壁のエアモニターから退避アラートが鳴り、スプリンクラーが作動した。急上昇する室温をモニターが火事と勘違いしてまったようだ。
じゅわわぁ、と少し美味しそうな音を立てて、次から次へと蒸発するスプリンクラーの水が、第4ジム内を蒸せ返るほどの霧で満たしていく。
「少尉!アレはさすがにヤバイです!ギャラリーは私がシールドしますから、少尉は避けてください!」
湿気に負けない強コシ睫毛を持つ知子が叫んだ。しかし当の神河少尉は、小籠包くらいの熱さだから大丈夫だ、と親指を立てて取り合わない。
「少尉の心配はしてません!キャミソールが燃えます!」
少尉は湿気でボディラインを露わにしている頼りない布を摘み、こう言った。
「…綿100%…。燃えるな!」
その言葉にギャラリーは目の色を変え、俄然激しさを増したマルセーラちゃんへの声援が、第4ジムを更に加熱する。
なんていうか、ヴァンパイアってみんな馬鹿なのかも知れない…。
そんなやり取りの最中、後ろから吹き込んできた風が私の髪を撫でた。
振り返ると、入口のドアが微かに揺れている。壁際にいた二階堂姉妹の姿が見えない。
ドアを開けると、姉妹は入口近くの手すりに仲良く並んで、もたれ掛かっていた。
「どうしたんですか?知子が蒸発するところ見逃しちゃいますよ?」
私の声に、レイナさんが視線と右手を僅かに挙げた。
「別にいい。…あの技、スキだらけ…、少尉の勝ち。」
応えたのはマリナさんだった。
レイナさんは姉の隣りで爪のデコレーションを弄っている。
「さくにゃんさ、どう思う?」
手遊びをやめて1歩に跳び出たレイナさんの腕で、ゴールドアクセが、シャンッ、と小気味良く鳴った。
腰に左手を当てて立つ彼女のシルエットは、私よりも背が低いとは到底思えない、均整のとれたラインを形作っている。
「何がですか?」
「新人ちゃんに決まってるじゃん。」
レイナさんは、踊るような1ステップであっという間に距離を詰めてきて、それから私に、ずいっ、と鼻先を向けて言った。彼女の髪は、甘いハニーの香りがする。
私が、よく分からない、と答えると、彼女はまた1ステップで私の背後に回り、言葉を続ける。
「ごめんね、さくにゃんはViPじゃないから関係ないか。それに、念願の後輩だもんね。うしし♪」
口元を手で隠すいつもの笑顔を見せたレイナさんは、また後で、と軽やかに手すりの上を歩いて姉の元へ戻っていった。
「でも、良かったじゃないですか。キャラ被らなくて。」
そのまま立ち去ろうとする2人の背中に声を掛けたけど、姉妹との会話は続かなかった。
そうだね、とレイナさんが言った温もりのない返事だけが私の耳に残っている。
「准尉!ここに居たのか!すまない、急いでモリノ三等兵の応急処置を頼む!」
姉妹の背中が曲がり角に消えるのとほぼ同時に、少尉が飛び出してきた。
キャミソールの右の肩紐が切れて、もしくは、切られてしまったようで、彼女は左手で胸元を抑えている。
服が燃えてないってことは、マリナさんの言った通り、技の発動前に倒したんだと思う。
それにしても、少尉が私に治療をやらせてくれるのは初めてだ。
衛生教育を受講し忘れていた私は、まだ、血液ナシの簡易メディカルキットしか支給されていない。私の手持ちキットで治療できる怪我なんて、擦過傷や打撲程度に限られる。つまり、その程度の怪我で済んだ、ということ。
マルセーラちゃんは本気だったみたいだけど、少尉に上手くあしらわれたんだろう。
そんな事を考えながらドアを開けると、モワッとした空気が一斉に纏わりついてきて、あっという間にお肌の潤いメーターが振り切れた。これは、しっとりじゃなくて、びっしょりだ。
霧は私が外に出た時よりも数倍濃くなっていて、数メートル先すらも見えづらい。
