釜本邦茂さんがご逝去されたとの報に接しました。81歳とのこと、いまは「まだお若いのに」と言える時代です。
ネットでご病気のことを読みました。数年前に喉頭がんの治療を続けておられ、昨年、誤嚥性肺炎で入院されたことがあるとのこと、呼吸器をつけてのご療養中のところ、6月に再入院されておられたとのことです。ご冥福をお祈り申しあげます。

本日13日告別式だったそうです。それはもう盛大だったことでしょう。日本サッカー最高のストライカーでしたから。引退試合であのキング・ペレに担がれて場内を一周したなんて、考えられないですね。

釜本さんが引退されたのが1984年、それから41年、いまだに釜本邦茂選手に匹敵すると言われる選手は出ていません。いかに凄い選手かということです。この先も匹敵するのではと呼ばれる選手が出てくるのかどうか・・・。
もう一つは、釜本邦茂選手が全盛期が別の時代だったら、ということも思わずにはいられません。例えば2002年日韓大会の日本代表に釜本選手がFWとして加わっていたら・・・。
あるいは2024年カタールW杯の日本代表に釜本選手がFWとして加わっていたら・・・。
考えてみるだけでワクワクする「if(もしも)」です。

このあと何年か後に「とうとう現れたな、釜本邦茂選手に匹敵する、もしかしたら超えるかも知れない選手だ」と言える日が来るのを楽しみに待つしかないですね。

なにしろ、いま日本のスポーツ界は「大谷翔平選手」という、日本はもとよりメジャーリーグでもナンバーワンといっていい、スーパーの上に「超」がつくようなスターを擁して、現在進行形で、その活躍に酔いしれている時代です。
大谷翔平の次の時代で構いませんので、どうぞ、次は「釜本邦茂選手に匹敵する、もしかしたら超えるかも知れない選手だ」と言われる選手によって、日本がワールドカップの歴史を変えて欲しいものです。

釜本邦茂さんの偉大さを噛みしめつつ、次に期待しましょう。

当プログの愛読者の皆様は、webサイト「サッカーの世界へようこそ」(左サイドバー・ブックマークよりアクセス)のほうへお立ち寄りいただいたことがありましょうか?

お立ち寄りいただいたことがある方はお気づきと思いますが、「ようこそ サッカーの世界へ」は4つのパビリオンから成る、web上のテーマパークですが、その中の「ヒストリーパビリオン」の制作に全力を集中しているところです。

「ヒストリーパビリオン」は「伝説のあの年」シリーズや、「伝説のあの試合」シリーズなどで構成していきますが、そのうち「伝説のあの年」シリーズを制作中です。このシリーズは、1986年を起点の年にして書き進めていますが1997年までをアップして、現在1998年を制作中です。

ご存じのとおり1998年という年は、日本サッカーが初めてワールドカップという世界の舞台に立った年ということで、「伝説のあの年」シリーズの中でも、もっとも伝説的な年の一つです。
ですから、この年は書き残すべきことも膨大な量に上り、この年を書き始めてからすでに2ケ月半になりますが、まだまだ先が続く作業です。

ただ、やはりこの年は「伝説のあの年」にふさわしい「事実は小説より奇なり」を地で行くドラマチックな展開の連続の年です。
日本サッカーが初めて世界の舞台に出るということが、いかに並大抵のことではない出来事だったか、世界最高峰の舞台「ワールドカップ」が、いかに凄い舞台だったのかを、思い知らされた年だったのです。

その後、日本サッカーは「ワールドカップ」に出続けています。近年は、出ることは当たり前、決勝トーナメント進出すら当然視される時代ですが、それが1998年と2002年の2度のワールドカップ体験をくぐり抜けたからこそ積み上げられている歴史であることを、おそらく、この「伝説のあの年1998年」をお読みいただくと実感していただけると思います。

