出雲の八咫烏   出雲神話   古代出雲族

出雲風土記、古事記の神話から紐解き、神社の祭神や土地土地に伝わる伝承、発掘された遺跡などを手掛かりに、古代出雲王朝と英雄神スサノオノミコトとその系図を描いてみる。

同時に、出雲の神社・スポットを紹介。。

神話・伝承をテーマ別に紹介。。

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神須佐能袁命の鎮魂の社  須佐神社

出雲国風土記 飯石郡 須佐郷 郷名の条


『須佐郷(すさのさと)。 郡家(ぐんけ)の正西(まにし)一十九里(さと)なり。


神須佐能袁命(かむすさのをのみこと)詔(の)りたまひしく、

「此の国は小さき国と雖(いへど)も 国処(くにどころ)在(な)り。

故(かれ)、我が御名は、木石(きいは)に着(つ)けじ」と詔(の)りたまひて、


即ち  己(おの)が命(みこと)の御魂(みたま)を鎮(しづ)め置き給ひき。

然(しかく)して即ち、大須佐田(おほすさだ)・小須佐田(をすさだ)を定め給ひき。

故(かれ)、須佐と云ふ。 即ち正倉(みやけ)有り。』


出雲国風土記 記載は 須佐社(すさのやしろ) 


現・出雲市佐田町宮内


JR出雲市駅南口から、島根大学医学部付属病院を横に見ながら南下し、

途中、神門川を渡って山に入っていくと、立久恵峡という峡谷に出ます。

更に奥に進むと、佐田町に出ます。町の東南に須佐神社は鎮座します。

susajinnja 須佐神社

須佐能袁命が、「己(おの)が命(みこと)の御魂(みたま)を鎮(しづ)め置き給ひき」

と云うほどに、ここがスサノオノミコトの本拠地と思われます。


この神社の宮司の須佐家は、スサノオの御子「八島手命」を祖とする「須佐の国造」と云われています。


スサノオノミコトが直接その名で、出雲国風土記に登場するのは、

安来郷と 大原の佐世郷、御室山と ここ須佐郷だけです。

                             ・・・熊野大社は、「熊野加武呂命」をスサノオとし、

                                櫛稲田姫との最初の宮と言われる須我神社のことは

                               古事記に記載され、風土記にはありません。・・・


出雲市から神門川を遡ると、スサノオの御子姫・スセリ姫の本拠の滑狭(なめさ)郷・・

同じくスサノオの御子姫・ヤノノワカ姫の里、八野郷・・ 神魂命の御子姫・マタマツクタマノムラ姫

の坐す朝山郷などの地を経由して、須佐に出ます。


これらの姫は、皆 大国主命が娶ることとなり、その逸話が地名になっています。

・・・朝毎に会いに行ったので「朝山」 

・・・娶うために屋を造ったので「八野」 ・・・などなど。。


それらの地を訪ねながら、巨岩奇岩の景勝地・立久恵峡に遊び、

須佐神社に詣でて、隣接する温泉施設「ゆかり館」で湯に浸かり、

スサノオ館で悠久の古代に思いを馳せる・・・というコースもよいかと・・。susanookann

****須佐の七不思議*****

①塩井(しおのい)     ・・・境内に湧く塩分のある潮の井。

②神馬(しんめ)       ・・・何色の毛で生まれても年老いると白馬になる。

③相生の松         ・・・雌雄両性の木肌を持つ。

④蔭無桜(かげなしさくら) ・・・隠岐の国で日が翳り続けて凶作となり、神占の結果、須佐大宮の

                   松の陰であった。願い出て伐ったところ蔭が消えた。。

⑤松葉の槇(まき)     ・・・槇の葉の淵に松葉で刺したような穴があり、その故は櫛稲田姫にまつわる

⑥星滑(ほしなめら)    ・・・神社の西の山中に光る岩座あり、星の照らす光という。

⑦雨壺(あまつぼ)     ・・・境内の下の田の畦に岩穴あり、この穴を掻き回すと暴風雨となる。


七不思議の場所を訪ね歩くのもよろしいかと・・。




野城の大神 野城社(のぎのやしろ)

