惑星アサム・ムタヤ。大型単孔類が闊歩する水の惑星。
この星を模した居住エリアが、オキタの故郷。銀河統合軍の士官だった両親は、彼が幼い頃から家を留守にしがちだった。同じフロートに住む、17歳上の女性がよく世話をしてくれたのを覚えている。彼女は少し影のある、髪の長い綺麗な人だった。タニキァを初めて見たとき、長い髪と物憂げが表情が記憶の底の彼女と重なった。彼の初恋はこの近隣の女性だったのかも知れない。
ある日を境に、女性はオキタの前から姿を消した。誰かとペアになって別の居住エリアへ行ってしまったのだと、子供ながらに理解した。悲しくなかったと言えば嘘になる。しかし子供の時間は早く過ぎるもの。初等教育を終了する頃には、彼女との日々は思い出の1つになっていた。
あの場所を通るまでは…
「オ…キ………」
誰かに呼ばれた気がして、友人と歩く足を止めた。気のせいかと、先を行く友人たちの元へ駆け出そうとしたとき、再び声が聞こえた。
「オキ…タ…ちゃん…」
セントラルフロートの雑踏を突き破って、はっきりと聞こえた。聞き覚えのある声。聴力を拡張すると微かに聞こえる、乱れた呼吸音。デヴァイスが聴力をさらに拡張する。呼吸音の発信源は右前方、大きな建物の向こう側。発信源周辺の生体反応は1つ。
誰かが呼んでいる。そう思うより早く、向こう側へと続くであろう、わずかな隙間に足を踏み入れていた。隙間の中は異様なほど静かで、聞こえてくるのは誰かと自分の呼吸音だけ。少しでも足を止めると、外の世界から隔離されてしまったような不思議な感覚に襲われる。なのに隙間は奥へ行くほど狭く、湿ったホコリが汗ばんだ腕にまとわり付いて不快だった。
前から流れてくる空気が変わったのを肌で感じ、デヴァイスに「再起動」を指示した。再起動は子供の発育中だけアクティブになる限定コマンド。発育中の脳とコネクトするデヴァイスは、再起動に少し時間がかかる。これから見るものを他の人に知られてはならない。オキタ少年はなぜかそう思った。
呼吸音が間近に聴こえる。隙間の終点から少しだけ見える、灰色がかった半透明なドームの端。ドームの中で蠢く、何かの気配。あと一歩踏み出せば正体が分かるのに、足が動かない。両足とも、まるで地面に埋まってしまったかのよう。呼吸音だけが唯一の静かな世界が、背後からじわじわと侵食する。
「オ…キタ…ちゃ…ん……」
呼吸音と同じクリアさで、女性の「肉声」が聴こえた。デヴァイスを介さない声の不思議な引力は、深々と埋まっていたはずの左足を動かした。隙間の終点と隔離世界を抜けた視界が、ドームの全てを捉える。
不明瞭なドームの中で、こちらに丸い背を向けて「何か」に覆い被さる、二足歩行と思しき、まだら模様の大きな生き物。頭を下げたまま一心不乱に手を動かし、何かを食べているよう。しかし咀嚼音は聞こえない。というより、動く生き物から発せられるべき、一切の音がない。動作から食べていると判断しているだけで、本当に食べているのかすら定かではない。
位置を変えた生き物の股下から、「何か」の一部がぼんやりと見えた。赤い斑点が三角形に並ぶ、白い塊。地面の色とは違う、黒い広がり。生き物の動きに合わせ、黒い広がりがふわりと形を変えた。そして、一番大きな斑点が柔らかく歪む。
「あ、あぁ…、ぁぁ……、オキ…タ……ちゃ……」