「そんな能書きを言っている暇があったら、さっさと仕上げろ!」というお叱りの声が聞こえてきそうですが、さきほども申し上げたように、あと数日で仕上げられるシロモノではありません。どうか、お待ちいただきますようお伝えするのも、今回の書き込みの目的です。
よろしくお願いいたします。

ちなみに「伝説のあの年」シリーズは、1986年から今書き上げようとしている1998年までを「前編」としてひとまとめにしようと考えています。
そして1999年から2002年までの4年間を「後編」としてまとめ、あわせて17年間で一区切りにしようと考えています。
その後の2003年以降については「ヒストリーパビリオン」の「伝説のあの試合」シリーズなど別のテーマの書き込みをある程度済ませてから再開したいと考えています。

1999年から2002年までの「後編」のほうは、一つの目標として、2026年北中米ワールドカップが開催されるまでには校了したいと考えていますが、あまり期限を区切って終わらせようとすると、内容がいろいろ抜けてしまった不十分なものになる危険性もあることから、こだわらないようにしますが、頑張りたいとは思います。

そのようなわけで現在「伝説の1998年」仕上げに奮闘中であることをご報告して、今回の書き込みを終わらせていただきます。

6月20日(金)夜にNHK総合「チコちゃんに叱られる」で「サッカー日本代表のユニフォームはなぜ青い」がテーマになりました。わかっていながら見逃し、21日(土)朝の再放送も見逃しましたが、NHK+で配信されましたので見ました。

その理由を説明する専門家として登場したのは後藤健生さんでした。
日本の代表チーム(この時はまだ選抜代表ではなく、国内予選の優勝チームだったため東京高等師範(現・筑波大))が初めて国際試合を行なった時はエビ茶のユニフォーム(東京高等師範のユニフォーム)だったそうです。
サッカー日本代表が初めて選抜形式をとった1930年、当時、国内最強チームと言われていた東京帝国大(現・東大)メンバーに何人か全国から追加する形の代表を結成、ユニフォームは東京帝国大の青いユニフォームを使用、胸に日の丸(当時は旭日旗タイプ)を付けて大会に臨んだところ、見事優勝、1936年には初めての五輪出場となったベルリン五輪に参加、強豪スウェーデンを破り初出場にしてベスト8進出を果たしました。

そのため青いユニフォームはゲンがいいということになり定着、白を基調とした時期もあったものの、襟や袖などを青色にして引き継がれました。
1988年に、突如、赤の日本代表ユニフォームが登場、しかしW杯アジア予選を一次予選で敗退するなど日本代表は低迷、ファンからも不評だったことから1992年オフトジャパン時に再び青に戻したところ、その年のアジアカップに初優勝するなどゲンのいい色ということで、その後は「サムライブルー」と呼ばれる青を基調としたユニフォームのモデルチェンジを繰り返し現在に至っています。

しかし後藤健生さんは、現在の色がネイビーブルー(濃紺)寄りに変化していることにちょっと不満があるとのことで、イタリアのアズーリ(青を意味するアズーロの複数形)、フランスのレ・ブルー(青の複数形)のような決まった青ではないことから、もっと明るいブルーを使って決まった色にして欲しいという希望をもっているようです。

確かに、模様の部分をモデルチェンジするのはいいとしても、色は固定、明るい空色系にするか濃い目の色にするかは協会の考え方でいいと思いますが、大事なのは、世界のどの国も使用していない色を決めて、それを「サムライブルー」と呼ぶ時期に来ていると思います。
これまでのユニフォームはスポーツメーカーの提案主導で作られてきたのでしょうけれど、モデルチェンジしていい部分をきちんと限定して、固定色が引き継がれるような強豪国らしいものにしていきたいと感じました。
サッカーダイジェストwebが、南葛FCの取り組みを定点観測的にフォローしていて、web記事を何本か読みました。
「キャプテン翼」の原作者である高橋オーナー、クラブ経営を担う岩本GM、クラブの中間管理職といえる天野プロモ部長、そして現場を指揮する風間八宏監督、このきれいなタテの絆は相当のインパクトがあります。

