先方から、やはり何人かが組になって歩いて来る。
隊は別の隊だがすぐ親しくなって話を始めた。
通信中隊の連中だが話の中にトトトツートが入って来る、
我々はようようイロハニホヘトが始ったばかりで何を言っているのか良く分らない。
何でも暗号があって数字の組合せで幾つを掛けて幾つを引くと何になると
我々には分らない事ばかりを説明されたが一向に理解出来なかった。
日曜日の外出が許可された。
線引きはあるが大分市内の大半はOKだが砂浜の美しいとされた所は
海軍の飛行場があり近寄れない。
市内を歩くと 「あら可愛い兵隊さん」 と声が聞こえてくる。
上等兵扱いだから大人の兵隊が敬礼をしてくる、答礼を返すと
何か偉くなった様な気持ちになる。
大きな神社があったのでお参りする事にした。
大きな木の下に人が入れる位の穴があるので入ってみたら神主さんが飛んで来て
「そこへは入らんでくれ」 との事だ。
一緒に行った一人が 「おい、この根こは食えるぞ。」 「へ~」
神社内の茶店で ”ニッキ” の根を売っている。
「これだこれだ」 と先程の九州出身の生徒が言う。
忘れたが幾十銭かを持って小さな物を求めた。
「おい、シーシーするな。」 「ニッケ飴の味だ。」 細い根を噛むとニッキの味が口中に広がる。
もう商店では全て配給制で何も買えない。
その上、飲食店には少年兵は立入厳禁である。
夜間演習が始った。
12月は午後7時になると錬兵場は真暗だ紅白に分かれて布を付ける。
斥候をお互いに出し匍匐前進をし凹みを見つけ並び 「打ち方始め」 の号命で
空砲を射つ又次の 「射て」 で次々と打つ。
何となく勇ましく感じるが此の後が大変である。
先ず銃が火薬で真黒になりこれが専用の洗剤をつけブラシで洗うが
なかなかに光を戻さない。
11時に終って班長殿の検査が OK になるのが夜中の2時半頃にはなる。
その上、薬莢を無くした奴がいて昨日の当りを早朝から匍匐で
一面を虱潰しに探したが見つからない。
本人は仕末書を書かされて一件落着となる。
一週間後に再び夜間演習がある。
松井生徒が 「おい今度の夜間演習は三人組もう。
そして俺の銃丈を使って五発打ってしまえ。そうして次へ回すから玉を込めて五発。
又五発。これで一つの銃を三人で分担して洗えば早かろう。」
次の演習で三人組んでやった、何と1時には OK が出て助かった。
つまりこれが軍隊で言う 「要領」 なのだろう。
グライダーの練習が始った。
プ式滑空機と言う。つまりプライマリーの略である。
ゴム索を引っ張って 「良し」 の声に後の押えを外すと 5米~10米位飛ぶ。
操縦中隊ではもう9月からやっていて同じ練兵場で飛ばすのだが
向うは皆見事に飛んでいる。
整備中隊の我々は2.3米飛べば上手な方である。
その上尾翼から落ちては修理をしなくてはならない。
何とも差が大き過ぎて情無い思いがする。
滑空機の骨が折れたら蛸糸位の絹の糸で折れた所を巻いてセメダインを塗装して乾燥させる。
セメダインは良い匂いがするが2機ある滑空機が必ず1機修理している状態では中々上達する筈が無い。
我々整備中隊では皮肉にも修理も訓練の内だ。
その日の不寝番に就かなくて良かったとふと思った。
これからの1時間は辛いだろう。
うまい事にその後の時間には同じ区隊の者は居なかったので
何となく人事ながら安心した。
翌朝、A生徒が点呼後姿を消した。
皆不安な気持ちだが班長、区隊長からは何をやったかは全く情報は無いままに終った。
25年振りに戦友会が開かれ皆石廊下事件の謎に集中した。
班長殿が素破抜いた。「農業学校の生徒の持って来た大福を食った奴が居てな。
私物箱に白い粉が丸く残っていたんだ。子供だな。
早く手を挙げていたら勅語迄は行って居なかったと思うがな。」
ここで今も語り継がれる大事件が起った。
区隊長殿が恐い顔で 「全員石廊下に集合」 「そのまま正座せよ」
何とその痛い事弁慶の泣きどころが石の凸に当り又他が継ぎ目に当る凄まじい刑罰だ。
「一言だけだ。本日大変な恥ずかしい事があった。
