2021.7.18 鳳キリスト恵み教会 メッセージ

【バプテスマについて】

 

聖書にはキリストを信じたならば「バプテスマを受けなさい」と記されています。キリスト信仰において一般的に「洗礼」と言われていますが、聖書に基づいて正確に訳すと「浸礼」になります。またクリスチャン入門の儀式、最近になって改めて設けた儀式という誤った理解をしてはいけません。なぜ私たちはキリストを信じたらバプテスマを受けなければならないのでしょうか。

 

A なぜバプテスマが必要なのか 

1.  イエス様も御自身が受けることを望まれた。

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。(マタイ3:13−15)

 

2.  弟子たちがこの礼典を授けることを是認された。

イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知らせたとき、イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが―(ヨハネ4:1−2)

 

3.世界宣教命令で弟子たちに対して「全ての国民を教え、バブテスマを施すように」と命じている。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18~20)

 

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。(マルコ16:15、16)

 

4.初代教会の時代に使徒や弟子たちがバブテスマを説き、これを施していた。

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた、その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

(使徒行伝2:38-41)

 

 ここで注意が必要なこととして「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」という御言葉です。多くの教会で、救われる条件としてバプテスマを受けるように勧めていますがこれは大きな誤りです。原語から忠実に訳すなら下線部は「罪の赦しに基づいて」となります。決して、バプテスマを受けなければ救われないとは言っていません。

 ではなぜバプテスマを受けることが必要なのでしょうか。聖書には、「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。(Ⅰペテロ3:21)」と書かれています。下線部を原語に忠実に訳すと「神への正しい良心の要求」となります。バプテスマは、救いを型で示すものであって、型を示すことは神への正しい良心の要求であると語っています。

 

 次に「いつ」バプテスマを受けるのかについて、初代教会の頃はイエス様を信じた人は決心直後にバプテスマを受けていました。8つの聖書箇所がそのことを示しています。

 

①しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。(使徒8:12−13)

②道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」異本(そこでピリポは言った『もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。』すると彼は答えて言った。『私は、イエス・キリストが神の御子であると信じてます。』」そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。(使徒8:36−38)

③ するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、(使徒9:18)

④ 「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマをうけさせないようにすることができましょうか。そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。(使徒10:47−48)

⑤ そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊りください」と言って頼み、強いてそうさせた。(使徒16:15)

⑥ 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。(使徒16:33)

⑦ 会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。(使徒18:8)

⑧ これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。(使徒19:5)
 

B バプテスマに関する注意(コリントの教会におけるパウロの行い) 

パウロの働きの一貫で、コリントの教会でのエピソードをうかがう時に注意を要するくだりがあります。

 

あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。私はステパノの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。(Ⅰコリント1:12−17)

 

ここでパウロは、バブテスマを非難しているのではありません。当時、コリントの教会で分裂・分派という問題が起こっていました。パウロ自身が多くのコリントの人にバブテスマを授ければ、パウロ派を主張する彼らはその事実によってさらに基礎を固めるのに用いたことでしょう。さらに教会の分裂・分派の問題が激化するかもしれないと考えました。それはパウロの望みではありません。バプテスマは人間の権威によって行うことではなく、神の権威によって行われるべきです。パウロは自分のふるまいによって教会内が混乱しなかったことを確認し、心から満足したのです。

 

C バブテスマに関するパウロの偉大な教え 

 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:3,4)

 

1.バプテスマは、信者が救われたことを象徴として行うこと。

①バブテスマの礼典は、信者がキリストと共に葬られ、キリストと共に復活したことの象徴である。

②バブテスマにおいて、信者は、キリストが罪のために裁かれた時、自分もキリストとともにおり、キリストと共に葬られ、彼にあって新しい命によみがえったことを証するものである。

③水のバブテスマは、信者がそれを受ける時にキリストと一つに合わされるのでなく、そのことがすでに起こったことを前提として、象徴するものである。

④バブテスマは救いの後に来るものであって、前にあるべきではない。神様の順序は、「聞いて、信じて、バブテスマを受けた。」である。

会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。(使徒行伝18:8)

 

2.<その死にあずかる>は<その死に>である。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:3,4)

 

①     <死にあずかる>は<その死に>に直訳される。

私たちは、その死へのバブテスマによって、キリストとともに、<一度だけ>葬られてしまったのです。

②     <いのちにあって新しい歩みをするためです>は直訳すると<わたしたちも新たらしい命の中を歩き回るのです>となります。

③     私たちはバブテスマが表現するように、「ただ一度だけ」決定的にキリストとともに十字架上で死んだものとされ、キリストとともに墓の中に葬られてしまいました。そして神の栄光のために死者の中から復活され、死の力を永遠に打ち破ってしまわれたキリストにあって、キリストとともに、新しいいのちの中に生きるものとされてしまっているのです。

④     バプテスマは、聖書の御言葉が告げるように「私たちがキリストにつぎあわされた」ことを公に証することです。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)

 

D まとめ 

バブテスマは、

①     私たちはキリストを信じる信仰によって命の源であるキリストの幹に接ぎ木されていることを意味している。そのことを公に証すること。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)

②     私たちの目に見えないところで現実に起こっているできごとを、目で見える形で表現している。

③     わたしたちとキリストの結合は目に見えないが現実である。「私はキリストと結び合わされているのだ」がキリスト者としての自己認識(アイデンティティ)である。

 

私たちが何であろうが、失敗しようが、私たちはキリストを一度きり信じたことにより、キリストにつぎあわされている。新しい永遠のいのちの中を歩き回っているものであるという認識を持っておかなければならない。