大きな斑点が歪むたび、あの声が聞こえた。
全てを理解した。何かが「人」であることを。その人が「彼女」であることを。思わず閉じた瞳の中で、彼女の長い髪が揺れた。
「…きぇ…し…ぅ…ぇに……あぇ………、よかっ………。…私の………」
そこまで言ったところで、弓形に歪んだ斑点は動かなくなった。同時にまだら模様の生き物も忽然と姿を消した。遮るものがなくなり、ぼんやりと全体を表した彼女は、人として形を成していなかった。けれど、残された白い両手脚と頭が、彼女の存在を肯定する。恐怖も、不快さも、悲しみも、怒りもなかった。彼女を抱きしめてあげなければ、その一心でオキタ少年は右足を踏み出した…
「おい、オキタ!大丈夫か!」
『神経接続が完了しました。再成形部位の完全定着まで、カウント4762。コールドスリープを解除します。コアヒーティングシステム起動。
ギャラクシーネットワークアクセス…、ロスト。フィジカルコミュニケーションユニット起動。外付け音声ユニット起動。ローカルコミュニティへ参加します。』
オキタの視界が、上下逆さまに覗き込む赤ら顔のモントリーヴォをくっきりと捕捉した。上半身を起こそうとするオキタの頬に、ケルラの声が当たる。
「起きて大丈夫なのかね?」
小さすぎてオキタの視界に入らなかっただけで、当然ながら当事者のケルラもいる。オキタは応える代わりに、機敏に万歳すると、両手を握ったり開いたりしてみせた。少し大袈裟な動作は健常さのアピールなのだろう。
「よく馴染んでる。やっぱ自分の身体を使うと治りが早い。2人のおかげだ。」
横にちょこんと体育座りするケルラが、オキタの顔をまじまじと見上げる。オキタには申し訳ないが、彼の表情は非常に分かりづらい。笑っているのか、泣いているのか、はたまた、悩んでいるのか。どれに分類するかの街頭アンケートを行ったなら、「笑顔」が最多票を獲得しそうではある。
「強がりは良くないよ。」
「いや、これは、まだ『表情』に慣れてないだけだ。」
オキタの言葉は真実である。表情は、声でコミュニケーションを行うようになってから獲得したもの。爆発的な感情が伴うケース以外は、コミュニケーションアイコンを元にした表情筋操作を、これまでに取得した表情データで補正し、表情を作っている。アイコンそのままの表情だけだと、振れ幅が大きすぎて、異常者に見える、ということを初日に学習した。
「ふーん。でも、うなされてただよ?」
「そう…だったのか。身体は熱かったか?」
「ぜんぜん。死体みたいに冷え冷えだっただね。」
「なら、君の思い違いだ。」
「なんでだね?」
「オレは正常にコールドスリープ中だった。」
「意味が分からないだよ?」
「コールドスリープ中は仮死状態と同じだ。不要なアクションは抑制される。」
「おいおい、何言ってんだ。そもそも俺がお前を起こしたのは、うなされてたからだぜ?」
几帳面に畳まれた制服を手に、モントリーヴォが2人の会話に背後から割って入る。オキタが上半身裸なのを気遣ってのことだろう。制服を受け取る寸前でピタリと手を止めたオキタは、自身へのドッキリを疑い、とても上手な怪訝の表情で2人に問うた。
「アホか。病み上がりにドッキリなんか仕掛けねえよ。
変な声を出しながら、手足をバタバタさせてたぜ。くっついたばっかなのに、また取れるんじゃねえかと思って起こしたんだ。疑われるんなら動画を撮っときゃよかったぜ。」