「ボールはともだち」を基本コンセプトとするクラブ作りは、まさに風間八宏監督が川崎Fで撒いた種を、南葛FCでも撒き、岩本GM、天野プロモ部長がクラブ基盤を揺るぎないものに仕上げるという取り組みは、日本はもとより世界を見渡しても、なかなか見当たらないクラブができそうで「果たしてどんなクラブになるのだろう」というワクワク感に満ちています。

ここ最近、V・ファーレン長崎のホームスタジアム「長崎スタジアムシティ」が、まさに「サッカースタジアム」と「一つのまち」がセットになった形でオープンしたニュースを目にして、日本にも、とうとう夢空間スタジアムの時代がきたと感じましたが、南葛FCのホームスタジアムは、さらにその上をいくのではないかという期待が湧きます。

南葛FCは、まだJ5相当のカテゴリーだそうですから、J2ぐらいまで強化していくのは並大抵のことではありませんが、FC今治も四国リーグからスタートしてJ2まで昇ってきました。10年スパンで考えれば十分可能な期間だと思います。

長崎、今治、南葛、個性あふれるクラブ、スタジアムが増えていく楽しみは、Jリーグが新しい時代に入ってきたことを感じさせます。
昨年も大谷翔平選手、ドジャース、メジャーリーグの人気は凄まじかったですが、今年に入っても勢いはとどまるところを知らない人気です。

メジャーリーグの開幕戦を東京ドームで行なうということでチケット入手に何十万人が応募するというのですから脱帽です。

もちろん山本投手などの同僚や対戦相手の日本人選手など、大谷翔平選手一人ではなく相乗人気もありますが、大谷翔平選手のスーパー性は比類ないレベルですから、大谷翔平選手が一人で野球人気を牽引しているといっていいでしょう。

案の定、最近発表された「なりたい大人」のランキングで「野球選手」が久しぶりに「サッカー選手」を上回ったというニュースがありました。

となると、ここしばらくは「野球の時代」ということになり「サッカーに対する関心の後退」は避けられません。そして、その次に来るのが「サッカー少年の減少」ということになり、それが何年か後に「日本代表のレベル低下」につながることは間違いありません。

6歳ぐらいの少年から12歳ぐらいまでの層のサッカー離れが何年続くでしょう。仮に5年ぐらいは続くとみた場合、あと15年後ぐらいから10年間、ですから2040年頃から2050年頃までは日本代表のレベル低下が現実になると思われます。

この頃というのは、日本がW杯で優勝を達成しようと目標にしている時期と重なります。ですから、なるべくサッカーをして欲しい身体能力の高い少年、センスに溢れている少年を囲い込む努力をしないとダメになることを意味しています。

多くの少年が野球に流れるのはやむを得ないことです。それだけ大谷翔平選手が偉大だからです。けれども、その中にあってもサッカーに取り組んでくれる少年を確保する努力を惜しまないようにしたいものです。

一昨日、2月11日の産経新聞「スポーツ交差点・森保監督の『同心円増』(執筆・別府育郎氏)」という記事を読みました。

タブロイド版の夕刊紙として長らくビジネスマンの電車の友だった「夕刊フジ」が1月末をもって休刊になったそうで、その特別号インタビューに日本代表・森保監督をお願いして、執筆の方も同席した時の、いわば傍聴記のような内容でした。

記事のタイトルになっている「同心円増」という言葉は森保監督の造語だそうで「同心円を増やし、大きく広げていく様をイメージ」したそうです。そして「W杯で優勝したいと本気で思っています。日本のために勝ちたい。世界一になることで日本人が日本を誇りに思える。それをサッカーでやっていきたいという思いです。」と付け加えたそうです。