出雲に四大神あり。  ・・・杵築大神。熊野大神。佐太大神。・・・そして野城大神。


出雲国風土記 意宇郡(おうのこほり) 駅家(うまや)の条


野城駅家(のぎのうまや)。郡家(ぐんけ)の正東(まひむがし)二十里(里)八十歩(あし)なり。

野城大神(のぎのおほかみ)坐(いま)すに依(よ)りて、故(かれ)野城(のぎ)と云ふ。


現在の安来市能義町。。  現社名は能義神社です。

野城社

能義大神は、出雲四大神にもかかわらず、由来・伝承が一切ありません。


ただ、1563年に火災で灰燼に帰したとの記録があり、消失以前の社殿は、壮大な大社造で

あったと言われています。


現社殿は、安来市を流れる飯梨川と丘に挟まれてひっそりと建っています。


古墳・遺跡の多い所でもあり、かなりの勢力を誇っていたと思われますが、かつて東部出雲に

君臨した出雲国造は、律令時代に入り西部の杵築にその本拠を移し、時期を同じくして畿内

勢力が侵攻してきます。


そういう背景の中で、野城社は衰退していったのではないかとも考えられます。


安来では、この大神を祀る祭事より、風土記の神話にも登場するワニに食べられた猪麻呂の娘

を偲ぶ「月の輪祭り」の方が盛大で、この地域の最も大きい祭りです。


ワニに食べられた娘を葬ったと伝えられる、五世紀頃の築造の「毘売塚(ひめづか)古墳」があり

ますが、発掘したところ、風土記の伝承どおり脛の骨が欠損した白骨が出土しました。

美姫に恋した鰐の悲恋  鬼の舌震

出雲国風土記  仁多郡(にたのこほり) 山野の条 恋山


   『古老(ふるおきな)伝へて云へらく、

       「和爾(わに)、阿伊村(あいのむら)に坐(いま)す神、

        玉日女命(たまひめのみこと)に恋ひて上り至りき。

        爾時(そのとき)、玉日女命、石(いは)を以(もち)て

        川を塞(せ)きしかば、逢ふこと得ずして恋ひし所なり」

                         と云へり。 故(かれ)恋山(こひやま)と云ふ。』

したぶる onisita

        現在の奥出雲町・・・広島県との県境近くに「鬼の舌震(おにのしたぶるい)」

        という渓谷があります。

        巨岩、奇岩が連なって横たわる渓谷の清流は、滝や淵を作り、ミズナラや

        カエデの美しい景勝地です。


                  「わに」とは、出雲神話によく登場するサメのことです。・・・中国山地の頂上に

                  近い山深くに暮らす玉日女(たまひめ)に恋したワニは、日本海からはるばる

                  川を遡り逢いに行くが、タマ姫はこれを嫌がり川を巨岩奇岩で塞いでしまいま

                  した。・・・先に進めなくなったワニは恋い慕うばかりでした。」という話です。


        「鬼の舌震い」は「ワニの恋(した)ぶる」が変化したものと云われます。


        片思いの男が、美しい姫神にひどく振られる・・・という、ストーリーとしては

        それだけの話ですが、仁多郡には近くに「玉峰山(たまみねさん)」という山

        があります。出雲国風土記には「山の嶺(みね)に玉上神(たまかみのかみ)

        在(いま)す。」とありますので、この地域を治める豪族がいて、実際姫もいた

        と思われます。

        

        その姫の美しさを聞いた、海辺に暮らす「海人族(あまぞく)」が妻問いに

        向かったものの破談になった・・といった事実からの伝承ではないかと

        考えられます。


        仁多郡は、6000年前の縄文前期から弥生中期に至る遺跡が出土しており

        かなり古い時代から高度な文明があったところです。

        海人族が謁見を申し入れる王族がいたことは想像できます。


鬼の舌震


        


                





人食い鬼  ・・・一つ目の鬼伝承

大原郡(おおはらのこほり) 阿用郷(あよのさと) 郷名の条


   『 古老(ふるおきな)伝えて云えらく、「昔、或る人、此処なる山田に烟(けぶり)たてて守りき。

     爾時(そのとき)、目一つなる鬼来たりて、佃人之男(たつくるをのこ)を食(くら)ひき。

     爾時(そのとき)、男の父母、竹原の中に隠れて居りし時に、竹葉(たけは)動(あよ)けり。

     爾時(そのとき)、食(くら)はゆる男、「動々(あよあよ)」と云ひき」といへり。

     故(かれ)阿欲(あよ)と云ふ。[神亀三年、字を「阿用」と改(あらた)む。]  』

一つ目鬼 (原口智生氏作品)

