「おい!ストーカー野郎!きもいっつってんだろ!どっかいけよ!」

 

 悪態をついてもフード姿に動きはない。雨音のせいで聞こえないだけなのか、それとも、機をうかがっているのか。機をうかがっているのなら、それは知子も同じこと。

 

 

「聞いてんのか!?なんとか言えよぉ!」

 

 知子は、歌舞伎町全域に降らせている雨の一部を自身の背後に集約し、先制、かつ、トドメとなる攻撃の準備を進めていた。相手との高低差を考えれば、知子の背後は間違いなく相手の死角である。

 通常の水弾でも人間を仕留めるだけなら十分だが、今回ばかりは次の「一度」で確実に終わらせておきたかった。相手の身体能力がヴァンパイアに匹敵するレベルなのは、先ほどまでの不毛な追いかけっこで十分理解できた。それだけでご遠慮願いたい相手なのに、なによりも知子自身が限界に近づいていること、それこそが問題だった。ここで攻撃しようとしまいと、Vマイクロムの暴走限界まで残り10分程だろう。ならば確実に仕留めて、残された10分間に希望を託す。生き残るための布石も打っておいた。

 

 知子の、ルサールカの唾液は物質を溶かす。これは周知の事である。しかし掌の親指の付け根にも唾液腺があることは、一族以外に知られていない。ルサールカの必殺技ともいえる「めろめろキス」は、この指の唾液腺から分泌された液で膜を張っている。息を吹きかける、というバカバカしいアクションに加え、わざわざ「キス」と銘打ったのは、他でもない指の唾液腺を隠すため。

 トドメの先制攻撃に、集めた水を使うつもりなのは言うまでもない。むろん指からの唾液もせっせと混ぜている。悪態はそのための幼稚な時間稼ぎだ。もっとも水と混ぜると唾液の溶解効果は薄れてしまうが、ルサールカは水を操る、水の精霊。水以外の物質に操作権限はなく、例え自身から分泌された唾液であっても、操作対象外なのである。

 パキパキパキ、と飴細工が壊れるような音がして、左肩が潤いを失った。途端に猛烈なだるさが左腕を襲う。

 

 

『やばい…。予定より剥離が早い。使いすぎ?』

 

 混ぜた唾液の量は、人間の危険レベルをとうに越えるが、知子の予測では「不十分」だ。人間に恐怖する自分の不甲斐なさを感じながらも、後がない状況に臆しているだけ、と自らを鼓舞して攻撃を開始する。

 

 

「消えないならこっちから行くぞ!おらぁ!」

 

 屋上から威勢良く飛び降りた知子は、すぐさま大ぶりの水の刃をリアライズし、斬り込む体で地上50mの怪獣目掛けて急降下した。元アイドルとは思えない、ドスの効いた叫び声を上げながら。

 集めた水は、6つの小さな塊に分け、もう狙ったポジションに待機させてある。そのうち1つのポジションは、急降下する知子の背中だ。つまり、知子の作戦は、知子自身が囮である。

 急接近する物体を目の当たりにした相手は、対処を決める僅かな間だけ、動きが止まる。通常であれば「避ける」が第1候補となるが、1対1の戦闘状態では、カウンターを第1候補とする「迎撃」を優先する傾向が高くなる。これは勝ち慣れている相手ほど、特に顕著である。大ぶりな刃をリアライズしたのは、銃器による迎撃に備えるため。

 むろん「避ける」選択も十分に考えられる。それでも知子には、一瞬の停止が確約されただけで十分だった。

 

 

「くらえぇぇえ!」

 

 知子の声を合図に、5つの塊が相手の足元から飛び出して、炸裂した。間髪入れずに背中の1つも相手めがけて飛び立ち、炸裂する。

 

 知子は、相手の立つ死角の多い「怪獣」の頭を、5つのポジションに利用していた。前後左右、それと上下方から、唾液の混ざった液体のしぶきが相手を襲う。それだけではない。細かなしぶきは、1つ1つがお互いの隙間を埋めるように動き、息つく間もなく相手を囲い渦巻く球体へと変わり、徐々に大きさを縮めていく。

 はたして知子の作戦は、完全に相手の隙をついたとみえ、虚ろな人影は哀れ渦巻く球体の中。仮に避けていたとても、あの状況からしぶきの付着は免れず、相手の戦闘能力を大きく削いだであろう。実行直前まで唾液量を不十分と考えていたのは、避けられた際のしぶき単体の攻撃力を考えてのこと。

