2/15(月)~2/19(金)・2/24(火)~2/26(金)

 

1.小さき

”どんぐり”型花入れ など

 

 

完成塑型・その①

小さき”どんぐり”型

花入れ

2020.2.18 Jinroku Izumiya

リビングのテーブルに置いても、邪魔にならない、小さな花入れをつくってみました。

表面は、釉薬という半透明のガラス質の”膜”を光の陰影を楽しむため、無数に溝をつけました。

波模様やら縦模様やらをランダムに。

まだ、どのような釉薬をかけるのか決めてないので、カタログや在庫状況をみて、じっくり考えたいと思います。

 

完成塑型・その➁

リベンジ!”春色サラダボール‼

2020.2.12 Jinroku Izumiya

前回のブログの段階では、全体に艶消しトルコ青釉を濃い目に混ぜ込んだ白化粧土を施したました。

今回は次の工程として、彫り込んだ部分に化粧土が残るように搔きベラで余分な化粧土をそぎ落としました。

釉薬掛けの段階では、表面にはトルコ青を殺さない程度に薄めに辰砂釉薬を掛け、内側は乳白釉・レモンイエロー釉・唐津釉を重ね掛けするつもりです。

 

完成塑型・その③

(仮)”淡々(あわあわ)と青”

青海波風長方皿

2020.2.12 Jinroku Izumiya

波の部分の彫り込んだ部分に、「白化粧土にトルコ青釉を混ぜ込んだもの」を下掛け、「白化粧土に辰砂釉を混ぜ込んだもの」を上掛けしています。

波の彫り込み部分を除き、搔きベラで余計な白化粧土を削ぎ落としました。

釉薬掛けの段階では、白化粧土の部分は艶消しトルコ青釉と辰砂釉を薄めに、そしてランダムに掛け、それ以外は、乳白釉を下掛けに、瑠璃海鼠釉を掛けるつもりです。

 

仕掛り中

(仮)”なんとなく花模様な”スープ皿

 

スープ皿をこさえてみました。

以前作ったときは重たくなってしまったので、今回はなるべく”薄手”に仕上げました。

内側の立ち上がりには、”花と葉のような”模様を彫ってみました。

彫り込んだ部分に、「瑠璃海鼠釉を混ぜ込んだ白化粧土」を嵌め込んでみました。

後は週明けに白化粧土を掻き落とせば、塑型としては完成かな。

 

 

2.菜の花記・続き

~ふたみ記念館・川勾神社~

 

路傍の菜の花

前回のブログで書きました二宮町へのチャリンコ遠乗り企画・菜の花記の続きです。

やっぱり、二宮町というと、菜の花。

前回は、”菜の花の名所”吾妻山公園について書きました。

整備された”菜の花の群生地”も、華やかな魅力がありますが、

写真上のように

畑に植わっているものや、

菜種が飛んで路傍に生えているものも

鄙びた愛らしさがあって、

ほっとするんだよねぇ。

 

ところどころ点在する菜の花と青い空にいざなわれながら、のんびりとチャリンコを転がしていく。

そんなゆっくりな時間を味わいながら、「ふたみ記念館」という、町立の小さな美術館に到着しました。

 

二宮町ふたみ記念館

「ふたみ記念館」とは、二宮町出身・在住した画家の二見利節(ふたみとしとき:1911~1976)の作品を収蔵・公開するために、2011年に開館した美術館。

二見利節さんという画家の名前と作品について、これまで、ワタシ偏屈堂は知りませんでしたが、先日、茅ヶ崎駅前にある市役所の出張所に、今回の展覧会のパンフ(写真)を見かけたのがきっかけで、興味を持ちました。

 

二見さんは、戦前、春陽会や新文展(現・日展)、国画会で新進気鋭の画家として活躍されたそうです。

ご自身の戦争体験や負傷などをきっかけに、戦後は、国画会への出展のみ続ける以外は、画壇とは没交渉となり、作品も売却することもしなくなったこともあり、生活も困窮。

そうして、やがて”知る人ぞ知る”画家になってしまったそう。

この”忘れられた画家”の晩年、日動画廊が、二見さんの消失したアトリエを再建したり、渡欧の援助をしたり、画廊での年一回個展を開催するなどの支援をしたそうです。

最後に報われた感じも、絵からなんとなく伝わってきました。

 

