼女は自分の携帯に僕の個人情報が収まるのを確認すると、週刊少年マガジンの表紙に載っててもおかしくないような笑顔で、「帰ったらメールするね。」と言いながら去っていった。

部室棟の前で取り残された僕は、なんだか疲れていた。久々に女の子と話して緊張したからかもしれない。

トボトボと自転車置き場へ歩いていって、心なしかいつもよりゆっくり家に帰った。らんま1/2を見てもドキドキしなかった。なんだかソワソワしてしまう。不思議な気分だ。

それに、携帯が気になって仕方ない。認めたくないが、たぶんメールを待っているのだ。
それが僕の2人3脚ライフの始まりを告げるメールだなんて知る由も無い4月下旬の僕は、『霧島まりあ』と2人乗りの自転車でマリア坂を登る妄想をしていたのだった。

自分と同じ名前の「HOTEL MARIA」の前を通り過ぎるとき、彼女はどう思うのだろうか。僕は妄想の中で無駄に気を遣ったりした。きっと彼女は何も気にしないだろう。

僕の名は渡辺ヒロユキ。メロンを食べると喉の奥がかゆくなる。ただそれだけの男である。

当然のことながら、なんの前触れも無くメールはきた。


つづく