4月15日 日曜日に参加した
TRYあんぐるウォーク
(近鉄・南海・阪神 三社共同開催)
浪速の文化を巡るウオーク
の続きです。
大阪城 桜門をくぐっていきます
本丸の正門で、豊臣時代からも、桜門と呼ばれていたようです
徳川時代に造られた桜門は、寛永3年(1626)に造られましたが
こちらも、明治維新の大火で焼失しました。
現在の門は、明治20年(1887)、大阪鎮台によって再築されたもの
桜門枡形という場所で、目の前には、とても大きな石がありました。
ちょうど記念撮影している人が立っているので、その大きさがわかる
と思います
この石は、蛸石と呼ばれ、およそ36畳敷(60㎥)、重さ推定約130tと
城内で一番大きな石です。
奥に見える石も、巨大で振袖石と呼ばれています
こちらは、およそ33畳敷(50㎥)、重さ推定約120tと、3番目の巨石で
いずれも、備前産の良質花崗岩です。
城の本丸に似つかないヨーロッパ風の建物でした。
この建物は、昭和6年(1931)に、第4師団司令部庁舎として建てら
れたもので、戦後は大阪府警本部として使用されました。
昭和35年(1960)に,内部を改装して大阪市立博物館として、平成
13年(2001)まで使用されてきました。
現在は何も使われていないようで、中にも入れません。
大阪市のシンボルで、現在の建物は、
昭和6年(1931)、市民の熱意によって復興されたもので、館内は
博物館「大阪城天守閣」として公開されています
西側には、西の丸庭園を望むことができました。
ここから見る、天守閣も素晴らしい景色でした。
山里口出枡形から右に曲って下り坂になります。
その先の広い場所が、山里丸と呼ばれる場所になります。
その中に、刻印石広場がありました。
刻印石とは、石垣に使用している石で、誰が寄進したのかわかる
ように、印をつけた石のことで、ここでは、その刻印石が集められ
ています。
どうしても訪れてみたかった場所があり、
山里丸を、もう少し奥へと進んでいきました。
慶長20年(1615)5月8日、大阪夏の陣で、徳川軍に追いつめられ
大阪城主 豊臣秀頼、母 淀殿をはじめ主従約30名は、落城直後の
大阪城で自刃しました。
その場所は、諸説ありますが、山里丸の一画にあった櫓であった
記録が多く残っていて、平成9年(1997)に、この記念碑が建てられま
山里丸から石段を下っていくと、ここも枡形となっていました。
ここも、大きな石が使われていています
その先には、極楽橋が架かっていました。
もともとは、幅3メートルの木造の橋だったそうです
この続きは明日です。