キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(ヘブル人への手紙第5章8節~10節)

 

 イエス様が受けられた多くの苦しみ、とは十字架の苦しみである。

さて共観福音書に記載されているその内容を見てみると、場所や状況について詳細に書かれているが、「多くの苦しみ」についてはあまり書かれていない。

 

 手がかりは処刑前のゲッセマネの園での祈りの場面くらいである。「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と、苦しみの程度について記載されている。人間は極限の苦しみを味わうならば、毛細血管にまで影響を及ぼし、血液が皮膚からしたたりおちるという。

 

 では、なぜイエス様の十字架処刑においては、「父よ、彼らをお赦しください」「父よ。わが霊を御手にゆだねます」というイエス様のお言葉の記述しかないのであろうか。

イエス様の御苦しみを言葉で表現しきれなかったのである。神の怒りの杯を飲み干す、ということはいかに恐ろしいことであろうか。ゲッセマネの祈りにおいて「この杯をわたしから取り除けてください」と、述べられたほどである。

 十字架のあがないのわざとは、単に肉体の苦しみだけではない。罪に対する怒りをなだめるほどの裁きなのである。神の怒りをすべて受けられたのである。神の怒りの杯を飲み干すほどの苦しみは想像も、言葉によってはとても言い表せるわけがない。何より痛み以上に、愛する父との「断絶」が、とてつもない苦しみと悲しみなのであった。

 一身にそれらを味わわれた、その苦しみに代えてまでも、私達一人ひとりを愛してくださったのである。神様にいかに愛されているのか、感謝の思いが沸きあがってくるのである。

 

 また「とこしえの救いを与える者となり」と訳されている「与える」という言葉は、ギリシャ語ではアイティオス(原因・源)となっている。

 救いに関して、これ以上不足しているところはない、ということなのである。行いも、犠牲も、求めない信仰による救いである。

 

 イエス様の十字架処刑がいかに凄惨であったのか、を思い起こさせる。言葉で言い表せないほどのあの犠牲は、私達一人ひとりを個人的に、こよなく愛されたがゆえである。信仰のみによって得られた救いである。感謝と賛美をもって、神に応答しようではないか。