全員目を閉じよ。この中の誰かが恥ずかしい事をした。
自分がやった奴は誰も見ていないから手を挙げろ。」
5分間位経ったが誰も手を挙げない。
一時間に一回のチャンスを与える。目を開けよ。もう口もききたくない。」
大変な御立腹である。時計を見て再び 「目を閉じよ。」
しかし手を挙げる者はいない。
11時近く一人名乗り出た 「自分がやりました。」
きっと痛さに耐え兼ねたか一人で背背負って格好良くなろうと言うのか。
「馬鹿野郎何をやったか言ってみろ。」
「・・・・・」 「こっちは分っているんだ余計な手間掛けさせんな。」
「そ奴が手を挙げるまでは貴様等連帯責任だ分ったか。」 と怒鳴られた。
夜中の二時一寸前班長殿が助け船を出してくれた。
「区隊長明日に障りますから今日はこれまでで。」
「うん。」 ようやく解放されたが直ぐには立ち上がれない。
どうにか立ち上がると足に血がにじんでいる。「一体誰が何をやったんだ。」
午後は演習で一緒には出来ないので彼等は待って体操をしている。
我々が午後体操の時間の日、ドッチボール(怒球)をやる事になった。
これは楽しい球技だが空転等の練習が有り中々やらせては貰えない。
農業学校の生徒も一緒にやる事になった。
何と彼等は驚くほど強く内野に残ったのは彼等だけとなった。
彼等は工場で休み時間毎日ドッチボールをやっているそうだ。
敵国語で怒球と言わされているが彼等はドッチボールのままだそうだ。
大分の11月は冷え込みが激しい。
と言うより石畳の廊下は戸が無く南北に口が開いているので風が吹き抜ける。
左右の石廊下の間に内務班が有るから寒いのは当たり前なのだ。
毛布3枚では寒いと班長殿に訴えると工夫で十分やれると
色々な包まれ方を教えてくれた。
蓑虫の様に袋にして寝ると、なるほど寒さは感じない。
入隊して3ヶ月でどうやら軍隊生活にも慣れ始めた。
体験入隊で農業学校の生徒が各区隊に1名入隊してきた。
歳は同じか1年下だがわずか3ヶ月の差で動作に大人と子供程の
違いが有るのに驚いた。
一緒に自習室で勉強したがもう学校は学徒動員で
工場で働いていると言うのに又驚いた。
校庭の桜の葉が黄色になり散り始めた。
演習が終り巻脚判を解くと開放感が味わえる。
この開放感に洗濯場で口笛を吹いた。
経理中尉が飛んで来て 「貴様何故英国国歌を吹いたのか。」
と、いきなりビンタを食らった。
「敵国の国歌とは知りませんでした。」
その頃、もう誰も敵国の国歌等を知る者はいなかった。
軍歌軍歌で勇ましい時代だ。
小学唱歌の中にアイルランド民謡があったのは遠い昔の事になっている。
中尉は急に 「誰も見ておらん。この事は二人だけの事にしておこう。」
と、無事帰って行った。
英国の国歌のメロディを知っていたのは少年の頃大阪湾に
英国の艦隊が入ると必ず甲子園の球場か或は浜に仮設のステージを作り、
内火艇に発電機を積みライトを煌煌と照らし軍楽隊が、
「君が代」 次に 「ゴット セイブ ザ キング」 つまり英国国歌を演奏、
次に必ず軍艦マーチをやり次々に楽しい音楽を聴かせてくれたのが、
頭に残っていたのだろう。ビヤ樽ポルカの楽しいメロディはその頃覚えた。
その後、その中尉は時々現れて本当の情報、
つまり負け戦の情報を知らせてくれる様になった。
我々の区隊付の一等兵が重営倉三日間を食らった。
我々陸軍生徒には重営倉は無いが罰に中隊長室で軍事勤論を
墨で書かされる、一回書くのに一日ではとても書けない。
3日~4日は掛かる。
罰の大きさで何回と決る。もちろん正座である。
重営倉の食事は区隊で持って行く。
1日朝夕2回塩握りと梅干一個にお茶と決められている。
炊事当番なので、炊事場に梅干を貰いに行き塩握りを一つ作って
お盆に乗せて行こうとしたら 「こら~お前等に武士の情ってもんの
欠けらもないのんか~」 と一喝された。
怪訝な顔をしていたら 「馬鹿正直もいい加減にせい。
お握りの中は誰も割って見ん。良いかおかずになる物を中に入れてやれ、
良いか。」 と叱られた。