昭和二十五年浜松盛り場事情(週刊東海ヨリ) | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

「遠州浜松やくざの街」の唄に知られるマツの朝はまず駅から息吹きはじめ次いでニゴつた眼付きをした自称やくざが歩くチンピラ横丁にあける、アロハの生態・・・・・彼等は夜ホールに肩をいからして入り自棄な一日をヒロポンで過し翌朝はまたこの横丁に現われ露店のサクラとなる・・・・・




昭和二十五年二月五日に発行された「週刊東海」第五号を入手。上記は誌面ヨリ。







「週刊東海」・・・・・・、発行部数、発行期間など詳細不明。情報を浜松地区に限定しているローカル新聞。「財界にいがた」的な立ち位置だったのでしょうか。非常に希少性の高い新聞であります。






発行所は鴨江町となっております、浜松の旧赤線街「二葉園」近所ですね。






なんとこの新聞の第一面には「マツの盛り場を探る」と題したルポルタージュが掲載されています。「マツ」のチンピラや街娼、アベック事情そして赤線現役時代の「二葉園」の様子まで。






「浜松駅前カストリ街に出没する夜の女」とキャプションが付けられた写真。「広小路商店街」と薄ら写っているのが確認出来ます。



現在「広小路商店街」は駅前再開発により現存セズ。







夜の女をある人は「ローレライ」だと評したが浜松のローレライは余りにも薄ぎたない、洋装パン、キモノパン、時には夜上がり十時五十分(東京行 一〇四列車)の浜松下客をアテに駅前に根気よく頑張る四十がらみの老パンもいる、セン情的な声と流し目で「ねえ、つきあわない」と取縋つて遊子をなやます(記事ヨリ引用)







記事によれば駅前から旧旭町界隈には街娼が多く出没し、新川筋や砂山町の連れ込み旅館へ移動した、と。


今は遠鉄が通る新川筋。




砂山町の連れ込み旅館。





新川筋に残る旅館。「新川筋はお誂い向きのアベツク漫歩の場所」とも。





少し妖しげな香り残る新川筋。現役のピンク映画館もアリ。








田町静銀付近から旧電話局(現在はNTT西日本)のある界隈は與太公横行の街と言われていたようです。




レトロな外観が素敵な田町静銀。







「何んだおメエ、二三日居なかつたぢやねえかビタ(旅)かえ」
「オカ(静岡)えな、ネタガミ(種拾い)にいつて来た」(記事ヨリ引用)


嘗ての田町静銀前には洋モクをくわえたアロハのアンチャン衆が屯していた様子です。





「あそこえ行く野郎俺んとこえ変なガン(眼付き)をとばしやがつて」
「あんなセイガク(学生)相手になるかよ」(記事ヨリ引用)


戦後派横丁(アプレ横丁)、チンピラ横丁などと囁かれた界隈。





昭和三十四年度浜松市住宅明細地図ヨリ。嘗てのアプレ横丁。





ツルテンシヤンの口三味線だけではお客の方が承知せず避妊薬みたいなビー、シー級と呼ばれる処を相手の待合総計二十九軒がムシロ戦後派的の景気をかきたてゝいる(記事ヨリ引用)。千歳の三味線通り現在の姿。検番前にて。この辺り、当時はニセ傷痍軍人が白衣姿でギターを弾いていたそうです。正体は渡りの艶歌師。






ヒロポンに関する記事もアリ。




ヤー公、サー公、サラリーマン、お尻のデツカイお嬢さんや美しい十七、八のレデイ型など、浜松の戦後派アプレ人種が集ったダンスホール「国際会館」。此処には有名な「ヒロポン女」が出没した、と。




早々にダンスホールの営業から撤退したようで、昭和三十四年の地図を見ると「国際劇場」として生まれ変わっていました。





現在の姿。ダンスホールも劇場もヒロポン女も面影一つ残ってはおりません。