こんにちは。
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を鑑賞しました。
とても良かったので、久々に感想と考察を投稿します。
ネタバレありです。
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まずはあらすじから↓
かつてスーパーヒーロー映画「バードマン」で世界的な人気を博しながらも、現在は失意の底にいる俳優リーガン・トムソンは、復活をかけたブロードウェイの舞台に挑むことに。レイモンド・カーバーの「愛について語るときに我々の語ること」を自ら脚色し、演出も主演も兼ねて一世一代の大舞台にのぞもうとした矢先、出演俳優が大怪我をして降板。代役に実力派俳優マイク・シャイナーを迎えるが、マイクの才能に脅かされたリーガンは、次第に精神的に追い詰められていく。
(「映画.com」より)
この作品は大衆文化と芸術文化の対立構造を描いているのではないでしょうか。
ただその描き方が皮肉に溢れており、見ていてクスッと笑える半面、
映画を愛するファンとしては笑えなくもあり、それが面白いところでもあると思います。
本作の中で、「バードマン」に代表されるハリウッド映画は、俗物的な大衆迎合文化として描かれます。
対してブロードウェイをはじめとする舞台演劇は、ホンモノの芸術文化として描かれます。
(この構造もまた皮肉っぽく描かれるので、「本物」ではなくあえて「ホンモノ」と記します)
主人公のリーガンは超能力が使えます(という妄想に取りつかれています)。
ここでの超能力は「過去の栄光」のメタファーかと思います。
(超能力はバードマンの力だと推測できるため、バードマンの幻覚幻聴もまた「過去の栄光」のメタファーでは。)
劇中、ロバート・ダウニーJr.が「アイアンマン」の続編についてインタビューに答えるニュース番組(=現在の流行=大衆迎合)を見て、
リーガンが超能力(=過去の栄光)でテレビの電源を切るシーン。
どの業界でもベテランは勢いのある若手を見て見ぬフリしてしまうものなのでしょうか。
「昔はこうだった」「俺の時代はそうじゃなかった」なんて言いたくなるのでしょうか。
にしてもこの「アイアンマン」のように、大衆に受け、Block Buster(=超大作)になり得る作品は総じてアクションかSFが多い。
本編の途中でバードマンもささやきますが、やはり皆が簡単に目を輝かすのは派手なCGを使ったアクションなのです。
その潮流に釘を刺すのが舞台側の人間。本編にも、映画人を毛嫌う女性舞台評論家が登場します。
彼女は舞台こそ本物の芸術であると主張し、ろくに演技の勉強もしていない映画俳優を見下しています。
(個人的には、この主張は部分的には間違っていないと思いますが…。)
辛口舞台評論家と元映画スターの主人公がバーで口論するシーンは、この映画の本質を言語化しているようでした。
評論家の主張は上述の通り、対して主人公のリーガンは、彼女の書く批評に全く中身が無いと批判します。
僕はどちらの主張も間違っていないのではないかと思います。
結局動員数で比べると映画の方が多いだろうし、何を持って「本物」と言えるかはわからないし、
舞台側だって本物気取りなだけで中身が無いこともままあるのではないでしょうか。
細かい点ですが、舞台となる劇場の向かいでは「オペラ座の怪人」の公演が行われており、その広告がよく映りこみます。
結局ロングランで公演されている舞台も、大衆に受ける「ミュージカル」という点もこの作品の皮肉ですね。
いずれにせよこの「本物志向」が物語を大きく動かしていきます。
バーでの口論の後、ついにリーガンは舞台本公演の初日を迎えます。
しかし舞台ラストシーンで自殺する場面、「本物」の拳銃を使用し、自らの鼻を吹き飛ばす事故を起こします。
事故の直後、バーで口論した評論家はこの舞台について、「超現実(Super Realism)という新たな芸術を生んだ」と称賛しました。
これは本物志向を過激に表現した皮肉だと僕は捉えています。
だって実際そんなことが起これば放送事故だし、その後の公演はキャンセルされるに決まっている。
でも映画の中ではこれを褒めたたえることで、行き過ぎた本物志向の、盲目的な行く末を示唆しているのではないでしょうか。
鼻を吹き飛ばしたリーガンはなんとか一命をとりとめ入院することに。
高々とした天狗の「鼻」が無くなったのか、過去の栄光とは決別できそうな予感。
そしてラストシーン。
空を舞う鳥の群れを見て、病室の窓に足をかけるリーガン。
見舞いに来た娘が部屋に入ると父の姿は無い。
トイレを覗いても窓から階下を見下ろしても見当たらない。
しかし空を見上げるとーー。
娘の笑顔とかすれた笑い声。直接的な描写はないものの父が超能力を使い宙を舞う姿を見たのでしょう。
ただ前述のように、主人公の超能力は彼の妄想であり現実ではありません。
行き過ぎた本物志向の末に生まれた演出を評論家が「超現実」名付けましたが、
Super Realismという英語は、「非常にリアルである」という意味とは別に、「超常的」とも読み取れます。
この意味にかけたオチがこのラストシーンであり、
超常ではない現実で彼がどうなったのかは、本編を見た方の想像力に委ねられます。
このように、この作品は「映画=大衆文化」と「舞台=芸術文化」を映画の中で戦わせているように見えました。
またその中で、映画としては芸術的に評価される長回しのワンカットを多用していますが、
舞台自体は長回しのワンカットそのものである点もまた興味深いプロットです。
そこにスパイスを利かせているのがSNSの存在であり、結局動画の再生数が影響力を持つように語られる劇中のセリフが、
「映画vs舞台」の戦いを残酷かつ圧倒的に呑み込んでいきます。
そして実際過去に「バットマン」を演じたマイケル・キートンの起用は言わずもがな、
普段はコメディ色が強いザック・ガリフィアナキスを真面目な役で起用しているのも、
「映画俳優だって演技ができるんだぞ!」と声高に主張しているようです。
そして『ファイト・クラブ』や『アメリカン・ヒストリーX』といったブロックバスターに出演し、
その後目立った作品への出演が無いものの演技派ではあるエドワード・ノートンを起用している点も良いですね。
ここ最近僕自身も思っているのですが、ヒットする映画はわかりやすい作品ばかりで、
考えさせられる作品や色んな意味で尾を引く作品がなかなかヒットしていません。
ネットで高く評価される作品だけ見て、ネットに投稿されているようなそれっぽい感想をSNSに上げて、
それで映画文化は育つのでしょうか。映画を観る目は育つのでしょうか。
何が本物かは個人の感覚次第ですが、文化は大事に育てていきたいものです。