今回、ワタシ偏屈堂が心惹かれた作品は、次の3点でした。

 

「イタリーの寺院」

(1970)

 

「モロッコガスバの入口」

(1972)

 

「幾何学的構成

(1960年代後半)

(以上3点、二宮町HP「ふたみ記念館」より画像拝借)

 

「イタリーの寺院」と、「モロッコガスバの入口」は、絵から伝わる”質感”・・・ザラザラというかゴツゴツというか、石の持つズシッとした存在感。

ワタシ偏屈堂にとっては、心地よい落ち着きを感じました。

特に「イタリーの寺院」は建物の輪郭線や窓の太い線が、古朴さを与えているなぁ。

もう一つの「幾何学的構成」は、画面が理屈抜きで明るい。

そこが良かった。

 

川勾神社

ふたみ記念館の帰り、川勾神社(かわわじんじゃ)に立ち寄りました。川勾神社は相模の国の二宮。

別名・二宮大明神(二宮明神社)と呼ばれ、二宮町の名前の由来にもなっている。

遠い昔、相武国(神奈川県中央部と南部)にある寒川神社(寒川町)と、磯長国(現在の大磯町と二宮町)が合わさって、相模国となったときに、寒川神社の神様と、川勾神社の神様が相模国の一宮を争ったそうで。

そのときに、相模国の三宮である比々多神社(ひびたじんじゃ:伊勢原市)の神様が「決着は翌年に」と仲裁をしたそうです。

 

このようなやり取りを毎年一回、およそ1000年、大磯町国府本郷の六所神社に相模国の一宮から五宮の神様と六所神社の神様が集って行っている”お祭り”というのが、「国府祭(こうのまち)」。

 

神様たちの、この”問答”というか”お芝居”(”お約束”)のことを「国府祭」の『座問答』というのだそうです。

もう長いこと、神奈川県民やっているけど、全く知らなかった(笑)。

 

この世知辛く、そして新型コロナでピリピリしている世の中に、ずいぶん”のどか”な話でしょ(笑)。

こんどの5月(端午)の頃、たぶんテレビ神奈川では国府祭はニュースで取り上げるでしょうから、ちょっとだけ気にしてみようかな。

 

川勾神社の鳥居の扁額。

明治の元勲・伊藤博文の揮毫。

伊藤さんは、隣の大磯町に別荘(滄浪閣・現在復元工事中)を持ってたからね。

伊藤さん自身も川勾神社に気晴らしに来ていたのかもしれない。

伊藤さんは、大磯町の魚屋とかに、気軽に顔を出して世間話をしていたというエピソードの持ち主だから、フットワーク軽そうだし。

揮毫を頼むほうも、頼みやすいキャラクターのようなかもしれませんね。

 

茅葺き屋根の隋身門。

お寺でいうところの仁王門にあたるかな。

 

ガラスの反射で見づらいですが、隋身門の左におわす豊磐間戸神(トヨイワマトノミコト)様。

隋身門の右におわす櫛磐間戸命(クシイワマトノミコト)様。

 

隋身門のこの一木造りの二体の木造随身倚像は、平安時代後期に作られたものだそう。

由緒書きを見ていると、室町時代の後期の戦乱で、川勾神社の神殿や宝物が焼失するなかで、運よく難を免れたそうだ。

このご時世に、なかなか縁起がいいでしょ。

 

茅葺きの年の経りようといい、お像の質朴さといい、何とも言えない味わいがある。

 

ご本殿。

色とりどりの吊るし雛が可愛らしい。

 

ご本殿と神楽殿にほ、七段飾りのひな人形も。

雛飾りがあるだけで、めでたさが増すというか、華やぎますなぁ。

 

 

<完>