静岡県磐田市中泉(旧中泉遊廓) | お散歩日記

お散歩日記

路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

本日は三月三日也。桃の節句に遊廓探訪。春の陽気に誘われ、磐田地区の旦那衆から「公園」と呼ばれ愛され親しまれた静岡県磐田市は中泉遊廓跡地へ。









学生諸君などヤングマンの姿が目立った本日の磐田駅前。





駅前にて直ぐにフィリピンパブの入ったビルがお出迎え。磐田市に於ける風俗事情を遡ると、この付近に所謂「風俗店」がある様子。これは数年前の情報で現在は閉店か?店舗情報をグーグルマップにて確認すると、この地点がヒットします。





店舗前には静岡県西部ではお馴染みの無料風俗情報誌が置いてある。





駅前の中泉西町には小さいながらも飲み屋街が構成。一瞬、妓楼リフォーム物件か?と勘違いした新旧入り混じった素敵な佇まいのスナック。













・・・・・・・・・・






全國遊廓案内を引用すれば「静岡縣磐田郡中泉字田町に在つて、東海道線中泉驛で下車すれば西北へ約五丁の個處・・・・」。駅前から暫く進んだ住宅地の中に旧中泉遊廓跡地はある。


中泉遊廓の成り立ち、沿革は非常に興味深く、元はこの付近で栄華を極めた名士「秋鹿(あいか)氏」の広大な敷地内。嘗ては藤原氏にも仕えた秋鹿氏。幕末までは幕府とともに名家としての立ち位置を確約されていた。しかし正に栄枯盛衰・・・・・、維新後に領地没収の憂き目。情勢は一変。明治時代に入ると秋鹿氏は遊廓業者に土地を貸して生計を立てていた、と言う・・・・・。


この辺りの歴史については、小生の耳学問による知識よりも地元の方が運営されているサイトを参考されたし。参考サイト→遠州中泉祭研究会、昭和初期の中泉遊廓女郎衆写真、秋鹿家や中泉遊廓を巡るドラマについて詳細に記載されています。





俗に「公園」と渾名された中泉遊廓。秋鹿氏の敷地内の中泉公園にあったことが由来。現在は磐田市が買い取り「中泉歴史公園」と命名され、地元のボランティアにより維持されている。写真にある瓦は、平成十年頃まで旧遊廓内にあった料亭「開莚楼」のもの。





園内には秋鹿家の歴代当主が愛した庭園が整備・保存されている。





注目すべきは公園のベンチ。なんと遊廓時代に妓楼の門柱として使用されていたものをベンチとして再利用している。遊廓サイトを運営さるる先輩氏の記事には、このベンチ前に由来をしたためたユニークな手書き看板があったことに触れている。残念ながら件の看板は現在撤去された模様。




下記は八木富美男氏の著書「静岡県の赤線を歩く」掲載写真より、往年の中泉遊廓。写真にある門柱がベンチと酷似している。





園内に掲げられたDIY感たっぷりな手書き地図。





ベニヤ板で造った上記の地図を捲ると、我が眼前に飛び込みたるはくすんだ女体画・・・・・。遊廓跡地であるが故、秘宝館的な何かを狙った遊び心なのか。





園内には秋鹿氏について触れた案内が掲示されている。「遊廓」の記載もあり。これらの案内を一つ一つ読んでいたらだいぶ時間が経過。この地に関連した人物として、李氏朝鮮の朴泳孝や、明治期の中泉地区に於ける任侠世界の親分・大庭平太郎氏(遊女屋を経営?)の名前が出てくる。いやはや想像以上にディープな歴史を持つ遊廓デス・・・・・。





トキメキと少しばかりの気まずさを以て「公園」通いをした旦那衆と、時代に翻弄された秋鹿氏に思いを馳せ乍、高台より中泉遊廓跡地を俯瞰す。





「静岡県の赤線を歩く」より。妓楼配置図。






上記配置図と同一と思しき個所を撮影。検梅場と妓楼が並んでいた付近。現在は公園の便所が。





遊廓と隣接する芝居小屋だった「中泉座」の並びには、真新しい住宅に交じりレトロな佇まいの建物が。樹溪庵と言うJAZZ系のライブハウス。




看板猫さんがいました。





同じく旧遊廓に隣接するパブ「GS」。GSとは勿論グループサウンズの意。夜な夜なGS世代の旦那衆が集うのだろうか。





「公園」から真っ直ぐ通りへ抜けたところにあるガールズバー「小悪魔」





旧中泉遊廓と隣り合わせに鎮座されるお稲荷様に柏手を打ち、「公園」を後にする。 








猶、中泉遊廓は敗戦後、磐田市に進駐した米軍の慰安所に。その後、売春防止法まで赤線として機能。