もう一度書きますが「世界一になることで日本人が日本を誇りに思える。それをサッカーでやっていきたい。」
この気持ちというのは、単なる夢でないことはもちろん、目標ですらもないと感じました。これは「決意」あるいは「強い意思」といったほうがいい思いだと感じました。

日本代表チームが次のW杯に出場する頃には、優勝を狙える戦力が整い、ベストコンディションを整え、戦術的な勝利の方程式も仕上がり優勝できるし、優勝するのだ、という強い意思を感じます。

4年に一度のW杯に、上記の3条件(戦力、コンディション、方程式)がピークに来て、しかも「運」という4つ目の要素が加わらなければ優勝できない、W杯がそういう大会であることは、サッカーを愛する人であればよく知っていることし、誰よりも一番よく知っているのは森保監督自身ではないかと思います。

それでもなお「W杯で優勝したいと本気で思っています」と言い切るのは、サッカー日本代表監督という立場が、単なる1スポーツの監督とはわけが違っていて、とてつもない重大な立場であり、もはやベスト8を突破すれば成功などという、エクスキューズするような気持ち引き受けるのは許されないと覚悟しているからだと感じました。

東京五輪2020ではベスト4に終わり、カタールW杯ではドイツ、スペインを撃破して決勝トーナメントに進んだとはいえ、その先に進めなかった、それでも監督続投を許されている自分に対して強い縛りをかけているのだと感じました。

日本のサッカーファンは、その自分を厳しく律している姿を是として監督をお願いしているとも言えます。

森保監督のことで話が長くなりましたが、今日の書き込みの本題は、この「スポーツ交差点」の記事に2つの発見があったことをお知らせすることです。

それは、いまサッカー文化フォーラムのwebサイト「ようこそ サッカーの世界へ」の中で「ヒストリーパビリオン」のパートの「伝説の年○○年」シリーズを書き続けている内容に関しての発見でした。

一つは「夕刊フジ」紙が1993年10月30日付(実際の販売日は10月29日夕刊)で、W杯アジア最終予選、日本vsイラク戦の結末を「ドーハの悲劇」という大見出しを打って報じた記事のことです。
これが当時の紙面ですので付けておきます。


この見出しが、おそらく、その後もこの試合を「ドーハの悲劇」という代名詞で呼ぶことになった記事だろうと、思ってはいたものの、それを確かめられず「おそらく」と但し書きを付けざるを得なかったのですが、今回、「スポーツ交差点」で「これ(ドーハの悲劇の見出し)が、あの試合の代名詞となり」と書いてありました。
これで、「おそらく」の但し書きをつけなくてもいいことになったのです。

もう一つは、1992年のところで「アジアカップ初制覇」のことを書いていますが、その中で「5月代表初招集の森保一選手、わずか半年で不動のメンバーに」というタイトルをつけて、森保一選手のことを紹介しました。

森保選手が当時のオフト監督に、まだ森保選手が高校を出たばかりの無名の選手だった頃に見出され、その当時の所属チーム・マツダのレギュラーに抜擢、その後、サンフレッチェ広島のプロ選手になる道を拓いてくれた恩師であり、さらに日本代表にも召集してくれた経緯があるわけですが、オフト監督が森保選手のどんなところを評価して抜擢したのか、具体的なことまではわからないでいました。

それが「スポーツ交差点」に、オフト監督が「お前は足は遅いが、考えるスピードは速い」と評価したと書いてあったのです。サッカー選手にとって「判断の速さ」があるというのは何ものにも増してアドバンテージです。その部分を読んで、これも謎が解けた感じがしました。

この話は、1992年のことですから、もはや33年前のことですが、何年たっても埋められないピースはあるもので、こうして少しでもピースが埋まっていくのは「サッカー文化フォーラム夢追い人」冥利に尽きるというものです。