 

 きゅぽんっ…と、いつもの可愛らしい音を立てて、球体の収縮が終わった。丸く抉り取られた怪獣の頭部だったハリボテの上に、ソフトボール大の潤んだ球体が浮かぶ。

 

 

フエゴス・アルティフィシアレス♪」

 

 溶ける怪獣の頭を横目に行き過ぎ、刃を変形させた水のクッションで滑るような着地を決めた、と言いたいところだが、実はお手製クッションの反発力に負けて、盛大な尻餅をついている知子が、麗らかに言った。声に合わせて弾け飛んだ球体は、不自然な雨の止んだ歌舞伎町の疎らな明かりを受けて、まるで花火のよう。

 

 

「いてて…。かっこつけてる場合じゃねえ。ガチで身体やべえ、立つのもやっとかよ…。」

 

 人間の姿に戻ったうら若き乙女は、ただ立つだけ、で地に両手を着く。自由の利く右手に力を入れると、パキパキと、嫌な音を鳴らして右肩が破れた。

 

 

『私が、あと5分もつかな?』

 

 逃げながら打った布石の効果があったなら、もう効果が出ている頃だ。あの人ならきっと破れる、そう願う以外に、今の知子に成せることはない。

 いつまでも起こせない身体を押し上げるべく、顔を上げて唸る知子の視界に黒い影が走った。下から上に真っ直ぐ走る影は、憎たらしいほど黒く、そして、今あってはならないもの。迫る影を防ごうと地面から離した「つもり」の右手は、脳からの指令を拒絶した。

 

 一応の防御意思も虚しく、影はさも当然だと、伏せたままの知子を浮くほどに蹴り上げた。直後に先ほどとは違う「嫌な音」がした。表面からではない。身体の中心近く、骨格に起する音か。

 

 

「が、がはっ!…な、なんで!?あんた、さっき…!」

 

 受身も取れず、無様に横倒れた知子の瞳に映る黒いフード姿。その姿はくっきりと輪郭を伴っていた。

 

 

「…オティ…。」

 

 赤黒い血を吐き出す知子の顔を、容赦なく踏みなじるフードの奥から発せられた声は、銀の鈴を思わせる。

 

 

「ママ…って…!ジ二ァ!ルゥアヌォラ、ピジダ!?」

 

 思わずヴァンパイア語が口を衝いた。それもそのはず。フードの相手が発した言葉は、紛れもなくヴァンパイア語である。

 ヴァンパイア語よりも知子を驚愕させたのは、蹴り上げた人物、そのものだ。この者は、先ほど歌舞伎町に咲いた水球の花火と共に、跡形もなく消し去ったはずではないか!

 

 

「てめぇ、ハンターか!ランキング1位がヴァンパイアって、ふざけんじゃねぇ!」

 

 身体を捩って足から逃れた知子が、地べたから叫ぶ。フードの相手は気にした様子もなく、知子自慢の髪を掴み、持ち上げた。

 

 

「ママはどこ?ママをかえして…。」

 

「意味がわかんねぇこと言ってんじゃねぇ!お前のママなんか知るかっ!

 私は井伊知子だ!たとえ地べたを舐めようとも、気高き東方の騎士!敵の手に落ちた貴様には屈しない!」

 

「…きし?…きしはわるいやつ。わるいやつは…、しね!」

 

 黒い姿がにわかに輝きを帯びた、と知子は思った。至極あやふやな色ながら、黒色の自分とは明らかに違う。どちらかといえば、銀色に近い。

 身動きの取れない状況で相手の輝きを見た知子は、虚勢とは裏腹に自らの絶息を受け入れた。ヴァンパイアの纏う輝きが本気の証であることは、ヴァンパイアである知子自身がよく理解している。

 

 

『人は…、こんな風に当たり前に死ぬんだ…。』

 

 寂滅の境地。二十歳に満たない乙女の目には、もはや何も映らない。

 

 

 

 

 

「ボルシチ!いけ…。」

「ピロシキ!ピンク色のおっぱいを助けて!噛み千切るのは黒いやつ!」

 

 

「おっぱいって……、私かよっ!」

 

 乙女に寂滅は早い。

 望んだあの人は、来なかった。けれども悪魔は、乙女の願いを聞き入れ、乙女の肩にも満たない小さな2つの希望をもたらした。

 

 悪魔が暗い歌舞伎町に遣わした希望の1つは、ゴールドアクセサリーをしゃらんと鳴らして、うししと笑う。