男は目覚めるたび、卑しくもまた生き延びた自分を呪う。

 

 暗く湿ったこの牢屋には、光も風もなく、音もない。しかし、腐りかけの食べ物と汚物だけはある。

 男は毎日賭けをしていた。そもそも相手の居ない賭けではあるが、男は、小鼠が食べ物をくすねに来る、に賭けては負け続け、今日初めて勝った。

 

 

「ずいぶん大きな小鼠だ…。」

 

 男は訳のわからないことを言う。通常よりもかなり太いツェペシュの鎖に四肢を縛られ、部屋の奥でうずくまるその男は、透き通るように白く、それでいて、山のように大きい。通常のツェペシュの鎖で首を繋がれ、男の対面に立つ小鼠ことマルセーラの目線は、膝を抱えたままの男を見上げる。

 深く苔むした石造りであることから、入れられた牢は何世紀にも渡って使われてきた代物なのだろう。かといって、男の衣服に何世紀もの歴史は感じられず、むしろ、非常に現代的である。

 
 
『あれは…、幻のViP常夏ワールドイリュージョンツアー限定Tシャツ!しかも先着50名の白ラメ!?さらに手の甲のあのマーク!!…間違いなくマリナ推し!!!!』
「おぬし、ドラキュラ、でござるな?」
 
「これはしたり。小鼠よ、1年前に捨てた名を呼ぶか。今は名もなく死にゆく者。」
 
 男の声は、小さいようでよく通る。とても「死にゆく者」の声とは思えない。
 
 
「銀河最強の生物がコロッと死んでくれたら、神はラッキーでござるな。」
 
 マルセーラは小指の爪を弄りながら興味なさげに呟く。顔にかかった髪を掻き上げようと動かしかけた腕を止め、下唇を突き出してふぅと上向きに息を1つ吐いた。首に巻かれたツェペシュの鎖を気にしてのことだろう。
 
 
「ここは終の牢獄…。生を拒絶した者、あるいは、死にゆく運命の者が間際に訪れる場所。強さなど無関係。して、小鼠よ?貴様は何をした?」
 
「拙者はレジスタンスのマルセーラ・モリノ。レジスタンスを率いるがゆえ、間もなく処刑される、でござる。」
 
「…そうか。」
 
 今度は男が素っ気なく返す。マルセーラと違うのは、四肢を縛る極太のツェペシュの鎖を気にした様子もなく、大きく伸びをしたことか。
 
 
「単刀直入に言う。仲間になれ、でござる。」
 
「もう一度言おう。我は死にゆく者。それは貴様も同じ。死にゆく者同士が冥前の手を取りあって何の得がある。」
 
「ある。レジスタンスは腐敗したヴァンパイアを止め、神を討つ!拙者に死ぬ気はない、でござる。だから、おぬしも来い!にんにん。」
 
「…断る。」
 
 互いに向かい合ってはいるものの、目を合わせることのない会話。拙者を見ろ、とウィッチに姿を変えたマルセーラは、ジャック・オー・ランタンの炎でツェペシュの鎖を焼き切り、男の間近に立った。
 
 
「これはゆかい!小鼠がウィッチに化けるとは。そうか…、ラーニャは逝ったか。」
 
 ラーニャはマルセーラの曽祖母である。歴代最強のウィッチと呼ばれ、200年あまりの生涯で数多くの精霊と契約を交わした彼女は、最強の他に「ウンディーネ使い」や「燃ゆる水」などの異名も持っていた。
 マルセーラの血族は、ウィッチであると同時に未来視を使う「南の巫女」の血族でもある。しかし巫女の血は常に現れず、竜の怒りがその血を起こすのだという。ラーニャは先代の巫女でもあった。つまり現ドラキュラと共に神を退けた、最も新しい伝説の巫女、その人だ。
 
