6月28日日曜日に開催された、JR東海のさわやかウォーキング
「東海道線全通120周年記念 織田信長公の夢を訪ねて」の続きです。
日本で最初の天守閣を持った安土城
織田信長が、天下統一を目標に、標高199メートルの安土山に
天正7年(1579年)に完成しました。
しかし、天守閣完成から、3年後、本能寺の変で信長公は自刃
混乱の中、この安土城は焼失、一夜にして落城しました。
そんな幻の名城 安土城址を、歩きます。
長くまっすぐに伸びる急な石段を上ります。
右側の石垣は、伝 前田利家邸の跡です。
そして左側は、伝 羽柴秀吉邸の跡となっています。
建物が4棟あったことが発掘調査により確認されています。
先に訪れた安土城考古博物館には、屋敷を復元した模型がありました。
右側奥の大きな石垣の手前に、右奥に通じる道があり進んでいきます。
大手道から外れて、すぐの所にも石段があり左へ続いていました。
信長公の菩提寺として安土城の築城の際に、他所より移築したもので、
現在の本堂は、安政元年(1854年)に焼失した際に、
伝 徳川家康邸跡に、仮本堂として建てられたものが現在に至っています
写真撮影できませんでしたので、拝観券のものでご覧ください。
信長公は、さまざまな肖像画などが残されていますが、
この像は、また違った感じのお顔立ちでした。
徳川家康邸の跡でいただく抹茶は、とても優雅な気分でした。
この先は、左方向へ続いています。
遠くに、田園を望むことができました。
さあ次へ進もうと思ったとき、ふと思わず、足元がとまりました。
一見わかりにくいですが、微かに仏様の形が浮かび上がっています
しかも、この石仏、足を踏む石段の一部になっています。
なぜ、こんなところに石仏が?と説明書きを読むと、
近隣の町や村から、築城のため石材が集められ、その際に石仏も石材として供給されたそうです。
思わず手を合わせ、よけて通りました。
直線に伸びる大手道を望みます。
というより、崖のようです。
右が天守閣へ続く道、まっすぐは、上った帰りに進む道です。
ここは、一段一段幅があって、歩幅のペースが合わないため
左端の路肩を歩いたほうが楽でした。
黒金門跡です。
石を二つに割り、割った平らな面を下にして積み重ね。
隙間に小さな石を入れることにより、頑丈で、高層建築を可能にしたといわれています。
お寺によくある石ですが、これも築城のために供出されたもので、
発掘調査中にでてきました。
どこのお寺にあったものでしょうか?
黒金門から、少し入った二の丸跡にあります。
二の丸は、天守閣を失った安土城が、
その後ここを中心として、しばらく機能していました。
草に埋もれていますが、礎石が見られ、本丸御殿があったことを物語っています。
周囲の状況から、建物が密集していたものと思われます。
その周囲は、背丈ほどの石垣がずらりと取り囲んでいます。
この部分は、穴蔵という地階部分にあたり、その上に絢爛豪華なな天主が建っていました
遠くに霞んで琵琶湖が見えますが、築城当時は眼下に琵琶湖が周囲をかこみ
南方のみ開けた地形でした。
しかし、金色に輝く天守閣最上階の景色は、いったいどんな景色だったのでしょうか
左が、上ってきた大手道、右が、これから進む道です。
摠見寺三重塔です。
甲賀の長寿寺から信長公が移建したものといわれています。
その三重塔の近くに、焼失した本堂がありました。
そこからの景色です。
まるで、中国の水墨画のようです。
二王門が見えてきました。
安土城跡には、当時の建物として、三重塔と二王門が残っているのです。
大手道と違い、森の中にあって、日差しが遮られているが救いです。
石段は、途中で通行止めとなっていて、山道を大手道の方向に向かって歩いていきます。
行きに上った大手道の石段は、やっぱり、すごいですね~(^o^;)
さて、ここ安土城址を出て、ゴールまでの間も見所いっぱいです。
その様子は、明日のブログへ続きますヽ(゚◇゚ )ノ