「鬼」という存在を、文章に著わした日本で最も古い文献と言われるのが、この「出雲国風土記」にある「鬼」

です。


「一つ目の鬼」 ・・・ 一つ目は、この地方では後世、タタラ製鉄に携わる者・・「村下(むらげ)」にまつわる話によく登場します。


出雲王朝の権力を支えた「鉄」は、昭和の前半まで連綿と営まれ続けた主要産業で、「タタラ」という製鉄方式は刀剣の素材に不可欠の玉鋼を生み出します。


この作業は、何日も炉の火を絶やさず燃やし続けなければ成らず、「村下(むらげ)」と言われる従事者は不眠不休でこの作業にあたります。火を監視し続けるため、目の負担は大変で、負担を少しでも軽減するため、片目ずつ開けて監視していたといいます。・・・失明者も多く、一つ目鬼はここから来たとも云われます。


正確な云われは分かりませんが、鉄産業は農産業と公害などの面で相容れず、諍いがあったと推測されます。「八岐大蛇退治」神話もよく「タタラ」と農の戦いとも解釈される所以です。


鬼に食い殺されそうになりながらも、葉陰に隠れている両親が鬼に見つからないよう・・ガタガタ震えて葉が動くのを「危ない・・動いているからバレテシマウヨ」と必死に注意する様が表現されています。 

大庭の大宮   神魂神社

出雲は、風土記の記載からも、あるいは発掘されてきた古墳の形状からも

また、出土品などからも 意宇郡・・・つまり東出雲から先行して文化を形成

しています。

神魂神社  神魂神社は、意宇川が熊野の山から意宇の平野部に出てきた渓口部

  松江市大庭町にあります。県の風土記の丘資料館がすぐ近くにあります。


この辺りは、様々な古墳群のあるところです。どこを掘っても遺跡が出てくる

と言われるほど、古代出雲の文明の集積地です。・・・大庭とは、潔斎・祭祀

の場のことを指します。


大庭の大宮と呼ばれる「神魂(かもす)神社」は、しかし「出雲国風土記」にも、

「延喜式」にも、まったく記載の無い神社です。

社殿は天正十一年(1583年)に遷宮されて以来の建造物で、国内の現存する

社殿としては最も古く国宝に指定されています。


                江戸時代末まで、出雲国造は、毎年の新嘗祭と出雲国造の代替わりの

                火継式のときは出雲大社からここ神魂神社に入って潔斎をしてきました。

カモスジンジャ この神社の下手に、出雲国造の館跡があり、神魂神社は出雲を広く治め

                熊野大神、杵築大神の祭祀を司る豪族「出雲臣」の固有の神社であったと

                言われています。


主祭神とされているのは、イザナミノミコトとなっていますが、これは後世に定め

たものであろうと、出雲国造の千家氏はおっしゃっています。

熊野大神を祀る祭司職にあり、後に大国主命の祭司長となる出雲臣にとって、

祀るべき神は、須佐之男尊であり大国主命であり、その御祖神のイザナミノミコト

であり、命主神たる神魂命(かむむすひのみこと)なのです。


この神社に参拝する時は、左回りにお参りするのだと古くから地元では言われています。

一般的には右回りに参拝する慣わしですから、ここだけは逆順になります。



鳥になった貝の姫

出雲国風土記  ・・・島根郡(しまねのこほり)法吉郷(ほほきのさと) の郷名


   『神魂命(かむむすひのみこと)の御子、宇武賀比売命(うむかひのみこと)、法吉鳥(ほほきどり)と化(な)りて飛び渡り、此処に静まり坐(ま)しき。故(かれ)、法吉(ほほき)と云ふ。』



 現在の 松江市法吉(ほっき)町のことですが、「法吉鳥」とは うぐいすのことです。  ・・・このあたりは住宅地で、「うぐいす台」という団地もできています。

 その団地の奥に方墳の「ウムガイ姫」陵があり、かつてはそこにウムガイ姫を祀る法吉神社がありました。


 うぐいすになって、飛んできた宇武賀比売命(うむかひのみこと) は、古事記に有名な「因幡の白兎」神話の後段に登場してくる姫です。  それによれば・・・。


 因幡の白兎にひどいことをした八十神たちは、八上比売(やかみひめ)に疎まれ、唯一人優しく傷を癒した大国主命の妻問いに応じました。 八十の兄神たちはこれを恨み、大国主命を謀殺する策略で、伯岐国の手間の山本という地で、山から下りてくる赤い猪を捕らえるよう命じ、猪に似た大岩を火で赤くなるまで焼き、オオクニヌシめがけて転がし、焼き殺してしまいました。