お正月恒例の男女高校サッカーも終わり、地上波テレビでのサッカー試合がほとんどない時期に来ています。長年サッカーを愛し続けている身にとっては、毎年この時期(1月中旬から2月中旬ぐらいまで)というのは、なんとなく空白を感じる時期で、ちょうど1年で一番寒い時期と重なっていることから、心にもすきま風が吹いているような気持ちになります。

けれども、今年は少し気分が違っています。あれ、なぜだろうと考えてしまいました。どうやら自分は「日本サッカーのいま」に対する感度が徐々に低くなってきていることに気づきました。
そういえば毎年お正月3ケ日のいずれかに放送されるNHK-BSの日本代表監督へのインタビュー放送も、今年は番組表では確認していましたが、放送は見ないでしまいました。

なんとしても見ておかなくちゃ、という気持ちが薄れている証拠です。
何年か前までは、あれほど「日本サッカーのいま」を可能な限り掴んでおき、いろいろな作業の糧にするという気持ちでいた自分が、いまはもういなくなっています。

「日本サッカー」に対する愛情も熱意も冷めたとは全く思っていないのですが、それを裏付ける吸収作業が追い付かなければ、何を言っても言い訳になってしまいます。
これが「老化」というものなのでしょう。

そもそも夜10時以降の放送は見れなくなった生活をしていますから、ほとんどのサッカー情報がその時間以降に流れていることを考えれば、何も吸収していないと同じです。
わずかにNHKがネット配信で再放送をしてくれるのを日中見るのと、ネット配信のニュース等を読む程度です。

ですから、いまのJリーグの各チームの主力選手がどういう選手でとか、海外サッカーの強豪チームではどういう選手が活躍しているのか、といった、以前なら頭に浮かぶ情報が何もなくなりました。致し方ないことで「日本サッカーのいま」とか「世界のサッカーのいま」について語ることはできません。

さりとて、この書き込みで「昔話」をしようとも考えていませんから、ここへの書き込みがおのずと減っているという次第です。

以前にもお伝えしましたが、いまは当「サッカー文化フォーラム」のwebサイトである「ようこそ サッカーの世界へ」にコンテンツを書き込む作業だけに集中しています。作業はほぼ毎日のようにやっていますが、かといって、そう簡単には目に見えるほど変化はありません。

いま書き込んでいるのは「ヒストリーパビリオン」の「伝説のあの年」の部分です。いま「伝説のあの年 1996年」のページを作っています。1996年1年分の出来事を克明に記録するという作業ですので、まず記録としての正確さを期する確認作業が大変です。それからその出来事の背景や影響などを考察する作業も大変です。また1996年の作業をやっているうち、前の年やその前の年の内容を補足したり、つまり2~3年づつ行ったり来たりしながら作業していますので、これも結構手戻り的です。

そういう風にしながら少しづつ進んでいます。昨年の8月からずっと続けていますので、半年になります。いまのところ「伝説のあの年」は2002年までを予定していますので、さらにあと半年はかかると思います。それでも、ほぼ毎日作業を続けられそうなモチベーションなので、あまり苦には感じません。
もし2002年まで終えたら書籍化を目指そうと思っています。

どこかの編集者の方から連絡がこないかなと夢を見ながら続ける作業もいいものです。
「日本サッカーのいま」に対する感度こそ低下していますが日本サッカーに対する愛は、いささかも低下していないと自分で口を尖らせているといった近況です。

今年になって初めての書き込みでした。次の書き込みがいつになるかお約束できないのですが、もし、気づいてくださいましたら、ぜひお読みいただければと思います。
現在進めている、当「サッカー文化フォーラム」のサイト「ようこそ サッカーの世界へ」⇒「ヒストリーパビリオン」⇒「伝説のあの年」シリーズは、「伝説のあの年1986年」から始まり「次の伝説までのあいだに何が1987~1991年」そして「伝説のあの年1992年」「伝説のあの年1993年」「伝説のあの年1994年」「次の伝説までのあいだに何が1995年」と書き進めてきました。

