宮 崎 兄 弟 の 生 家 と 資 料 館 〈 荒尾市 〉 | ✿ 日々是好日 ~ 降っても晴れても ~ ✿

✿ 日々是好日 ~ 降っても晴れても ~ ✿

勤労学生時代から30年“喜怒哀楽”のサラリーマン人生を経て独立。数十店舗の外食企業が上場し全国700店超になるまでを経験。飲食業で育てられた男が、今度は “厳しくも愉しいホテル経営” に挑戦!「無常迅速、時人を待たず」を我が肝に銘じ。


熊本県の西北端に位置する荒尾市。

宮崎家は、江戸時代初期、初代の正之が肥前国(現佐賀県・長崎県)から肥後国(現熊本県)の

この地に移り住んだ郷士の家柄で、日本が近代国家として産声をあげ、成長を遂げた

明治時代から大正時代に、宮崎家の4兄弟(八郎・民蔵・彌蔵。寅蔵)が果たした役割は

地元の誇りとなっている。

 

 


 




宮崎兄弟の生家は現在 「かやぶき屋根ふきかえ」工事中!

15~20年に一度の大きな工事をしていた。 

技術者が減っている今では ほとんど見ることが出来なくなった めずらしい作業である。
 

 




敷地内にある資料館へ!
 

 




宮崎家の9代目にあたる兄弟の父 長蔵 (政賢まさたか)から

兄弟に関わる資料等が順番に展示されている。
 

 




宮崎八郎 (真郷) 1851~1877 

          ~ 自由民権に散った天性の革命児 ~

 



政賢の二男。元服して父・正賢とともに長州征伐に出陣した。

熊本の時習館に学び、明治新政府の専制政治への怒りと独立国日本の将来への危機を感じ

自由民権をかかげて活動を開始する。

そのころ中江兆民の『民約論』に感銘し、明治8(1875)年、自由民権思想をかかげた植木学校を設立

しかし、教育内容の過激さゆえ、県によって僅か半年で閉校させられる。

その後、民権党の同士たちと熊本協同隊を結成し、西南戦争(1877年)で西郷軍に加わることにしたが実際には西郷と思想が一致していたわけではなく、一端は西郷に天下を取らせ

その後西郷と戦うつもりだと述べたと言われている。

明治10(1877)年八代萩原堤にて27歳で戦死。

彼の自由と平等を愛する精神は兄弟たちに引き継がれた。


宮崎民蔵 (巡耕) 1865~1928

            ~ 土地復権を生涯の使命とした哲人 ~

 



政賢の六男として生まれる。明治18(1885)年上京して中江兆民の仏学塾でフランス思想を学ぶ。

その後、農村で貧しさにあえぐ農民をみて、土地制度に疑問を抱き、天造物である土地の所有は

人類の基本的人権の一つではないかと気づく。
 


その後、土地を平均に分配することをわが使命とし、明治30(1897)年、欧米諸国への遊説の途につき、識者と論じ4年後に帰国。明治35(1902)年に土地復権同志会を組織するが、明治43(1910)年、大逆事件が起こり、国内での運動は中絶。明治45(1912)年、「平均地権」の思想を同じくする孫文の新生中国の誕生に土地復権実現を託して、大陸へ渡った。孫文の最後を看取ったあとも、復権運動の資金獲得のため専心したが成功せず、昭和3(1928)年、63歳で永眠。


孫文が民蔵に送った関東大震災の見舞状(大正12年9月20日付)

 

 


宮崎彌蔵(やぞう) (管 仲甫) 1867~1896

       ~ 理想の国を中国革命にみた思想家 ~

 


 

政賢の七男として生まれる。明治18(1885)年大阪・東京に遊学し

明治21(1888)年、熊本市薮ノ内に住み、病気療養の傍ら、民蔵、寅蔵(滔天)、友人達と哲学

社会問題等を激しく論じ、その会合は「薮ノ内組」と呼ばれ、警戒された。

彌蔵は、革命的アジア主義を唱え、革命によって中国に理想の国を築くことを願った。

そのため自ら中国人になりきり、横浜の中華商館で弁髪を結い、名も管 仲甫(かんちゅうほ)と称し

中国の言語・習俗の研究に励んだ。明治29(1896)年、孫文一派の陳 少白(ちんしょうはく)と出会い

宿願達成の第一歩として喜んだ。しかし同年、無情にも結核に倒れ、「大丈夫(ますらお)の真心コメシ梓弓(あずさゆみ) 放タデ死スルコトノクヤシキ」の辞世の句を残して、わずか29歳で長逝。

この中国革命に対する情熱は弟 寅蔵に引き継がれることになる。


宮崎滔天 (とうてん) (寅蔵) 1871~1922

           ~ 孫文を助け、革命に挺身した侠の人 ~

 



宮崎滔天(とうてん)は、政賢の八男として生まれる。

明治18年、15歳の寅蔵(滔天)は、徳富猪一郎(蘇峰)が自宅を開放して開いた

熊本市の大江義塾に入塾。


以前アップした 「徳富記念園 (大江義塾) 」 はこちら



それから東京専門学校(現在の早稲田大学)、長崎カブリ英和学校(現在の長崎ウエスレヤン大学)と

多感な青春遍歴ののち、兄、彌蔵の説く革命的アジア主義に共感し

明治25(1892)年、上海の土を踏んだ。

そして彌蔵の死のあと、理想を同じくする孫文との出会いに導かれた滔天は

明治30年秋には宮崎家に孫文を招き、革命に向けての熱い思いと固い友情を育んでいった。
 

 




多くの失敗で挫折も経験し、時には浪曲師、桃中軒牛右衛門(とうちゅうけんうしえもん)として孫文の革命運動を歌にして高座から呼びかけながら全国をまわる。

ちょうどその時期の明治35(1902)年に 自らの半生を著した 『三十三年之夢』 で 当時無名だった孫文を紹介し、日本に留学していた中国人に感銘を与えた。

この本の中国版が出版されると、たちまち孫文の名が中国人たちの間で知られることとなり

明治38(1905)年7月に孫文と黄興(こうこう)の手を握らせた。

それを皮切りに、それまで主義主張の異なっていた中国の革命家たちが一つになり

留学生を中心とした中国同盟会の結成に大きく貢献した。


▼ 宮崎滔天に扮する森繁久彌さん


〈昭和33年、東京有楽町の芸術座で、菊田一夫原作の「風雪 三十三年の夢」が上演された際に滔天を演じた森繁久彌氏〉

 


明治44(1911)年10月辛亥革命(しんがいかくめい)勃発。
 


 

 

辛亥革命成功ののち、大正2(1913)年に、国賓として日本の近代化産業を視察に訪れた孫文を

長崎で出迎え、日本各地への訪問に随行し、ここ荒尾の宮崎家にも来訪した。

   〈資料館HP ・パンフレットより〉

 

 


 

 




▼ 孫文・滔天を中心とした2階の展示室

 

 


 

 

 



次回は宮崎家の女性たち!

 

 

荒尾市 宮崎兄弟資料館
荒尾市荒尾949-1
0968-63-2595
9:30~17:00(資料館への入館は16:30まで)
一般210円・小中学生100円
月曜日休館(祝日の場合は翌日)
年末年始(12/29~1/3)






本日は以上です。

 

 

 


 

熊本で遊ぶ。熊本でお仕事。どちらもお泊りなら  

→ http://www.az-hotel.com/kashima/ (o^-')b

 

小さいから楽しいホテルの経営