 

 大国主命の母神は、その死を嘆き、大国主命の再生を命主祖神である「神魂命」に請願しました。

 神魂命は、大国主命の許に「支佐加比売(きさかひめ)」と「宇武加比売(うむかひめ)」の二女神を派遣して「麗しき壮夫」として蘇らせました。


 キサガイ姫の「キサガイ」とは、赤貝のことで、ウムガイ姫の「ウムガイ」はハマグリのことです。

 赤貝の貝殻を削った粉をハマグリの乳汁で混ぜて火傷に塗って復活せしめたという・・・古代における火傷の治療法を示すものと思われます。


 この、大切な乳汁を提供し、大国主命を再生せしめた「宇武加比売(うむかひめ)」が、法吉鳥伝説の姫です。  ・・・ちなみに、「支佐加比売(きさかひめ)」の方は、後に大国主命と結ばれ「佐太大神」を加賀の潜戸で産む事になります。


 蛤(はまぐり)を、古代の人は「うむがい」と呼んでいたのですが、世俗に云うところの女性性器に見える形状から・・・あるいはその生殖機能に喩えたのではないかと・・。


 貝が、鳥に変化して・・・という伝承は突飛に見えますが、「山城国風土記」にある、京都の伏見稲荷神社の起源伝承でも、餅が白い鳥になり降り立った伊奈利の山に稲が成り生えたとあります。

 農林水産業の起源などに因むものと思われます。


 文字は「法吉」で、現代の読みは「ほっき」ですが、古代は「ほほき」と読みます。大国主命を再生せしめたところは「伯岐」と書いて現代は「ほうき」ですが、古代は「ほほき」と読みます。


 姫が、治療の後に落ち着いたところに 元の地名を偲んで名付けたのではないでしょうか。。



  

美保関  美保神社

島根半島の東端。。 現・松江市美保関町に鎮座します。


大社造の社殿が二殿連棟になった特殊な形態の社殿で、「美保造」あるいは「比翼大社造」などと言われています。

美保神社

祭神は、大御前(おほごぜん)左殿に 美穂津姫命・・。 二御前(にのごぜん)右殿に 事代主神とされています。


美穂津姫は、神社略記によれば、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)の姫神で、大国主命の御后神だとあります。・・・大国主命は多くの妻問いをされていますから、この姫もその一人となります。

一説には、出雲大社の摂社「筑紫社」に祀る多紀理姫の別称とも言われます。


事代主神は、恵比寿様として一般に知られていますが、「事知主神」とも表され、実存の神と言うよりは「神の言霊の依り代」と解する方が正鵠を射ているのではないかと考えます。


日本書紀、古事記には様々にリアルな人物描写が載っていますが、「出雲国風土記」にこの名前は皆無です。


「出雲国風土記」には、


『天下造らしし大神命、高志国(こしのくに)に坐す神・・・俾都久良為命(へつくらゐのみこと)の子、奴奈宜波比売命(ぬながはひめのみこと)に娶(あ)ひて、産ましめたまひし神、御穂須々美命(みほすすみのみこと) 是(こ)の神坐(いま)す。』

とあり、これが「美保」の地名の由来だと記されています。


現在、神社にある末社を見てみると、境外にある末社の一つに「地主社」という社がありますが、ここに奉斎するのは、「事代主命、或いは御穂須々美命と傳ふ」とあり、本殿に祀る神の名は「御穂須々美命」が元々であったと思われます。


事代主命=御穂須々美命とすれば、記紀に記されている「国譲り」の話にも合致します。


美保関には、4月に「青柴垣(あおふしがき)神事」と12月に「諸手船(もろたぶね)神事」のふたつの例大祭がよく知られています。

このふたつの神事はいずれも「国譲り」の故事に因む行事です。


古事記に拠れば、天津神の御使い神、タケミカズチとアメノトリフネが稲佐の浜で大国主命に葦原中つ国の支配権の禅譲を迫った時に、御子である事代主命(御穂須々美命)に委ね、事代主命は禅譲を了承し、美保の沖の海中に青柴垣(あおふしがき)を作り、天逆手(あめのむかへで)を拍って籠ったとあります。