手探りに進んで、やっとマルセーラちゃんを見つけた。
それから私は、支給品のエンジニアブーツを脱ぎ、そして振り返って、少尉の位置をしっかりと確認した。
「死んどるやないかぁーいっ!」
私は少尉のお腹に力一杯ツッコミを入れた。もちろんブーツで。当然カカトで。今なら臭いもギリで、フローラル…、だと思う。
床に転がるマルセーラちゃんは、おヘソから下が物の見事になくなっていて、別に見せなくても良い奥の奥まで出血大公開中だった。そして、いよいよ言葉にならない何かを口走りながら激しく痙攣を始めた。
さすがのヴァンパイアと言えど、普通に考えて手遅れの状態だ。
少尉が私に治療を依頼してきたのは、軽症だったからではなく、超重症だったから…。
死んでいなければこの状態でもアクティブキュアで再生することは可能だ。だけど、ここまでの状態を再生した場合、今度は私が暴走、もしくは昏睡、するかも知れない。
「犯人は私じゃない!それにまだ死んでいない!」
「じゃあ誰が下半身を丸ごと吹っ飛ばしたんすか!?」
散らばったマルセーラちゃんの欠片をかき集めながら、私は少尉を睨みつけた。
「…あいつだ。」
神河少尉が指し示す先には、ルサールカ姿の知子に片手で天井に抑え付けられている、赤く燃える女がいた。
「イフリータだ…。」
イフリータはイフリートと同じで、女性へ寄生すると女性格を得て「イフリータ」になる、と天SN飯モードの知子が先ほど説明してくれた。
イフリート改め、イフリータは、身体から噴き出す赤い炎が特徴の人型の精霊系Vマイクロムで、火属性の中位精霊にあたる。人型である事とカッコイイ名前のおかげで人気は高いが、所詮はローカル精霊なので中位でも下の方だという。知子曰く、赤い炎の奴は弱い、との事。
下位精霊のルサールカが中位精霊を圧倒しているのは、属性間の優位性が関係している。
各属性には得意・不得意があり、関係は次の不等号で表せる。
火>風>土>水>火…以下、省略。
優位属性にあたる水は、格下でも火を十二分に圧倒できる。
「1週間で中位精霊持ってるのかと最初はビビったけど、この娘、持ってなかった!無理やり呼んだっぽい!かなりメンドイよ!」
人前で滅多に変身しない、ルサールカの爆乳姿をSNSに載せようとシャッター音が鳴り響く中、知子が叫んだ。
「知子と少尉なら倒せますよね?」
「無論だ。しかし…」
私の問いに少尉は歯切れ悪く言葉を続けた。
契約なしに呼び出された精霊を消す方法は3つ。
1つ目、ウィッチが呼び出した精霊と契約を成立させる。ただし、ウィッチの実力を精霊に認めさせる必要がある。
2つ目、精霊を第3者が倒す。しかし、倒された精霊の本来の宿主も一緒に絶命する。
3つ目、呼び出した精霊よりも上位の精霊と契約して服従させる。これは、現実的に不可能である。
「そんな…。倒したら他の誰かが死んじゃうって事ですか!?」
「調べたところ宿主はヨーロッパの高級事務官だった。確かに倒すのは容易い。だが…」
神河少尉は、特2は軍法会議に掛けられる、と唇を噛んで言葉を締めくくった。
「少尉!軍規より、まずはクソ忍者ちゃん!イフリータの相手は私で余裕です!このままだと中尉の首がガチで飛ぶっ!早くランク19以上の火精霊持ちを探してくださいっ!あと…、さくら!お前は、さっさと再生しろや、ごらぁっ!」
知子が撃ち出した鋭い水弾が、どの部位かよく分からない肉片を掴もうとしていた私の右手を掠め、床で王冠型に弾けた。
「あぁぁ、もう!私が暴走したら2人の血をくだ……」
黒い女神に変身するのが少し早かった。
少尉は走ってっちゃったし、言葉も途切れてしまったけど、言いたい事はだいたい伝わったはずだ。
