昨日は天皇誕生日だった。



昨今、小沢民主党幹事長の天皇の政治利用かどうかの発言について争議をかましている。

小沢氏の民主主義と天皇の在り方・行為に関する発言が、小沢氏個人の特異な憲法解釈に基づいているとの報道が多い。

これには、違和感を感じざるを得ない



私は、小沢氏と2廻り程度年齢がはなれている。しかし、私が憲法を学んだ当時の教科書には、小沢氏の考え方に近い記載がなされていた。

すなわち、天皇の行為には、憲法に明示された国事行為と象徴天皇としての公的行為、及び純粋な私的行為にわけられ、国事行為に限らず、公的行為も内閣の助言と承認によってのみ活動できるというものだった。

この考え方は、民主主義及び敗戦にいたる反省から導かれたもので、憲法の権威である宮沢先生などが主張され、当時は通説といわれていた。

この学説からは、今回の件に関する小沢氏の考え方は一般的といってよいだろう。



民主主義化において、国民の意思を代表する国会及びその国会で選ばれた内閣の関与なしにおこなわれる天皇の行為があってはならない。



その意味では、今回の件は、内閣総理大臣が要請した行為であり、健康上に特段の問題がない限り、天皇及び宮内庁は断ってはならないはずだ。

まして、内閣の支配をうける宮内庁のトップが、内閣総理大臣の指示に従わないのは、組織的にもおかしい。一般の企業で社長の意思に従わない役員(宮内庁長官は大臣でもないので役員以下とおもうが)、社長の判断は間違っていると記者会見したらどうだろう。その内容が正しかったとしても、方法に問題があり、当然、職を辞するべき問題であろう。



天皇の政治利用はできる限り、自粛すべきだ。

だからといって、民主主義化の象徴天皇は内閣の助言と承認に反対してはならない。それは、天皇の絶対化につながる。また、天皇側近に専制を与える危険もある。

それに比べ、天皇の政治利用はまだましだ。国民は、次の選挙で政治利用した内閣そのものを交代させることができるのだから。