これの再現が前述の二つの神事で、

「青柴垣(あおふしがき)神事」では二艘の神船に一年間精進潔斎した頭人(とうにん)と妻役の小忌人(おみびと)を乗せ神前まで迎えるというものです。・・・現在も信仰の篤い美保関の氏子は、厳しく潔斎をしますので、当日は両脇を抱えられて歩くほどに神憑りとなります。

青柴垣神事 諸手船

「諸手船(もろたぶね)神事」は、古式の珍しい型の刳り船 二艘が激しく水を掛け合いながら競争します。

その際、天つ神の使いとコトシロヌシの問答に擬えた祝言の問答を、カジ役と宮司とで行います。


この美保関の岬の沖合いに「沖之御前」「地之御前」と呼ぶ島があり、それも末社として祀られていますが、「沖之御前」には、ストーンサークルのような祭事場跡があり、古代から信仰の対象であったことをうかがわせます。


八重垣神社

松江市佐草町というところにあります。

出雲国庁跡や神魂(かもす)神社などがある「大庭」という地域に近く、南の山に登ると熊野大社・・更に登ると須賀神社に通ずる位置にあります。

八重垣神社

櫛稲田姫を祀りますが、地名にあるとおり・・元は「青幡佐久佐丁壮命(あおはたさくさひこのみこと)」を祀っていた神社です。


この神は、須佐乎命(すさのおのみこと)の御子・・・と、出雲国風土記にあります。


いつの時代からか、母神の櫛稲田姫になっています。 ・・・風土記には、まだ「八重垣神社」という記録はなく、「佐久佐の社」とあります。


ここには、重要文化財に指定されている壁画があります。  寛平五年(894年) 宇多天皇が出雲国庁造営の際に描かれたもので、巨勢金岡(こせのかなおか)という絵師の筆によると伝えられています。


この画に描かれているのは、櫛稲田姫と父母、須佐之男命、大日霊女尊(おおひるめのみこと)、市杵島姫と言われます。

・・・大日霊女尊(おおひるめのみこと)は、天照大神。市杵島姫は、須佐之男命と天照大神との誓(うけい)によって御子となった宗像三女神の一人で、広島の厳島神社の祭神です。


御社の奥の院に「鏡の池」があり、参拝客が薄紙に硬貨を載せて池に浮かべ、早く沈めば縁談に良いと人気です。

この池からは、六世紀頃の須恵器などが出土し、古い起源にあることを証しました。

「身隠神事」という特殊神事がおこなわれますが、これは神霊を載せた神輿を翁.媼.姫の面をつけた一行で鏡のいけの上にある大杉を二周し、御霊がえしを行うというものです。「陰陽の神の降臨・・」とも言われ、神婚の儀式のようで、縁談占いもそれに因んだものかもしれません。

加賀の旧潜戸 佐陀大神の生(あ)れまししところ

出雲国風土記  島根郡 大海の条


加賀神埼(かかのかむざき)。即ち 窟(いはや)有り。

佐太大神(さだのおおかみ)・・・産生(あ)れまさむとする臨時(とき)に、弓箭(ゆみや)亡(う)せましき。

御祖神(みおやかみ)神魂命(かみむすひのみこと)の御子、枳佐加地売命(きさかちめのみこと)願ひしく、

「吾(あ)が御子、麻須羅神(ますらがみ)の御子に坐(ま)さば、亡(う)せたる弓箭(ゆみや)出(い)で来(こ)」と願ひましき。

爾時(そのとき)、角の弓箭、水の随(まにま)に流れ出(い)ず。 弓を取りて御子に詔(の)りたまはく、「此は非(あ)しき弓箭なり」と詔(の)りたまひて、擲(な)げ廃(う)て給ふ。又、金(くがね)の弓箭流れ(い)で来(く)。即ち、待ち取らし坐して、「闇鬱(くら)き窟(いはや)かも」と詔りたまひて、射通(いとほ)しましき。

即ち、御祖(みおや)枳佐加地売命(きさかちめのみこと)の社(やしろ)此処に坐す。


今の人、是(こ)の窟のほとりを行く時に、必ず声あげ 石なげ 磕(とどろ)こして待つ。もし密かに行かば、神現れて、飄風(つむじ)起こり、行く船は必ず覆(くつがえ)る。