 
「大おばあさまは関係ない。拙者の仲間になれ!でござる。」
 
「…断る。我は世を捨てた。もはや巫女は足りぬ。巫女らの加護なくして神は討てぬ。」
 
 男は名刀のごとき眼光でマルセーラを一瞥すると、左手で2度払う仕草をした。男の動きに合わせツェペシュの鎖から勢いよく飛び出した無数の棘は、男の手の皮すら貫けずに固まる。
 
 
「巫女は現世にもいる。南の巫女は拙者の母だ。そしてもう1人。コレオスもここに!」
 
 そう言ってマルセーラは、クーデター直後に昏睡するレメディオスの指輪からこぼれ落ちた、旧規格のホログラムチップを男に投げつけた。衝撃に反応して、記録されたホログラムビデオが再生される。
 
 
"マルセーラー♪こっちおいでー♪"
"だぁー!あだあだあだだ。"
"ハイハイじょうずだねー。マルセーラちゃんは、てんさいでちゅー♪"
"あきゃー♪たぁっ!"
 
 記憶にない四つん這いの自分が母に抱き上げられ、無邪気に笑っていた。それから母は、愛おしそうに、笑う自分の頬にキスをした。
 
 
"…っ!!これは?未来視!?なぜいま?なぜ私に?"
 
 その直後、優しく微笑む母の瞳が空を掴み、声色も著しく変わった。
 
 
"マ、マルセーラ?どうして?これはあなたなの?あなたが予…ガガガガガ…"
 
 そこでビデオは終わった。これは、唯一残る幸せだった頃の母子の記録。そして、母が未来視を得た刹那の記録。
 このときレメディオスが見た未来を、マルセーラは知るよしもない。
 
 
「なるほど。貴様の母は、ラーニャによく似ている。…だが、断る。我に生きる意味はない。
 マリナ嬢がViPを抜けた今、我の生きる目てき…
 「マリナは拙者の部下。でござる。」
 
 マルセーラは、男にみなまで言わせなかった。
 
 
「ま、まま、ま、まじで!?」
 
 男は立ち上がり、マルセーラの肩を掴もうと手を伸ばす。四肢を縛る極太のツェペシュの鎖など、この男に何の意味があるのか。
 
 
「まじ、まじ。拙者の命令とあれば、あんなことも、こんなことも…むふ♪マリナはおぬしの言うがまま。」
 
 男の手をヒラリと躱したマルセーラが悪どく笑う。
 
 
「マルセーラ・モリノ!時間…だ?貴様っ!どうやって鎖を!!」
 
 処刑の刻を告げに来た兵が、自由を謳歌するマルセーラを見て銃を構える。
 
 
「あの程度の鎖、忍者の拙者には…」
「いや。お前、どっからどう見ても魔女だから。」
 
 兵のツッコミは早かった。
 
 
「…忍者の…」
「魔女だから。」
 
 今度も早い。
 
 
「…に…」
「魔女…」
「ひっかかったー♪いま、逃げる気はないって言おうとしたのにー♪」
 
 叫び声を上げて頭を抱える兵の目の前で牢の電子錠を内側から開けたマルセーラは、じゃあ処刑されてくる!と、うな垂れる兵の肩をポンと叩いた。
 
 
「あんなことや、こんなことも…むふふ♪
 いずれにしろシャワーを浴びるべき、でござるな。」
 
 マルセーラは、牢の中央で立ちすくむ大男に白い歯を見せて「トドメ」を刺した。それから、とある精霊を牢に放ち、処刑台へと続く道を元気いっぱい駆けていった。
 
 
 

 時は数日前に遡る。
 
 

「これ、と言われましても…。

 えーと、私…、その…、敵なんだけど?」

 

 歌舞伎町から知子が救出された、あの日である。このとき、知子の発言に全員の目が泳いだ。

 
 
