世界的指揮者の小澤征爾さんが6日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。88歳だった。世界各地の一流交響楽団で指揮を執り、オーストリアのウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めるなど“世界のオザワ”として活躍。80歳を過ぎても精力的にタクトを振ってきたが、近年は腰痛に悩まされていた。

 

日本を代表する指揮者がこの世を去った。

 小澤さんは中国(満州)生まれ。小学生の時に引き揚げを経験した。その後、桐朋学園の創立者で指揮者の斎藤秀雄氏の指導を受け、指揮者を目指した。

 桐朋学園短大卒業後、単身渡仏。パリ滞在中の1959年にブザンソン国際青年指揮者コンクールで優勝するなど、海外で頭角を現し、61年にNHK交響楽団(N響)に招かれ、日本でも指揮者として活動を始めた。

 大きな転機は62年。N響が20代半ばの小澤さんに反発を強め、演奏会をボイコットする事件が発生した。日本と“決別”する形で、海外に活躍の場を求めた。

 64年にシカゴ交響楽団のラヴィニア音楽祭の音楽監督を務め、同年トロント交響楽団の指揮者、73年に世界5大オーケストラの一つ、ボストン交響楽団の音楽監督に就任した(2002年まで)。

 

恩師・斎藤氏の没後10年をしのび、84年に門下生100人以上でメモリアルコンサートを実施。これは、毎夏に長野県松本市で開催される「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)に発展し、自身のライフワークとなった。98年に長野五輪の音楽監督を担当。2002年に日本人として初めてウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートを指揮するなど、第一人者として活躍した。

 順風満帆な音楽人生だったが、晩年は病との闘いだった。05年ごろから高齢のため、体調を崩す機会が増えた。70歳を迎えた同年末に白内障を手術。翌年に帯状疱疹(ほうしん)、角膜炎を患い、音楽活動を休止した。10年には食道がんを公表し、手術で全摘出した。

 同年8月の復帰会見では「家族がラグビーのスクラムのように一体になって助けてくれた」と、妻、長女で作家の小澤征良氏、長男で俳優の小澤征悦のサポートに涙して感謝。「マイペースでやっていきたい」と生涯現役続行に意欲をみせた。

 小澤さんは22年8月、3年ぶりの開催となった「セイジ―」の終演後のカーテンコールに、車いすに乗って登場。ステージで奏者たちをたたえていた。