監督が火事現場へ向かった後、 
さすがに相撲大会を続ける気をなくした少年団の一行は
軽くストレッチなどをして解散ということになりました。
 
解散し、海からグラウンドまでの道をみんなで歩いていたちょうどその時、
遠くの方で救急車のサイレンの音がしていました。
 
それを聞いた父兄の中の誰かが、
 
「あの火事で怪我人でもでちゃったのかな??」
「煙をみる限りはそんなにヒドイ火事には見えなかったけどな。。」
 
という会話を交わしていました。
 
この会話もまた、印象に残っています。。(_ _。)
 
 
解散後、j-taro少年は火事のコトが気になってしまい、
帰り際に友達のサトシと火事現場を見に行こう。という約束をしました。
 
家に帰り、荷物を置き、
すぐに自転車に乗って出発しました。
 
サトシと合流し、火事があったであろう方角へ向けて出発。
不謹慎ではありますが、
その時は、現場を取材する記者にでもなったような気持ちでした。
 
 
火事現場は、靴屋さんでした。
小学校の体育館で使う「上履き」とかを買っていたお店だったので
かなりショックを受けたのを覚えています。
 
周りの人の話では、
怪我人などは特にでていないということだったので
j-taro少年とサトシは顔を見合わせ、ホッとしました。
 
 
現場を見終えた二人は、途中、駄菓子屋さんに寄り道しましたが
夕食前のお菓子もソコソコに、帰路につきました。
 
もうだいぶ日は傾いていました。
 
 
火事現場からj-taro少年の家までの道のりは、
グラウンドを通り、
監督の家を通り、
サトシの家を通り、
そして家に到着。といった具合です。
 
 
まずはグラウンドを通りました。
もうサッカーの試合も終わったようで、
グラウンドには人影がありませんでした。
人影のない夕暮れのグラウンドはなぜか寂しいものです。
 
 
監督の家の前を通りました。
いつも、野球の練習前に集合する場所です。
監督が飼っている犬がいて、こちらをみているんですが、
なぜかいつものような元気がないなぁ。。。そんな気がしました。
 
 
サトシの家に着きました。
 
 
「じゃ、またなー。」と言い、
自転車から降りたサトシに、
突然、家の中からサトシの母が駆け寄ってきました。
 
その表情に困惑の色がみえます。
 
小学校5年生の子供でも、
これは何かあったな。。。と感じるほど
サトシの母は動揺していました。
 
 
「ドコ行ってたの??大変なことがあったっていうのに!」
 
「どしたの??そんなに慌てて。。」
 
 
 
 
 
 
 
 
「どうしたの?って・・・。」
 
 
 
 
  
「監督さん、亡くなっちゃったんだよ。。」
 
 
 
 
 
 
 
 
「えっ?!」
  
 
 
 
 
 
 
 
「うそだ?!」
 
 
 

「だって、さっきまであんなに元気に・・・・。。。」
 
 
 
 
 
 
「とにかく、、j-taroクンも早く家に帰りなさい。」
 
 
 
 
その後、俺はどんなことを考えながら家に向かったのか、、、
覚えていません。
信じられなくて涙も出なかったです。
 
 
コーチの話しによると、
監督は、ちょっと前から心臓病を患い、
急激な運動は、当分の間、控えるように。
と医者から言われていたようなのです。
 
できれば、野球もやらない方がいいです。
と注意されていたんですが
子供達と野球をすることが一番の楽しみだから、、と
病気になった後も、子供達に野球を教え続けました。
 