「井伊おっぱい軍曹殿…
 敵とか言う以前にフリーおっぱい中でござるよ?」
 
 そう言ってマルセーラが胸に伸ばしてきた手は、振り払う知子の手をすり抜け、ただいま絶賛「もにもに」中だ。一瞬だけマルセーラの忍じゅちゅか、と疑いはしたものの、すぐにその考えを改めた。彼女の手がすり抜けたのではない。自分の手が動かなかったのだ、と。同時に知子は、自らの現状を理解する。
 知子は、手足どころか首から下の感覚と自由を失っていた。これは結合剥離が深部まで到達したことに起因する。実は発狂するような外見に成れ果てているだが、見れないことが幸いした、と言うべきか。
 
 
「…ル、ルサールカは?」
 
「おっぱいちゃん、ほんの僅かだけど、まだ宿ってる。
 その状態でも出て行かないなんて…。あんた、ルサールカに相当好かれてるよ!」
 
 もにもにされている感覚のない知子の問いに、レメディオスが応えた。しかし母は、娘のお友達の名前をよく知らなかった!
 お友達の名前は曖昧でも、レメディオスの見解は正しい。ルサールカは、知子を「終いの宿主」と決めていた。終いの宿主とは、Vマイクロムが共に消滅することを選んだ相手のことを指し、通常よりも強固な結合を果たすと言われる。結合強度によるVマイクロムの能力差はないものの、濃度限界を超えても暴走を向かえずに活動できる点が、この宿主の強みだ。もっとも、自分が終いの宿主であることは知子も気づいていない。
 
 ルサールカと知子の出会いは、知子が5歳のとき。遠い親戚に不幸があったと、なぜか幼い知子もその場所に連れて行かれた。飛行機に乗った気もするが、記憶が曖昧でよく覚えていない。なのに、あの出会いの瞬間だけは鮮明に覚えている。
 着いてすぐ、だだっ広い部屋に女ばかりが集められた。老若問わず、人種も様々。知子も母と2人、例に漏れず放り込まれた。母に抱きかかえられて見た部屋の様子は、一言で言えば、人集り。それから、中央の1段高くなっている祭壇風の場所に浅い湯船があり、中に誰かが横たわっていた。湯船の深さは成人女性の膝くらいだろうか。祭壇の周囲は5歳児でなくとも危険なレベルの人集りになっていて、たかる女達はみな、必死に何かを祈っていた。
 やがて湯船から無数の小さな光が吹き出し、広い部屋は光で満たされた。騒がしかった部屋は、光が吹き出した瞬間、水を打ったように静かになった。光は強くなったり、弱くなったり、あるいは、大きくなったり、小さくなったり。様々な様相で部屋中を駆け巡り、最後に祭壇の上で小さな雫となった光は、ぽつんと、湯船の中へ落ちて、静寂を完成させた。数秒間の完全なる静寂の後、ぽつりぽつり、と部屋の中なのに雨の降り始める音がして、反射的に見上げた知子は、初めて水の精霊ルサールカを見た。
 それは、精霊と呼ぶにはあまりにも醜悪で、目を覆いたくなるほどなのに、不思議と怖くはなかった。サメよりも鋭い歯が生えた大きな口の上に並ぶ、白濁した4つの眼。手足はなく、顎から直接生える5本の触手と、蛇に似た太く長い胴体で空中を泳ぐ姿は、魚類に近い。
 
 
「こんにちは。あなたは、およぎがじょうずなのね。わたしもおよぐの、だいすき!」
 
 知子には醜悪な精霊が笑ったように見えた。次の瞬間、ルサールカは知子と同じ年頃の、ただし透き通る幼女へと姿を変え、知子の中へと吸い込まれていった。宿主とVの細胞が、脳波の同調を経て結合した瞬間である。つまり知子は、噛まれずに結合した非常に稀な例と言える。
 
