雨に紛れて身を隠し、逃亡することは、水の精霊ルサールカにとって、最も簡単で、確実な方法である。

 水属性の精霊の中でも、水との親和性が極めて高いルサールカは、水中の移動性能が非常に高い。ウンディーネのような上位精霊級、とまではいかなくとも、その速度は、並みの銀毛種を凌駕し、ハゥフルやメリュジーヌなど非精霊系の人魚型ヴァンパイアに匹敵する。

 すなわち、雨の歌舞伎町を知子より素早く動ける生物はいない。もっとも降り続くこの雨は、彼女が水道管の水を使った偽物であるが。

 

 

『くそっ!なんで!?なんで、あいつはすぐに追いついてくるの!』

 

 ビルの陰に身を潜め、少しでも体力を温存しようと思った矢先、知子の視界にフードを被った虚ろな人影が映る。

 

 

『それなら…』

 

 軋む身体を抑え、知子は雨を登り、目に入った「一番高いビル」の屋上を目指す。

 人間が、知子と同じ速度でビルの屋上に、ましてや、一番高い場所に登ることなど、万が一にもあり得ないからだ。最も安全な天辺から、雨粒を探知機代わりに敵の大まかな位置を特定し、敵周辺に唾液を混ぜた雨を降らせれば良い。

 

 

『どこにいる、クソ野郎…』

 

 少し行き過ぎてから、ビルの端先にふわりと降り立った知子は、雨粒1つ1つの動きに集中するため、真っ黒な空をすぐに見上げた。上から下へ、ぐるりと流れた景色の合間に、違和を覚えた。

 ごくり、と唾を飲み込んでから、今度は静かに、ゆっくりと視線を下ろす。

 

 

「…な…なんで…?」

 

 雨に霞み、ひときわ虚ろながら、視界が捉えた人影は、紛れもなく先ほど引き離したフード姿。知子の立つビルのシンボルとも言える「怪獣」の頭上に呆然と立ち、こちらを見ているよう。

 恐るべきはその身体能力だ。時間にして1秒と少し間に、相手は地上から約50mの地点まで登ってきたということ。

 

 飛ぶ、あるいは、跳ぶ。いずれの方法でも、人智を超える。

 

 思えば、相手に邂逅してから、ずっとこの繰り返しだった。

 偶然にも知子の潜伏場所が、プレイヤー入場口の近くだったことに端を発する。知子は、諮らずも相手に先制する機会を得たのだ。

 頭上から先制の一撃をお見舞いしようと、潜伏場所の裏手に回った途端、形勢が逆転してしまう。まるで知子の行動を読んでいたかのごとく、虚ろな影がぬうっと裏手の先に現れ、機を逸した。それから今まで距離を取ろうと逃げては、追いつかれる、を繰り返している。

 

 

『追いつかれるならやるしかない!』

 

 身体能力では遥かに劣る見積もりながら、高地にいる利を生かし、知子はここでの決着を覚悟した。

 

 

 

 

 

ーーーーー

「博士…、かなりの強敵のようですが、本当に大丈夫なのですか?」

 

 腕組みをする白衣の青年の隣りに立つ、情熱的な赤いネクタイを締めた男が言った。2人の歳は、一見すると親子ほどに離れている。

 

 

「問題ありませんよ。いつも通りです。」

 

 白衣の青年は、腕組みを解くでもなくモニターを見たまま言った。ネクタイの男は、問うため青年に向けていた顔を、彼に倣ってモニターに戻した。

 

 モニターには、不自然な雨に濡れる仔犬のような少女が映っている。

 

 

「…失礼ながら、立っているだけ、のように見えるのですが?」

 

 すでに痺れを切らしているのか、視線をモニターに戻して間もなく、ネクタイの男が再び口を開いた。

 

 

「その通りです。

 大統領、アワンの能力を覚えてらっしゃいますか?」

 

 白衣の青年、博士は、今度はきちんとネクタイの男、すなわちアメリカ合衆国大統領に顔を向けて言った。それと同時に、博士は右手の指を3本立てて、大統領の前に差し出した。

 

 

「物理耐性

 物質実体化

 …幻覚、でしたか。」

 

 大統領は、差し出された博士の指を順に折りながら答える。

 

 

「認知の新しい順ですね。正解です。」

 

 さすが、と一言付け加えてから、博士はモニターに視線を戻して言葉を続けた。

 

 

「アワンは、すでに戦闘中と言えます。敵はアワンの能力範囲に立ち入ってしまったのでしょう。一度入るとアワンが能力を解くまで逃れられない。相手が先手を取るつもりだったのか、それとも偶然か、それは分かりません。入場して即、この状態になるのは私も初めて見ました。」