 
それを知っていたのは、監督の奥さんとコーチだけでした。
 
だから、コーチはあの時
「走らないで下さい!」
なんていう言葉を言ったんだ、、と後で気づきました。 
 
 
そんな体の状態で、火事を発見し
海から監督の家までの距離、約3~4分を全力でダッシュ。
 
その時は病気のことなんて、頭になかったんでしょう。
 
そして、監督の家から消防署まで車を運転し、
その後、消防車に乗り換え現場に到着。。。。。
 
消化活動に入ろうと消防車から降りようとした。。。。
 
その時、
 
仲間の消防隊員が、監督がなかなか降りてこないのを不審に思い、
座席をみたところ、
意識を失った監督がいたということでした。
 
そこから意識が戻ることはなかったということです。
 
 
みんなが海から帰ってくる途中に聞いたサイレン。
そのサイレンの音を発していた救急車には、
監督が乗っていたんです。
 
意識を失った監督が。。。 
 
 
 
 
j-taro少年は、初めて葬式というものに出席しました。
 
もう監督とは会えない。
野球も教えてもらえない。
 
そう考えると、寂しくてしかたありませんでした。
 
11歳の俺にとっては
あまりに辛すぎる、監督との永遠の別れでした。。。
 
 
監督との二年間という短い付き合い。
 
しかも俺は、小学三年から五年の間。。
 
俺自身、記憶力がよくないので
子供の頃の記憶があまりないはずなんですが、
この日の出来事は鮮烈に記憶に残っています。
 
最後となった監督の後ろ姿も。。
 
 
 
大人になった今、
この日の出来事を振り返ると、その当時に持った感情とは
少し違うものが込み上げてきます。
 
当時はもう単純に悲しいのみ。
 
しかし今は、悲しいのはもちろんですが、
それ以上に、「すごい人と接していたんだなぁ。」という
他人に自慢したくなるような不思議な感情を
持っている自分がいます。
 
 
ここまで、自分の仕事に誇りを持ち、
自分の命までも省みず、他人のために!と頑張れる人が
いるでしょうか?
働く大人という立場になった今、
なおさら、その偉大さを感じます。
 
 
「誰よりもお前達をあったかい目で見守ってくれる人は両親なんだぞ。」
 
「自分がこころから大事だと思った友達は、
 とことん大事にしろ!そんなにたくさんできるもんじゃないんだから」
 
「挨拶さえできれば、どこへ行っても通用するし、何でもプラスに働くよ。」 
 
 
これらは監督が教えてくれたことです。
 
 
監督、、、やっぱりあなたはすごい人でした。
 
偉大すぎる人でした。。。
 
俺も監督に負けないくらい立派な大人になるよ。
そして、俺に野球を教えてくれて、
ありがとう。<(_ _*)>
 
 
以上が、十数年前のある夏の出来事。
 
久々にその日を思い出した俺の心には、
自然に「ありがとうのこころ」が溢れてきました。
 
 
★最後に、、、、
 
実は、監督についてのこの記事を書くまでには
自分なりに相当悩みました。
 
当時のコトを思い出すのも辛かったし、
何より、
監督の死を、どんな形であれブログの記事のネタにする
ということに抵抗があったためです。
 
しかし、自分のワガママで記事にしました。
 
野球との出会いを綴りたかった、、

そのためには監督なしには語れない。。。

というのも一つのきっかけではありますが、
 
それ以上のきっかけとなったのが、
JR西日本の脱線事故。
 
その時のJR西日本社員の対応、、、
 
自分の会社のせいで大勢の人が生死を彷徨っていたのに
何で何もしようとしなかったんだろ?
 
人を助けたいという想いが強すぎて
自分の命を落としてしまった人もいるのに。。。
 
あまりにも監督の行動とかけ離れすぎていて、
何だかよく分からない違和感を覚えたんです。
 
そんな時に思い出された監督。。。
 
監督から教わったたくさんのことや、
思い出などを、ブログを通して頭に巡らせることで、
この嫌な気持ちを拭い去りたいという想いから、
この記事を書かせてもらいました。
 
そして、この記事を読んで頂いた方にも
今後の仕事や恋愛において前向きとなる、
何かしらのきっかけを与えることができたら
という自分勝手な願いも込めました。
 
この日本で生きる
どうしようもない大人ばかりをみるのではなく、
尊敬できる大人をみたい。
追いかけ続けたい。
そして、自分も尊敬される大人になりたい。

 

がんばるぞ。

 

あ、それと、

野球人気が再び上昇することを祈念して。。。
 

 

長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 
ソイヤ。