〜坂本明日香〜

 

 京都市内を南北に走るメインストリートの1つ、烏丸通は北大路通と交わる交差点の上下、つまり南北で様相をガラリと変える。北大路通を超えると急に片側1車線へと幅員が減り、今宮通とぶつかる終点まで信号すらない。
 烏丸通と今宮通がぶつかるその角に、息子、健人の通う保育園がある。自動車は大変だろうが、歩行と自転車メインの俺としては、地下の北大路駅からショッピングセンターを北に抜ければすぐの立地なので、暑さ知らず、寒さ知らずでありがたい。
 通りの向こう側にある門まで移動する道すがらエントランスを覗くと、担任の先生のトレードマークである水色のエプロンが見えた。

「遅れてすまん!出がけに捕まってもーて。」

 門扉上のまどろっこしいロックを外し、飛び込むようにエントランスへ駆け込んだ俺は、水色の女性に遅刻を詫びた。

「ケンちゃん、ほらぁ、パパきたよー。」

 水色の女性の大げさな呼びかけに、仏頂面の息子が水色のエプロンを掴んだまま無言で頷く。てっきり保健室で寝てるとばかり思っていたので、正直拍子抜けしてしまった。

「ケントお待たせ!お熱出たんか?」

 駆け寄ってきた健人を抱き上げ、小さな丸っこい額に、脂っぽいおっさんの額をつける。熱はそこまで高くないようだが、息子は力強く頷き、発熱を肯定している。

「そーか、そーか。しんどかったやろ。もう大丈夫や。ゼリー買うたるからな!」

 息子は再び頷き、ゼリー購入に強く同意した。
 健人は滅多に喋らない。喋るのは月に1回。決まって満月の夜、月を見て「きれい」と言う。日本語も英語も理解できるようなので、精神的なモノが原因だと考えている。特殊な家庭環境の子だから、焦らず、息子のペースで行こうと決めた。

「明日香、世話かけたな。」
「ううん。あんね…、お兄。今日、他にもお熱出した子がおってね。」

 水色の女性は、坂本明日香。俺よりも4つ年下のはずだから今年で34歳。若作りの彼女も着実に「おばさん化」が進んでいる。嫌でも目につく胸のおばさん化がどれほどか、機会を得たら聞いてみようと思う。彼女は俺を「おにい」と呼ぶが血の繋がりはない。ただのニックネームだ。
 俺が9歳の時、ずっと無人だった隣家に明日香の家族が越してきた。後から聞いた話だと、この隣家は元々、彼女の祖父の家の「1つ」だったらしい。貸家に出していたものの何せ京都は学生が多い。平屋の1軒屋はなかなか引き合いがなく、息子夫婦が住むことになった、というわけだ。

「え!?インフルかも知れんのか?」
「あ、いや、そうやなくて…。お熱は、その…、あとで、メッセするわ。」
「おーけーおーけー。言いたい事は分かった。別にメッセ送らんでもええぞ。」
「まあ、いちおう、送っとく。…ほなケンちゃん、またね♪」

 友人から保育士の顔に戻った明日香は、仏頂面の息子をとびきりの笑顔で見送ってくれた。仏頂面ながら、息子が手を振り応えるのは彼女を信頼している証拠。心を許した相手以外に息子は反応を示さない。

「おしっ!ゼリー買うたらチャリやで!今日はホンマにさぶさぶいからな!おミミとおテテのポフポフあるか?」

 肩にヒシッとしがみつく健人の巻き髪が2度、俺の顎を柔らかく撫でた。両方ある、と言いたいのだろう。


「きれい。」

 息子の声に顔を上げると、薄暮れの空に月がまん丸く浮かんでいた。

「おー、今日は満月かぁ。綺麗やなぁ。」

 なぜ息子が満月にだけ言葉をかけるのか、理由は分からない。本人すら自覚していない記憶のなせる業なのか。
 結婚して間もないある日、晴れ渡った都の空に輝く満月を見た妻は、風に踊る髪をかき上げながら、ぽつりと呟いた。

「キレイ…。」

 それは、彼女自らが選んだ、初めての日本語だった。


「ほんま、綺麗やなぁ…。」

 これは、誰に聞かせるわけでもない、今の俺の独り言。
 想い出に似た、柔らかな巻き髪が古都の冷たい風に踊る。