加賀神埼とは、現在「加賀の潜戸」と言われ、グラスボートの遊覧船で観る事ができます。

自然に形成された海蝕洞窟で、「金の弓で洞窟を射通したとき」に佐太大神が誕生したとあります。

海からこの洞窟を見ると、女性の性器に見えます。「金の矢」は男性性器を想起し・・矢の神は大物主神=大国主命と言われ、大国主命と枳佐加地売命との御子であることを、このようなスケールで伝承したものと思われます。


枳佐加地売命・・とは、「因幡の白兎神話」の後段、岐路の途中 八十神の謀略で命を落とした大国主命を救い、再生させた女神「枳佐加比売命」のことで、救済の縁で二人はそういう関係になったのでしょう。


このあたりは海水浴場でもあり、太公望の好む釣り場でもあります。桂島という出島は、夏は夜光虫がキラキラと見える綺麗な海で、デートスポットでもあります。


小石の海岸は、穏やかな天気の時に波打ち際で耳を澄ますと、カラカラコロコロと・・琴を奏でるかのような澄んだ綺麗な音色を楽しめます。


佐太神社 ・・古代出雲四大神 佐陀大神

古代出雲に四大神あり。。・・・杵築大神、熊野大神、野城大神・・・そして佐陀大神。

佐陀大神の坐すお社が、佐陀神社(現・佐太神社)です。 松江市鹿島町佐陀本郷。。

佐太神社

主祭神は、佐陀大神。 ・・・天孫降臨の際の道案内をしたという神・猿田彦を同一神とし、主祭神を猿田彦だとも言っていますが、出雲国風土記の記載に従えば、「佐陀大神」です。


神名火山(朝日山)の麓・・三笠山を屏風のように背景にした、三殿並立の出雲には珍しい造りの美しい社殿です。  ・・古代には杵築の大社(出雲大社)をも凌ぐ広い敷地を誇っていたといいます。


真ん中の「中殿」に、主祭神・佐陀大神、右手の「北殿」に天照大神・ニニギノミコト、左手の「南殿」にスサノオノミコトが祀られています。 かつては「南殿」を「加賀社(かかのやしろ)」と呼んでいたと言われますので、佐陀大神の母神である伎佐加比売(きさがいひめ)を祀っていたかもしれません。

加賀・・で、母神が出てくるのは、佐陀大神が生まれたのが加賀の旧潜戸(くけど)だからです。


境内の前を佐陀川が流れ、大橋を渡って鳥居をくぐります。参道脇の桜並木は「佐陀の桜」と呼ばれ春は殊更に美しいところです。


神在月には、出雲大社、素佐神社、万九千社と同じく、神迎えの神事、神去出の神事が行われます。地元では「お忌みさん」といい、この時期は身を清め、神議りの邪魔をしないよう慎みます。


佐陀の大神を祀る佐太神社は、この地域一帯に大神を守る神々が祀られている神社がいろいろあります。


・・・ファミリーと言った方がいいかもしれませんが・・。佐陀大神の母は、伎佐加比売(きさがいひめ)・・この姫の親神は神魂命(かみむすひのみこと)です。


・上佐陀に、「加茂志社(現・神魂大明神)」があり、祭神は佐陀大神の祖父・・・神魂命。

・西生馬(にしいくま)に「生馬社(いくまのやしろ)」・・神魂命の御子、八尋鉾長依日子命(やひろほこながのみこと)が祭神。 の宮があります。

・法吉町に神魂命の娘「宇武加比売(ウムガイ姫)」を祀る宮があります。 ・・・法吉神社。。

・加賀には、母神 「 伎佐加比売」を祀る宮があります。


・・・ 「宇武加比売」 「 伎佐加比売」の2神は、姉妹です。


・佐太神社の境内の外に「田仲神社」があります。 ・・・この神社はニニギノミコトに関係しての神社で・・。

  ・・・ニニギノミコトが、大山祗神(おおやまずみのかみ)の娘姉妹二人を嫁に・・と言われたとき、妹の「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」は絶世の美女。。一方、姉の「盤長姫いわながひめ)」はブス。。ニニギノミコトは、二人とも・・と言われたのに、妹だけを寵愛しました。 怒った姉は「人の命を木の花が散るように短くなる」と呪詛をかけました。これを怖れた妹が「私はもっと木の花を咲かせましょう」・・と。


「田仲神社」は東西 二殿の社殿があり、一方が「盤長姫」。一方が「木花開耶姫」で、この社殿、背中合わせに建っており、両姫が顔を会わさないようになっています。