 
『ごめんね。私が無理したせいで、あなたにまで苦しい思いをさせてしまった。ごめんね。』
 
 あの日のこと、そして今までルサールカと2人で歩んできた日々を思い出して、知子は目尻を濡らす。
 
 
『苦しかったら離れてもいいよ。私は大丈夫。最期は、きっとみんながそばに居てくれるから。』
 
 身体の奥が騒がしくなった。Vが知子の考えを否定しているのか。それでも他に道がないから、と唯一自由の利く頭を動かした知子は、まだ「もにもに」中らしいマルセーラを見つける。
 
 
「んー、何か勘違いしてる、でござるな?
 今のおっぱいさんは、間違いなくヤバイ。Vもカスカスで限界寸前。こうなった原因はパルスと、ニュートラライザーの投与が遅すぎたこと。
 だからと言って、死ぬだの分離だの、そういう話にはならない、でござるよ。」
 
 やっと「もにもに」をやめたらしいマルセーラは、そう言って袋いっぱいの使用済みニュートラライザーを知子に見せた。その数は優に20本を越す。ニュートラライザーは、世界聖戦直前に完成したアンチパルス新薬で、決して安い代物ではない。騎士団が半壊状態にあるため流通量が極めて少なく、通常取引でも1本で家が建つ。そんな貴重な新薬を大量に使ってまで、マルセーラは敵である知子を救おうとした。
 
 
「もう誰も死なせない!ヴァンパイアも人も!もう誰も死ぬな!」
 
 と、ニュートラライザーを打つマルセーラの真似をしたのは、レイナではなく、マリナだ。顔はともかく、声はかなり似ている。
 
 
「マ、マリナッ!そ、そんなこと言ってないでござる!ござる!にんにんにん!」
「あー、もー!おい!おっぱい!拙者と契約しろ!そうすれば助かる!」
 
 マルセーラの考えはこうだ。召喚された精霊はなぜか必ず万全の状態で現れる。例え、ドッペルゲンガーになっていようとも、召喚されれば万全。これには召喚の代価となる血が関わっている。ウィッチは自らの血を使い精霊を召喚するわけだが、強い精霊ほど大量の血を必要とする。強力な魔法ほど、マジックナントカが大量に必要なのと同じ仕組みだ。この召喚の際、ウィッチは召喚用と返還用、名目の異なる血を精霊に同量ずつ与えている。これにより、召喚された精霊は万全の状態で現れ、戻るときもまた、万全の状態で宿主に戻される。つまり、正式な契約を経てルサールカを召喚すれば、ルサールカの修復が可能、というわけだ。なお野良精霊、または召喚中に宿主不在になった場合は、宿主が現れるまでリアライズされたまま残る、と言われている。
 
 
「そんなこと可能なの?」
「可能。特別な血の約束でVを急速修復する。さくら殿のパッシブキュアと大雑把な理屈は同じ、でござる。」
 
 マルセーラが自信満々に答えた横で、ただし…、とレメディオスが言葉を続けた。
 
 
「この方法だと、パッシブキュアと違って結合剥離は治せない。治るのは恐らく…、Vとその影響を受けた宿主の制限事項だけ。」
 
「それって…、どういう?」
 
 小難しい補足に、知子はいらだちを露わにする。
 
 
「元気になっても変身はできないってこと!でござる!
 それでも契約する価値はある!」
 
 身を乗り出したマルセーラが、力強く知子の手を握った。それは感覚を失った知子にも感じられるほど、力強く、そして優しい手だった。
 もう誰も死なせない!それが、自分とルサールカに等しく向けられた言葉なのだと知り、知子は嬉しくて、悔しくて、涙が止まらなかった。
 
 
「じゅる!ぅぇぐっ…、げいやぐずる!…ゔゔぅ…げぃやぐ…じゅるー!ゔわぁぁあぁぁん!じゅるー!」
 
 泣きじゃくり、それでも叫び続ける知子をきつく抱きしめ、マルセーラも一緒になって小さな肩を震わせた。


「ありがとう…。本当にありがとう…。
 というか、ジャックでは絶対に勝てないから、契約するようルサールカさんを説得してください…にんにん♪」