私は、冷たくなり始めた上半身だけのマルセーラちゃんを抱きしめるように膝を折り、心静かに歌った。
アクティブキュアは歌わなくても発動する。だけど、自分の限界を超えた再生を行う時は、歌う事にしている。
先日の南米作戦で負傷者を再生しまくってたら、次にマリナさんの番、という所でVマイクロムが暴走してしまい、あわや全滅となりかけた。その時は白い女神様の歌によってVマイクロムが落ち着きを取り戻し、事なきを得た。
不思議な旋律のこの歌には、鎮静作用があるんだと思う。
ぶっちゃけ言うと、マリナさんの右足もすぐに再生できるんだけど、とある「事情」により拒否られている。
『いてっ!なんだ!?』
後頭部に何かが当たった。
少し離れた所で空き缶が元気に跳ねる。それから、空き缶、空き瓶、ペットボトル、変な本、色んな物が私を目掛けて飛んできては、ことごとくヒットしていく。
ちなみに、瓶よりジャMプの方が当たると痛い。重量と角がね…。
意味が分からず顔を上げたら、LION派の皆さんからの「ありがたいプレゼント」でした…。
この霧の中、よく狙えるね!ギャラリーの目には熱源センサーでもついてんの!?
『投げた奴の顔は覚えたかんね!少尉にチクるから覚悟しとけよ!』
と言ったつもりで、身体の亀裂から黒い体液を噴出しながら睨みつけたら、飛来物は止んだ。
本気出した私の不気味さは相変わらずなようで…、じゃなくて、やっぱりギャラリーには見えてる。
てゆーか、再生が済んだら今日の下着「も」ゴミ箱行き確定だ!
仕切り直してマルセーラちゃんの再生を始める。
無駄な時間を使ってしまったけど、微かに心音が聞こえるからまだ間に合う。
私は朽ち果てそうなボロッボロの左翼で彼女の上身体を覆い、歌を続けた。
そろそろコネクションが始まる。
私のVマイクロムは再生する際、対象を解析するために欠損部位に噛み付く。解析用に少量吸血するけど、主目的は吸血の逆で輸血だ。ケーブルを繋ぐのに似ているので、私はこれをコネクションと呼んでいる。
輸血と言っても、私の血液をそのまま与えるのではなく、体内に取り込んで解析した対象の血液と、全く同じ血液をリアライズして、その血液を戻す。
ヴァンパイアは人に比べて治癒能力が向上しているので、大抵の欠損はこれでなんとかなる。
今回はかなりの重症なので、初めてだけど心臓にコネクションして、更に欠損部位もリアライズしなければ再生できないと思う。
この辺りの判断は私自身がするけど、医学の知識がないため、リアライズ部位の構造や組成はVマイクロムに任せっきりだったりする。
血液から色々と解析してるみたいだから、たぶん大丈夫。
腰部の動脈からマルセーラちゃんの体内に入り込んだVマイクロムは、心臓目指して血管内を這い回る。この人体内を這い回る感触は、正直言って気持ち悪い。
心音が大きくなってきた。
もうすぐ心臓…。もうすぐで、この、生きた動物の腹に頭を突っ込んでいるような音から解放される。
コネクションしてしまえば、あとは再生に必要な分の血液を私の体内でリアライズするだけだ。
リアライズが完了すると、左翼から再生量に応じた羽根が適宜剥がれ落ちて、黒い保護膜を形成する。
今回は恐らく左翼を丸っと持って行かれる。そんで、黒いサナギが転がるパターンだ。
やった事はないけど、なんとなくイメージできる。翼が無くなった後の自分はイメージできないのに…。
あと数回で消えてしまいそうな、か弱い心音がすぐそこに聞こえた。
『よかった、間に合った…』
安堵したとの同時に、私の脳はブラックアウトした。
ーーーーーーーーーー
私は、果てしなく真っ白が続く変な空間にいる。
初めて見る景色のはずなのに、どこか懐かしい。
