先日、自分を大切にする。とか、ご自愛。とか、自分と向き合うことをしている友人から
自分に素直になる、とか
自分を大切にするってことが
どんなに怖いことか、わかった、、、
と、メッセージをもらいました。
ほんとに自分と向き合いはじめると、ぜったいここにぶち当たるんですよね。
今まで、自分を責めてきたりとか、罪悪感まみれだったりとか、“正しさ”にがんじがらめになって身動きとれなくなっていたり、とかいう場合。
わたしは、その怖さを超える先に幸せがあるんだとただ純粋に信じて、何年もかけて、自分の素直な気持ちに向き合うことをしているのですが、
昨日の藤本さきこさんの『罪悪感の本質とは「善人ごっこ」』
読んでみてくださいね!↓↓↓
を、読んで、もう笑うしかなくって、自分の悩みとしていることが、自作自演なんだということの説明がわかりすぎました 笑
ほんと、「がーーーん」 なんです 笑
一部抜粋しますと、罪悪感の本質は
「わたしは善人です。なぜならこんなに胸が痛いのです!ほらね!私はこんなに分かっているんですよ!」という、自作自演の「善人ごっこ」です。
↑↑↑こんな人は、人を裁きます。
自分を「善人」とするには、誰かを「悪人」にしなくちゃいけないのでね。
「私はちゃんと罪悪感を感じているのに、のうのうとあんなことしてるなんて悪い!」とね。
〜一部抜粋〜
頭がーーーんってなるほど、おもしろかったです。
そうです、そうです、
わたしが正しさで相手(←夫。笑)を言いくるめたいとき、相手は悪人なんですよ 笑
正しさを振りかざしたときのわたしは、善人で素晴らしい人間。笑
よくよく自分のこと考えてみましたら、わたしはほんとに善人ぶりたかったことがいっぱい思い出されてきて、恥ずかしくなってきました。笑
わたしはきっと、たくさんの人に好かれたかったし、嫌われる怖さというものをもっていたのですね〜
多分、いろんなことに一生懸命になってしまうのは、今の自分ではダメだ、今の自分では嫌われる、そんなものをギュッと握りしめて孤独を味わっていたのは、わたしだったのです〜
そんな自分ですら、受け入れたらいいし、よく見聞きする、「どんなあなでも素晴らしい」は、そんなことしなくても、あなたはあなたのままで素晴らしいんだよ。という自分への許しなのですよね
さきこさんも書いていますが、ほんと許し合いなのですよ。
人を許せない=自分を許せない
はるちゃんが言っていた
相手の許せないことは真似したらいい
みたいな言葉があったのでが、それはきっと自分がダメだとしてがんじがらめになっているなら、やってみたらいい。それは望みだったことに気づくしきっと許しがおきる。
という意味だったんだと今更ながらまた腑に落ちました。
そして、いつまでも、自分に罪をあたえたり、正しさという呪縛で自分を締め付けたり、だれかを責めてみたり、もうそんな暇があるのなら、自分の気持ちに素直になって、どんどん勝手に輝いて生きていったらいいんですよね
自分の気持ちに素直になることの怖さがあるのは、高い高いプライドがあるから。
「誇り」 「自尊心」 などの意味で使われることもあるらしいのですが、反対に
「うぬぼれ」 「傲慢」 「虚栄心」
にも使われるそうです。
たしかに、わたしが素直になれないときは、傲慢さや虚栄心(←自分を実質以上にみせようと、見栄を張りたがる心)がありました。
その裏には、やっぱりすごいとか言われたい気持ちがあったのでしょうね。笑
もう、ほんと、いつまでもそんなとこでぐずぐすせずに、さっさと自分の本音に気づいて、言うべき人に伝えて、軽〜くなってどんどん輝いていけばいいんだよね〜