 

 振り向いて大統領の顔を見た博士は、頭を掻きながら苦笑いをする。それを見た大統領は、怒るでもなく、キリリと結んでいた口を解き、白い歯を見せて笑う。

 

 

「申し訳ありません。またやってしまった…。アワンは、対峙した相手、とりわけ他人に対して必ず幻覚を見せます。

 アワンの幻覚は、相手の深層心理を利用する、いわば精神攻撃。相手の願望や恐怖、時には自信を逆手に取った幻覚を見せることもあります。まさに悪魔的な能力です。

 この幻覚能力は、アワン独特のコミュニケーションなんだと私は理解しています。我々が会話をしながら相手を探るのと同じです。

 アワンに限っては、相互コミュニケーションではなく、より優位に立つための一方的なコミュニケーションですけど。」

 

「…人ならサイコパス予備軍か。」

 

 博士の説明を聞いた大統領の口は、意図せず言葉を発していた。

 

 

「なんですか?」

 

 訝しげに眉をしかめた博士に、今度は大統領が饒舌に応えた。

 

 

「見た目こそローティーンですが、アワンの実年齢は2歳に満たないと、以前お聞きしました。幼い頃に母を殺され…、これは失礼。まだ生きておりましたな。

 博士の研究所のスタッフは皆さん若い。博士を含め、お子さんをお持ちの方などいないでしょう。結果として、アワンは母の愛情を知らずに育ってしまった。

 他人と普通に接する、当たり前のことを知らない。目覚めてからずっと続いてきた闘争と殺戮の日々を思えば、敵を殲滅すれば褒められる、そう理解しているだけなのではないでしょうか。

 もしアワンが人だったなら、とても容認できるものではありませんよ…。」

 

「アワンの行動の源は、愛です。」

 

 モニター越しの少女を哀れむ大統領の言葉尻に被せて、博士が力強く言った。顔を赤らめる博士を見て、大統領は喉まで出かかった言葉を飲み込み、博士の次の言葉を待つ。

 

 

「アワンは…、母親を救うために行動しています。」

「アワンは…、彼女は…、もともと戦いなど知りませんでした。ただ泣くだけの、どこにでもいる幼子だったのです。

 彼女の幻覚能力を知った私は、幻覚能力を解析し、破壊実験による3度目の再生の際、彼女の脳を逆にハッキングしました。それ以降、再生するたびに私はハッキングを繰り返しています。

 アワンにとって、私は父親であり…、母親は…。母親は…、囚われの身…。」

 

「なにを、おっしゃっているのですか?」

 

 さすがの大統領も口を挟まずにはいられなかった。

 

 

「ご心配なさらずに。アワンの母親…、リリスが、未だ繭の状態であるのは間違いありません。

 アワンには、幻覚を見るよう、脳に操作を施してあります。

 幸いなことにアワンは、ヴァンパイアを嗅ぎ分ける能力が他の個体よりも優れていた。私が開発した識別装置、ファインダーは、アワンの嗅ぎ分けを数値化したものが解析ベースになっています。」

 

「アワンに幻覚ですか…?」

 

「そう!そうです!ファインダーの話はどうでもいいんです!

 アワンは、他のヴァンパイアに接触すると、対象ヴァンパイアが母親を捕らえている幻覚を見ます。発動条件は、優れた嗅ぎ分け能力を基にした、接触です。

 つまりその、アワンは…、今までも…、今も…、母親であるリリスの幻覚を救うために戦っています…。

 先日のご報告の際、単独行動かつ、一騎打ちであれば、と限定させていただいた理由が、これです。

 それと、現在の身体変化、いわゆる急激な成長は、戦闘を始めてからの変化です。以前は大統領もご存知の通り、5歳児程度の身体でした。身体の成長は、戦うために彼女が選んだ一種の進化であると言えます。このまま強敵との戦闘を繰り返していけば、さらに次の形態へ進化する可能性も!」

 

 最後は口を挟まず、静かに聞いていた大統領は、博士が早口で喋り終えた余韻が十分に消えるのを待ってから、博士に、いや、息子のような青年に、柔らか眼差しを向けた。それは、とても世界最強国家の頭首が赤の他人に向けた視線とは思えない、真に温もりのあるものだった。思わぬ視線に青年の目が泳ぐ。

 

 

「博士の本心は、リリスの復活ですな?」

 

「…ご冗談を。あれはバケモノです。」

 

 相手を拒絶するようにモニターへと戻された青年の顔は、もう学者の眼光を帯びていた。

 

 

「ふふ…。博士はやはり変わっておられる。」

 

 大統領の言葉は、独り言に終わった。