どこからが床なのか分からないけど、重力を感じる方向に寝そべって「床」に頬をつけた。
冷たくもなく暖かくもなく、それなのに心地良かった。
寝そべる私に向かって、遠くで誰かが手を振っている。
大きな人が1人。親しげに手を振っている。
行かなきゃ、ごく自然にそう思った。
頬に受けていた重力を足の裏に移して、私は大きな人に向かって駆け出した。
向こうも駆けてきた。
あっという間に出逢えた。
時間の概念が存在していないようだった。
出逢ってすぐに、私は大きな人に抱きついて胸に顔を埋めた。ごく自然にそうした。
大きな人は私よりも30センチくらい大きくて、前に立つと私の目線は大きな人の胸までしかない。
見上げても不思議な光に遮られて顔は見えなかった。
それから大きな人と私は、抱きあったまま唇を重ねた。ごく自然にそうした。
大きな人の腕はとても逞しくて、唇はとても優しい。
見つめ合っているのに不思議な光に遮られて顔は見えなかった。
それから私達は…
ーーーーーーーーーー
「何かさぁ…。さくらの吐息…、艶かしくなぃ…?」
「…そうだな。気絶した割には…、だな。」
「年頃だからな…。おーい、田中ぁー?バイタルと脳波は安定したぞー。起きろー。」
『痛っ…。
痛いから。
ペチペチすな。
分かったからストップ!
2往復ってもうペチペチじゃねーし!』
「ペチペチしすぎ!目が開けられねーだろっ!」
ガツンッ…
上体を起こした拍子に思いっきり頭突きを食らわしてしまった。相手はたぶん、ペチペチしてた人だ。
「あ、起きた…。」
知子の声は少し高い位置から聞こえた。
声のした方に視線を上げると、人間姿の知子が腕組みしながら見下ろしている。奥に少尉の頭もチラチラしている。
ちなみに、巨乳さんの腕組みは、乳下で、が基本スタイルらしい。
「…私、また気絶したんだ…。あ!マルセーラちゃんは!?」
私は不自然なほど静まり返った部屋を見渡した。
あんなに溢れかえっていた湿気とギャラリーは、跡形もなく消え失せ、すぐ近くに黒いサナギと赤いサナギが転がっているだけだ。
黒いサナギに視線を向けた時、相変わらず胸元を押さえている少尉が、再生は順調だ、と感謝を添えてから教えてくれた。
「あの赤ぃ…」
口を開いた途端、下敷きが飛んで来て頭にブッ刺さった。
「赤いのは私だ!」
ムクムクと起き上がった赤いサナギの側面に、シルバーの2本線が輝いている。
「ドーソン大尉!?なんで!?」
涙目で鼻を抑えるドーソン大尉は、抜きたてほやほやの、私の脳天をかち割っていた下敷きで、知子に説明するよう促した。
ドーソン大尉は宿主だった。
彼女のVマイクロムは「アグニ」といい、火に関係しているものの精霊ではなく、どちらかと言えば精霊の高性能版にあたる。
当然ながら火属性の精霊達とは親密で、アグニとサラマンダーは旧知の仲だった。Vマイクロムの縁でサラマンダーの宿主を知る大尉が、サラマンダーにイフリータを強制送還してもらった、が事の顛末になる。
上位に従う精霊ならではの、4つ目の解決策があったわけだ。
「じゃあ、私は戻るぞ。神河、今回の件は報告しとくからな!」
「はっ!覚悟はできています!」
神河少尉が、気をつけの姿勢を取ってから、最上級の敬礼で大尉を見送った。
「いい返事だ。……左手は…、人が来る前に戻した方が良いぞ。」
入口で振り返った大尉に指さされ、少尉が変な声で鳴いた。
制服を探す彼女の仕草がとても可愛らしくて、私は思わず、少尉らしくない、とカラカラ笑って、床に大の字になった。
焦げた天井が褐色に染まっている。
その色が、夢の中で爪を立てた、あの大きな背中に似ている気がして…。
私は1人、頬を桃色に染めた。