「…無理だね。持ち主が変態だから、MINAは寝てる人を撮れない設定にしてあるだね。」
それを聞いたモントリーヴォは、ジョロキアパウダーが鼻に入ってしまったときと同じ顔で制服を投げ捨てると、体育座りするケルラに飛び掛かった。思いのほか遠くまで飛んだ制服が、グシャリとだらしなく転がる。
『あらやだ。ケルちゃんたら、モンちゃんに言ってなかったのぉ?新機能の奥様権限でロックしたのよぉ。』
「俺はそんな権限知らねえぞっ!?」
「知らなくて当たり前だよ。奥様権限なんだから教えるわけないね。まったく。変態の旦那を持つと苦労する、だね!」
今の状態をAI画像診断にかけたら、#父親に高い高いされている子供、とタグ付けされるであろう「超幼妻」ケルラが、頬を膨らましてフイと横を向いた。
モントリーヴォとケルラは数年前から「事実婚」の関係にある。現在は別居中。ベアトリスが驚いたのは、2人が別居中だったため。これまでの器の婚姻関係は別として、ケルラ自身は初婚。モントリーヴォは2度目だ。噂によると、2人にはまだ乳飲み子の息子がいるらしい。
10年前の戦火で不幸にも妻と娘を失ったモントリーヴォは、死地を求めアメリカへ向かう途中、この地でジャングルに暮らす孤独な少女と出会う。この時出会った少女が、2つ前の器に寄生していたケルラである。少女はモントリーヴォに、自分は戦争孤児だと言った。汚れた顔で健気に笑う少女に、失った我が子を重ねるのは必然だった。そこから2人の奇妙な生活が始まる。ベアトリスに2人の馴れ初めを聞かれたケルラは、「出会った頃は今の何倍もうざくて、毎朝、今日こそは食ってやると思ってただね」、と真顔で語った。
これは、どんな制服でもだらしなく着こなす天才、オキタの言葉。羽織った上着を開けっ広げたまま、疲れた感じに目頭を押さえ、何度も首を振る。繰り返される深いため息。まるで負の感情を吐き出しているかのよう。
「おいおいおいおい!そりゃねえぜ、オキタ!
確かにカミさんはこんなんだけど、俺はロリコンじゃねえからな!変身後の姿が本当なんだって!お前も見たろ?ぶった斬られたろ?」
小脇に抱えた幼女を「妻」と呼ぶ姿は、誰がいつどこで見ても、例えかなり遠くから見たとしても、ロリコンである。
「そんなことはどうでも良い。
あり得ないのは、コールドスリープ中のアクションの方だ。短時間にコールドスリープを繰り返したせいで、制御に深刻なエラーが出ているのかも知れない…。」
全てはデヴァイスの再起動中に起こった記憶の混濁。そう理解していたはずなのに、あのとき聞いた声も、前を向いて隙間を進んだことも、腕にまとわりついた埃も、そして彼女の姿も、未分類のログとして手元にある。ログの日付はちょうどあの頃を示している。全てが現実だった証。ケルラたちの言う「うなされていた」時間に、脳の記憶領域から自分で発掘したのだろう。けれども、その意味を理解できないでいる。
「脳みそが全部機械ってわけじゃねえんだろ?」
「そうだが、万が一ってことも…」
「気にすんな!自分の思った通りに身体が動くなら問題ねえ!脳みそってのはそんなにヤワじゃねえよ。」
「モンの言う通り、だね!難しいこと言ってても、SNSのラスボスみたいなもんだね!
