浜松売防法ビフォーアフター其乃肆 | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

承前









本年六月六日付の拙記事「浜松砂山町界隈其乃壹」にて、地元老紳士から浜松赤線事情について話を伺ったことに関して触れました。老紳士曰く砂山町の赤線街は嘗て「楽天地」と呼ばれていた、と。








その浜松砂山町「楽天地」の名が記された「BARペルシヤ」の広告を発掘。






昭和三十四年度の浜松市住宅地図ヨリ。どうやら予てより目星を付けていた所謂新川端の一画が「楽天地」だった模様。






現在も微かな残り香りが一画に漂っているような気がします。








この付近で売防法施行直後の昭和三十三年に起きた事件記事も紐解いてみます。以下に一部伏字で引用。






 浜松市砂山町S旅館別館女中○○さん(五四)ごろし事件を捜査中の浜松中央署では、盗品や参考人調べから当時同旅館に泊まつていた焼津市小川生まれ元船員Y(二九)の犯行と割り出し五日Yをゴウサツ容疑で指名手配して行方を追及していたが、同夜午後十時過ぎYは神奈川県川崎市内の親せきに立ち回つたところを川崎署員に逮捕され、六日午前十一時五十分浜松駅着列車で護送され浜松中央署に留置された。



 Yは三日午前八時ごろ○○さんをアイロン(ひのしごて)で殴りコロし、現金二千四百八十五円とラジオ、衣類六点を、ラジオと衣類は浜松で入質(同署で証拠品として押収)したことを自供、これで同事件は発生わずか三日目でスピード検挙となつた。



 準急特急で川崎署員に護送されて浜松駅におりた、Yは白シヤツにカーデイガンを着たぞうりばき姿で、デツキからおりると同時に報道陣のカメラをさけるためハンカチで素早く顔をかくし、以後、乗用車の中でも浜松中央署に着いても顔を隠し通しだつた、ホームでも「あれが犯人か」と乗客多数がYを見つめまた改札口にもYを見ようとする市民が多数つめかけていた。







また「週刊静岡 昭和三十三年六月二週号」には以下の見出しが付けられ特集されていました。







犯人のYは生来の怠け癖から当今で言うニートのような生活を続けており、家族から勘当同然に追い出される。流れ着いた長崎県で窃盗を働き佐世保刑務所に服役。出所後は改心するから、と浜松市内の親族に泣き付き金を無心。「九州で以前働いていた炭鉱に行き生活を出直したい」と。勿論、改心したいと言うのは金を無心するためのYの方便であり、浜松市内の歓楽街で放蕩遊興三昧。



その際、宿泊していたのが売春防止法が施行される前に度々遊んだ砂山町のS旅館・・・・・・。親族から無心した金もあっという間に使い果たし、宿泊代すら支払えなくなったY。「どうしよう、どうしよう・・・・・」薄暗い旅館の天井を虚ろな眼で見つめ、二十九年間の自堕落な私人生を悔やむ・・・・・。「そうだ!旅館の帳場には金がある。そいつを奪おう。そしたら遠くの街へ高飛びしちまおう。奪った金で人生をやり直すんだ」薄暗い天井に一点の光明を見出し、そして実行したY・・・・・・。




Y逮捕の切っ掛けは捜査員による聞き込み調査でS旅館勤務の二十二歳女中から出た証言。赤線時代にYを客として迎えたことのある彼女は、Yが泊まっていた部屋に敷かれた布団に注目。敷布団の間に座布団が二つに折って挟まれ、その上に乗った枕・・・・・。高枕の癖のある男・・・・・。「Y・・・・アイツだわ」彼女の証言により、所轄からYの人相、体格、現場から採った指紋が全国警察に手配された・・・・。







嘗てS旅館があった付近。現在は駐車場になっていました。