ちょうど10年分を書き込んだことになりますので、そこそこの分量になります。ぜひ、通してお読みいただければと思います。
このあと、少なくとも2002年までは書き進めるつもりです。ただ、ここから先、1996年から先は1年分だけでも1993年の時と同じぐらいの分量になるはずですし、それを、あと7年分書き進めなければならず、そう簡単なことではありません。

ここまでの作業で一つ新しいことを加えたくなりました。それは、どうしても簡単な動画でお伝えしたいということです。
一例をあげると、こういう記述部分がありました。1994年の中で「ストイコビッチ選手、雨中の試合でエンターティナーとスーパープレーを同時に披露」という小見出しをつけたところです。これは、ストイコビッチ選手が水たまりで水泳ぎのようなポーズをしたプレーと、リフティングしながら30mぐらいを全力疾走したプレーが同じ試合であったという記録です。

それを、文字でいろいろと表現していますが、こんなものは動画を見てもらえば一目瞭然です。動画にすると水泳ぎの部分は5秒ぐらい、リフティングの部分もせいぜい10秒ぐらいです。それぐらいの動画ですと、あまり重くなりませんので、動画をつけることにしました。

動画を作成するのも手間がかかりますので、ある程度まとまった作業が必要になりますが、これが出来れば格段に楽しい「ヒストリーパビリオン」になると、いまからワクワクしています。

話が脇道にそれましたが、いろいろな事柄の書き込み作業の中で、「ところで、この部分は「日本サッカー協会百年史」ではどう記録されているのか」と確認したくなりました。
「日本サッカー協会百年史」は25000円もする高価な書物ですから、当「サッカー文化フォーラム」のような、収益基盤のないところでは備え付けられません。

日本サッカー協会には閲覧可能な資料室のようなところがなさそうですので(もし閲覧可能な仕組みになっているようでしたら、どなたか、ぜひお知らせいただければと思います)、国立国会図書館に出向いて閲覧しました。

日本サッカー協会のホームページによると752ページにもなる大著ですので、読み応えがあります。今回の閲覧では、とりあえず1986年前後から1995年前後まで約10年分を読んでみましたら、それなりに新しいことがわかり、やはり読んでみないとわからないものだと、つくづく感じました。

その「百年史」には、1996年がちょうど創立75周年で盛大に記念式典も行ない「75年史」も刊行したとありましたので、今度は75年史も読みたくなりました。国立国会図書館では見当たりませんでしたので、帰宅してからネットで調べましたら中古品が販売に出ていましたので、購入しました。

こちらも430ページの大著です。読み比べてみてわかったのは、内容構成が微妙に違う点でした。どうしてだろうと考えてみたら、編集メンバー、販売元とも違っていて、おそらく、それが影響しているためだと感じました。

「75年史」は販売元がベースボール・マガジン社、執筆メンバーにはサッカーマガジン、サッカーダイジェストの編集メンバー、あるいは新聞記者さんが多く名を連ねています。
一方「百年史」のほうは、販売元が出版文化社という会社で、執筆陣も多様な方々で構成されています。やはり「Jリーグ」スタートによって、日本サッカー協会が関わるべき内容が飛躍的に広がったことがよくわかります。

「75年史」の刊行直前には、2002年W杯の日韓共催が決まったばかりですので、まずそのテーマから入っています。内容構成の違う点をここでは細かくご紹介しませんが、一つ感じたのは、やはり日本サッカー協会の公式記録ですから、なかなかネガディブなこと、例えば当サイトの「伝説のあの年」でたびたび指摘している「あの時の協会の判断はそれでよかったのか」といったスタンスの記述がまったくといっていいほどありません。

そういう意味では「75年史」「百年史」は、あくまで歴史の表側だけを見る書物で、歴史の裏側までは見えません。「サッカー文化フォーラム」が目指しているのは、歴史の表も裏も全部見せます、ということです。そうでなければ意味がありません。

