岐阜金津園生唼トルコ(いけずきとるこ) | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

東海地方最大級の規模を誇る特殊浴場街岐阜「金津園」。この街を探訪する好事家諸氏の間で、専ら有名なトルコ風呂時代の遺跡たる「生唼トルコ」の屋号入り護美箱。










現在の金津園マップを眺めても「生唼」の屋号を引き継いだ店舗は見当たりません。特浴ストリート上に忽然と姿を現す年季の入った生唼トルコの護美箱。果たして店舗は何処にあったのでしょうか?






古地図を紐解いてみませう。「生唼」と名の付いた「旅館生唼」を発見。件の護美箱が置いてある真正面に店舗を構えておりました。この地図は昭和三十八年のもの。地図上で金津園全体を見渡してみると、屋号に「トルコ」と付けた店舗は三軒のみ。売春防止法後、金津園の多くの旧赤線業者は「旅館」として営業を行っていた様子。






ここで初めて「生唼トルコ」の名前が登場。昭和四十八年の地図ヨリ。地図情報をありのままに(記号機械的に)信用すれば、この当時、生唼は「旅館」と「トルコ風呂」、二種類の営業形態をとっていた?金津園にトルコ風呂ムーブメントが巻き起こるのは昭和四十年代に入ってからのようで、昭和四十年代前半の地図には一斉に「トルコ」と名付けた店舗が登場。






昭和五十四年の住宅地図ヨリ。諸君、括目して之を見よ!「生唼トルコ」の堂々たる屋号!金津園探訪愛好家諸兄の永年の謎たる生唼トルコ護美箱の正体を今此処に解き明かしたり(呵ゝ)。






「生唼トルコ」跡地也。現在は駐車場になっております。二十年前の雑誌に掲載された金津園風俗情報に「生唼トルコ」(無論、この時代はソープでしたが・・・・)の記述があるとのウェブ情報もあり。比較的最近まで営業を行っていた様子。





特殊浴場二店舗の専用駐車場のようです。






「生唼トルコ」と隣接しているのは、これまた金津園探訪愛好家諸氏の間で人気のある「想い出」。恐らく赤線時代から屋号を受け継いでいる大老舗かと思われます。












・・・・・・・・・新旧金津園の地図を俯瞰して行くと、店名の変遷を窺い知れ、中々興味深いです。時代の移り変わり、マネージメントサイドの事情、様々な理由が考えられますが、全国各地の特殊浴場街にも通じるある種の店名の法則性などがありそうですね。


「昭和末年のトルコロジー」著者である伊藤裕作氏は、昭和六十年二月十三日に施行された所謂「新風営法」に先駆け、昭和五十九年の年末から「特定の人名・地名」を付けていた金津園店舗二十余軒が店名を変更した、と述べております。これは店名を変えることで「新風営法」を念頭に置いた当局への自粛をアッピールする意味合いが込められていたようです。