デヴァイスにあるから、デヴァイスが言ってるから。さっきから、デヴァイス、デヴァイス、うるさいだよ。じゃあ、デヴァイスがオキタさんの記憶を書き換えてたら、どうなんだね?」
「なんて横暴な。そんなわけ…」
「きっと脳が訴えてるんだね!本当の自分を取り戻せ!だよ!」
「…本当の自分…。」
窓ガラスに薄らと映る自分が、一瞬だけノイズを浴びたように見えた。自分を見つめる自分は、本当の自分なのか。シンプルな問いにも関わらず、デヴァイスは答えてくれなかった。
「青少年がやるような自分探しはこのくらいにしてよ、元気になったなら本題に入らしてもらうぜ。MINA、さっきのリストを表示してくれ。」
モントリーヴォの合図で、壁にリストが投影された。投影されたのは、全部で26体にもおよぶヴァンパイアたちの名前。現代人にとっては信じがたい名がいくつも含まれており、なぜか全て名前の横に1以上の数字が記されている。
「こいつは、お前とリンクするヴァンパイアのリストだ。悪いと思ったんだが、ケルラに頼んで寝てるお前の素粒子を追跡してもらった。このうち俺らが知ってるのは、ドラキュラ、ララ、コレオス、ヴィースト、ケルラ、の5体。」
「人の素粒子は色んな情報を持ってるだよ。あたしみたいに解読できる人は何人かいて、解読できる情報は人それぞれ。お姉ちゃんとこのレメディオスも、有名な解読者、だね!」
オキタから出るであろう質問に対し、モントリーヴォが先手を打ち、ケルラが補足した。モントリーヴォはさらに言葉を続ける。
「オキタよ、お前の仲間は全部で何人だ?」
「アダモレアルの乗組員はオレを入れて43人。」
答えを聞いたモントリーヴォから、怪訝な顔を向けられたケルラは、ちゃんと確認しただよ、と何かを否定した。
「それじゃあ、オキタ。次はここを見てくれ。名前の横にある数字だ。全部を…」
「使用回数1なら、和は33、積は72…、もっと続けるか?」
驚くモントリーヴォにオキタは、視界が捉えた数字は自動計算される、と言い掛けたのを飲み込み、代わりに、アダモレアルの乗組員のうち、15名のアバター機能が損傷していることを伝えた。
「…んなら、有効数は28人か。5人を足せば33…」
そう言ったモントリーヴォは、どこから取り出したのか、毛糸の塊を左のもみ上げがあった場所にペタリとつけてから、最高の笑顔を2人に向けた。対して、幼女らしかならぬ神妙な面持ちでうなずくケルラ。一方のオキタは、だからどうした、と言わんばかりの顔。
「この数字は、重複数。つまり3が付いてる『ラタトスク』は3体いるってことになる。」
「なるほどな。けど、アバターとヴァンパイアの同一性証明を続けるつもりなら、もう不要だ。実際に戦ったオレは、充分すぎるくらい理解してるよ。」
「そんなレベルの話じゃねえんだ!お前にゃ分からねえかも知れねえが、こいつはとんでもないことなんだぜ!?」
モントリーヴォの言葉に、廃屋を出ようとするオキタを止める力はなかった。しかし、裾を掴む小さな手はこの大男を止めるに足る。
少し力を入れれば簡単に解けてしまいそうなほど小さい手なのに、うつむくケルラを見たオキタは、どうしても裾を引っ張ることができなかった。
「いるはずない、だよ…。
レヴェナントも、ラタトスクも、10年前に消えてる。残ってるのはミュータントたちと、あたしたち直系だけ。
モンから知らないヴァンパイアがいるって聞いたとき、嬉しかった。MINAには、全種類のミュータントをインプットしてあるから。
その子がレヴェナントだって分かったとき、本当は叫び出したいくらい嬉しかった…。」
幼女の発した、か細く、震える声が、静かな廃屋を満たしてゆく。騒がしいはずの自然から、この廃屋だけが隔離されてしまったような感覚がオキタを襲う。次第に小さくなる周囲の音に反し、ケルラの声と自分の呼吸音だけが支配権を得て空間を侵食する。
裾を掴まれた足が動かない。下ろした視線の先で、小さな笑顔が涙に濡れていた。弓形に歪んだ赤い唇。
笑顔を飾る長い黒髪が、ふわりと揺れた。
「オキタさんは、消えてしまった子を連れてきてくれた…。あたしが消えてしまう前に、オキタさんに会えて、よかった…。」
どんなにしゃがんでもまだ小さくて、まるで幻のような彼女を、オキタは今度こそ離すまいと必死に抱きしめた。
つづく
この後オキタは、モントリーヴォにめちゃくちゃ蹴られたと思う。