ただ、その期間を1986年から2002年程度までに限定せざるを得ません。1986年より以前は「75年史」「百年史」の内容で十分であり、2003年以降はネット等の普及で、当方にしかない資料・記録という希少性がなくなっているためです。

引き続き1996年から先の書き込みを進め、合間合間にショート動画を差し込んでいきますので、ぜひ楽しみにしていただければと思います。
2024年12月5日、賀川浩さんが99歳でご逝去されたとの報に接しました。1924年12月29日のお生まれだそうですから、それこそ、もう少しで100歳になられるところだったのに・・、です。

6日付の産経新聞によると「老衰のため」とありました。同紙には1979年に若き日のマラドーナ選手(ワイシャツ、ネクタイ姿)と握手していらっしゃる写真と、2019年3月、神戸で開催された日本代表vsボリビア戦のあと森保監督と握手していらっしゃる写真が掲載されていました。

2019年3月といいますと94歳の時のようです。ずいぶんお年を召されたようにお見受けする写真ですが、まだスタジアムに足を運ぶお気持ちをもっていらっしゃったということになります。

当「サッカー文化フォーラム」夢追い人は、賀川さんがFIFA(国際サッカー連盟)から日本人として初めて「FIFA会長賞」を贈られる前年の2014年8月に、神戸市立図書館内に開設されている「神戸賀川サッカー文庫」を見せていただくために訪問した際、賀川さんご自身も来てくださり面会させていただいたことがあります。

「神戸賀川サッカー文庫」を開設された神戸市立図書館の方、その文庫を支えていらっしゃる賀川さんのお仲間という感じのサッカー仲間の皆さん、「日本サッカー発祥の地」にふさわしい神戸に根づく分厚い「サッカー文化」の土壌、そこで90歳になろうかという高齢の方が、若々しく現役のサッカージャーナリストとして活躍されているご様子に接して、その時のことを2014年8月25日に、次のように書き込んでいます。

「この神戸市立中央図書館「神戸賀川サッカー文庫」の訪問でわたしが痛感したのは、サッカー資料の保存と広く利用していただく、一つのカタチが、すでに、ここにはあるんだなぁ、ということだ。
私が描いていたカタチがすでに現実にある。これは衝撃だったし、今後に光が見えた感じで、希望が湧いてくる訪問だった。
とにかく、辛抱強く保存・整理作業を続けていれば、きっと可能性が開けてくる。決意をあらたにさせていただいた。」

また翌2015年4月に東京・文京区の日本サッカーミュージアム(当時はJFAハウスという日本サッカー協会社屋内にあった)で開催されたトークショー「サッカー本事始め」に、賀川浩さんが、大住良之さんの進行で、牛木素吉郎さん、小倉純二さんとともに登壇されたのを拝聴したことがあります。

この時のことは2015年4月6日に、次のように書き込んでいます。
「登壇者4人の平均年齢が75歳以上、通常ならトークショーが成立しそうにない感じだが、なにせ、皆さん現役のサッカージャーナリスト。頭脳明晰、博覧強記、弁舌さわやかなトークに時間の経つのも忘れるほどでした。」

そして2015年10月には、日本サッカー協会の会議室で開催された「サッカー史研究会」に参加させていただいた。月例で行われているこの勉強会は、日本のサッカージャーナリストの大御所の一人、牛木素吉郎さんが主宰されているもので、私には敷居が高く入れない勉強会ですが、この日は、神戸から賀川浩さんをお招きして講演していただくということで、ふだんのメンバー以外にも門戸を開放してくださったことから参加できた会でした。

当「夢追い人」が、賀川浩さんの何に感銘を受けたのかといいますと、それは、賀川浩さんが70歳を過ぎても80歳を過ぎても90歳を過ぎても倦むことなく、ご自分ができることを続けられたという、その生き方です。

それまでの私は「そもそも自分は40歳代半ばにして、初めてサッカーの世界に関心を持ち、次第に魅せられ、最後には自分の生涯のライフワークにしようと始めた『サッカー文化フォーラム』の取り組みではあるものの、いつまで続くのか、いつまで続けられるのか、終わりの見えない暗い道を歩いているような60歳代半ばの年寄り」という気分でした。

けれども賀川浩さんは、初めてお会いした時にすでに90歳を目前にしたお歳、賀川浩さんから見れば息子の年代にあたる人間が「自分は年寄り」などと考えていることを、さぞおかしく思われたことでしょう。

当「夢追い人」も、目が覚めた思いでした。すでに当時、サミュエル・ウルマン作の「青春」という詩があるのは知ってしました。
「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を云う。(中略)ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない 理想を失うとき初めて老いる。(中略) 頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春にして已む(やむ)。」

この詩を言葉ではわかっていても、なかなか自分のこととして考えるところまではいきませんでしたが、この詩をまさに体現されているのが賀川浩さんであり、私も賀川さんを範として、この詩を事あるごとに口ずさみ頑張っていきたいと考えたものです。

また賀川浩さんからは当「夢追い人」の取り組みに対する大きな示唆もいただきました。それは、
「これから先、デジタル社会になり、ほとんどの記録はネット上を通じて手に入るが、紙媒体やビデオテープ媒体といったアナログ記録でしか残っていない記録は、保存・継承の作業をしないとデジタル社会になっても手に入らない。保存・継承されないまま失われては永遠に残らない。そのことを考えればビデオテープ媒体のものをデジタル変換して残す作業には大きな意味があるので、頑張って欲しい」という言葉です。

すでに当時はデジタル社会、ネット社会に入っていましたから、当「夢追い人」も、自分のやっている作業に対する意味、価値を、ともすれば見失いがちになっていた時期でした。
その時に賀川浩さんが指し示してくださった明確な道筋「アナログでしか残っていない記録はデジタルに変える作業をしないことには記録として残せない」。

この教えが、いま、こうして「サッカー文化フォーラム」を続けられているエネルギーになっています。

こう書き込んでいる中、テレビでは2024年シーズンJ1最終節、首位神戸vs湘南戦が始まりました。なんとありがたいことに試合会場の神戸・ノエビアスタジアム場内に「ここで賀川浩さんの功績を讃え1分間黙祷をささげたいと思います。ご来場の皆様、ご起立の上、ご協力願います」というアナウンスが流れました。

当「夢追い人」も、それに合わせてご冥福をお祈りして黙祷を捧げさせていただきました。ささやかなことですが、この巡り合わせに、あらためてご縁を感じます。

先日、ネットに「ビデオテープが見られなくなる。2025年問題」という趣旨の記事が載っていました。それほど大騒ぎするような話でもないように思いましたが「ビデオデッキが入手できなくなる」とか「ダビングして保存する方法がわからない」といった困りごとが増えそうな気はしました。

当方は膨大なサッカー資料としてのビデオ映像を、数年がかりでデジタル変換して、今はもうビデオテープ再生の機会がなくなりましたが、ビデオテープをダビングしてデジタル保存するノウハウだけは残っています。

特に当方の場合は20年以上経過したテープの数量が多かったため、カビだらけになったものを除去する作業から始めて再生していましたので、かなりの時間と苦労がありました。

ネットの記事で感じたのは「そうか、今となれば、あの苦労が、困っている方の役にたつかも知れない」ということでした。
当方の場合、サッカー好きの方がこの書き込みを読んでいらっしゃると思うので、基本的にはサッカーの映像記録のダビングに絞るつもりですが、サッカー好きの方がご家族のビデオを持っているとか、他のスポーツの映像を持っていることもあると思います。

もし、ビデオテープの中身のダビング、デジタル変換でご相談したいと思っていた方がいらっしゃったらご相談受付から始めます。

以上、お知らせいたします。